■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#8 -2021年11月20日(土)00時08分
JPLは陸軍の管轄になった。短距離弾道ミサイルコーポラルを完成させると次は固体のサージャントミサイルの開発を始めたが、そこから先、大型弾道ミサイルの開発は他の組織、企業が担当しておりJPLの出る幕は無かった。
1953年、ソ連が水爆実験に成功したと喧伝すると、これを受けて戦略ミサイル評価委員会、いわゆるティーポット委員会はアトラス大陸間弾道弾の開発を最優先とする事に決め、コンベア社を監督するためにサイモン・ラモとディーン・ウルドリッジの会社に任せることに決めた。後のTRW社だ。
JPLは1954年、マリナの次の次の代のマネージャ、ビル・ピッカリング(William Hayward Pickering)の代になって宇宙開発の夢を取り戻した。同年ピッカリングは国際地球観測年に衛星を打ち上げる提案をした。同じ陸軍のフォンブラウンのチームと組もうというものだった。
だが、衛星打ち上げの優先権は海軍調査研究所(NRL)に与えられていた。
NRLのヴァンガードプロジェクトはヴァイキング観測ロケットとエアロビーの組み合わせでは能力が足りないとされ、ヴァンガードロケットTV-2、試験三号機から一段目エンジンをリアクションモーターズ製からGE製液酸ケロシンエンジンへ、二段目をエアロジェットの硝酸UDMHエンジンに変更することになった。
この硝酸とUDMHを使う二段目、エイブルはその後、様々な組み合わせで上段として利用されることになる。ソー・エイブル打ち上げ機の二段目はヴァンガードロケットの二段目と実質同じものなのだ。エンジンAJ-10も改良されながらアポロ司令船やシャトルにまで使用された。日本のN-IIロケットの二段目にもAJ-10は使用されている。
当時開発の難航していたアトラス大陸間弾道弾のバックアッププロジェクト、タイタン大陸間弾道弾の一段目エンジンもエアロジェットは提供している。液酸ケロシンでも四酸化窒素とエアロジン50の組み合わせでも、液酸液水でも動作するLR-87エンジンだ。
実際には、衛星打ち上げ開発の本命はダグラス社から独立したランド研究所がおこなっていた秘密の偵察衛星プロジェクトWS 117L、後のコロナだった。
JPLは再突入弾頭の技術開発のために、フォンブラウンのチームと共に弾道飛行再突入試験の打ち上げをおこなった。この間にフォン・ブラウン、ヴァン・アレンらと共に衛星打ち上げのための準備は進められていた。
フォンブラウンは1950年に弾道ミサイルの予備設計レポートを提出し、従来のV-2ベース弾道ミサイル開発計画ヘルメスC1を改組してノースアメリカン社のエンジンを選択、このRGM-11"レッドストーン"の生産が軌道に乗るとノースアメリカン社はロケットエンジン部門をロケットダイン社として分社した。ロケットダインは以降大型液体ロケットエンジンのメーカーとしてナンバーワンの地位を築いていく。
弾道飛行再突入試験のために使用されたジュノー1打ち上げ機の一段目は次世代ジュピター弾道ミサイルのために新しいアビオニクスを試験するための機体で、だが外見は全くレッドストーンだった。二段目、三段目はサージャント固体ミサイルの固体推進剤をベースにしたベビーサージャントを利用していた。あとは衛星が自分で四段目を持てば軌道投入が可能だったのだ。
1957年10月、ソ連のスプートニクの勝利の直後、サマーフィールドは次のようにコメントした。
"ロシアの "スプートニク "の成功は、遠くない将来の宇宙旅行の本当の可能性を、世界中の人々に説得力のある劇的な証拠として示した。重量184ポンド径23インチの球体をほぼ正確な円軌道に乗せたという事実は、高推力ロケットエンジン、軽量ミサイル構造、正確な誘導、安定した自動制御、大規模な打ち上げ方法など、多くの重要な技術的問題が、少なくとも衛星プロジェクトに必要な程度には解決されていることを示している"
液酸ケロシンの新エンジンを採用したヴァンガードロケット試験機TV-2はスケージュールを大幅に遅延した末に打ち上げられたが、それは衛星打ち上げ機では無かったし、そしてスプートニクの打ち上げのあとだった。
本命の衛星打ち上げ機、1957年12月のヴァンガードロケットTV-3は射点の上で屈辱的な打ち上げ失敗、爆発をした。この直後JPLと陸軍は衛星打ち上げの許可を得て、翌年1月31日にエクスプローラー1号の打ち上げに成功した。
その年のうちに連邦政府下の文民独立の宇宙開発機関NASAは発足し、その二か月後にJPLはNASAの管轄に組み替えられた。但しカリフォルニア工科大学の管理下であるのは変わっていない。ビル・ピッカリングはそのまま1976年までJPLのディレクターを務め、宇宙開発の範囲を外惑星まで押し広げた。
1955年にようやく銭学森は中国に帰国することが出来た。
ここからの銭の経歴は更に激動の中に置かれることになる。
帰国後の翌年2月、銭は意見書"建立中国国防航空工業的意見"を党中央に提出し、早速3月には中国の科学政策の中にロケット開発が組み込まれている。4月には航天工業委員会が立ち上げられ、5月には弾道ミサイル開発が決定された。10月、銭学森は新設された国防部第五研究院の院長となった。
1957年8月、ソ連からの技術援助が受けられる事が決まり、ソ連製弾道ミサイルR-1、R-2、R-5のコピー生産が優先されることになる。時は大躍進政策の頃、人工衛星を打ち上げたソ連はまぶしい存在で、中国も独自の人工衛星打ち上げをおこなうことが決定された。銭の管轄範囲は一挙に拡大した。
だがこのソ連との蜜月は2年も続かなかった。1959年6月、中ソ間の関係冷え込みに伴い、中国への技術支援は打ち切られる事となった。更に衛星計画は国力に不相応と、開発の停止判断がなされ、弾道ミサイルの開発に注力する事となった。
1960年2月、上海交通大学の柳南生と王季希は観測ロケット、探空7号模型ロケットを打ち上げた。これは構想された探空7号の縮小モデルだった。推進剤はフルフリルアルコールとアニリンの混合物と赤煙硝酸の組み合わせで、打ち上げには長大なガイドレールを用いていた。これはWACコーポラルの技術そのものであり、もちろん銭学森の助言のもとに製作されたのであろう。上海交通大学は銭学森の母校である。
中国の宇宙開発はWACコーポラルの段階からやり直しを図ったのだ。この地道な努力は1960年代を通じて続けられた。
しかし1966年には文化大革命がやってくることになる。
銭学森は1967年初頭に平職員の地位まで降格され、自己批判文への署名を強要された。混乱の中、銭は権力におもねり、権力者の敵を批判した。銭にとって不幸だったのは、批判した相手がケ小平だったことだろう。
1976年の四人組の逮捕とケ小平の復権によって中国の宇宙開発は再び動き出したが、そこに銭学森の姿は無かった。銭学森は宇宙開発の最高指導者の地位を追われた。
銭学森はその後、気功の研究に手を出す事となる。銭もまたパーソンズを通じてオカルトに魅力を感じていたのかもしれない。彼が気功を科学の研究対象であると宣言した事により、中国で気功はブームとなる。
銭学森自身は、その後1989年の六四天安門事件において、ケ小平と李鵬らを支持する声明を発表する事により、再び露骨に権力側にすり寄った。その甲斐あってか、1991年には、国家に貢献した科学者たちの列に銭学森は再び加えられている。
1958年、チオコールはリアクションモーターズを買収した。チオコールは固体弾道ミサイルの推進剤供給で業績を上げ、スペースシャトルのSRB製造を担当したが、チャレンジャー事故で原因とされて評判を落とした。
ジェネラル・タイヤ・アンド・ラバー社はやがてエアロジェット社を完全に傘下に置き、その過程でカルマンやサマーフィルドの所持株はジェネラル・タイヤ・アンド・ラバー社に買い取られた。同社は1984年にジェンコープに改名した。
2013年、エアロジェット社はジェンコープに買収されたロケットダイン社と合併し、更に親会社ジェンコープとも合併してエアロジェットロケットダイン社となった。
更に2020年、エアロジェットロケットダインは50億ドルでロッキードマーティンに買収されている。
自宅の裏庭でロケットをつくるロケット愛好家たちは現在に至るまで絶えることなく活動を続けている。
反動推進協会 Reaction Research Society(RRS)は1943年1月に南カリフォルニアロケット協会として誕生し、以来ロケット打ち上げ続けてきた。別に存在したカリフォルニアロケット協会との混同を避けるために2か月後にグレンデールロケット協会と名を変え、更に1946年に今の名前になった。
この団体は1949年と50年に液体一液式ロケットを打ち上げている。彼らは1955年にモハーベ砂漠の端に土地を確保し、以来テストスタンドや射場が整備されている。7トン近い推力の液体エンジンの開発経験があり、同時に初心者にも扱いが容易で安全な固体推進剤の開発にも熱心である。
カリフォルニアロケット協会も現在まで存続し、熱心にアマチュアロケットの打ち上げイベントを開催している。彼らの打ち上げイベントは年二回開催され、毎回600〜700人の若者が両親とともに集まってくる。
トリポリロケット協会は1964年にペンシルベニア州アーウィンの高校生が設立した科学クラブにその起源を遡る。この設立の際にメンバーの親が活動資金にと寄付した金貨がレバノンのトリポリから来たものだったため、クラブ名はそう決定された。やがて活動はアマチュア用ロケット打ち上げが主なものとなった。
彼らは他の高校と、同じ高校生同士でアマチュアロケット打ち上げの横のつながりを作り、やがて高校のクラブから独立した組織に成長した。メンバーのうち数人がアマチュアロケット製造企業に就職し活動を継続したが、残りの熱心なメンバーはやがてハイレベルなロケット打ち上げ活動を断念していった。
1985年に全米ロケット協会が全国のアマチュアロケット組織をまとめようとしたとき、活動をなんとか継続していたトリポリロケット協会はその下地を提供した。現在トリポリロケット協会は全国組織として規約を作り、規制を取り払う作業をおこなっている。全米ロケット協会は更にモデルロケットモーターを認定し、会員証を発行し、保険制度を整備し、奨学金制度を運用している。
2004年、アマチュアロケット活動家の有志で組織されたチーム、Civilian Space eXploration Teamは直径10インチの固体推進剤ロケットで高度116kmに到達した。
月に最初の人間が降り立った後も、多くの人間が自分でロケットを作り、打ち上げ、宇宙に挑み続けた。政府機関や軍だけでなく、アマチュア組織や民間企業も宇宙開発に参加するようになった。
1980年に設立されたスペースサービス社は、液酸ケロシンのガス押し式ロケットで安価に衛星打ち上げ機を構成できると主張していたゲイリー・ハドソン(Gary C. Hudson)らと独自民間ロケット、ペルシュロン打ち上げ機の開発をおこなったが、最初の打ち上げ機を射点の上で爆発によって失うとハドソンは去り、代わってドナルド・スレイトンを迎え入れた。
新しく開発されたロケット、コネストガは、カストール固体ロケットを束ねたものだった。カストールの元々はJPLで開発されたサージャント固体ミサイルである。1990年にNASAに売り込まれたこの固体4段式ロケットは1995年に打ち上げ後46秒後に爆発し、以降打ち上げを断念した。
1981年に設立されたスターストラック社は1984年に液体酸素と合成ゴムの組み合わせのハイブリッドロケット、ドルフィンの打ち上げをおこなった。海上打ち上げの全重7.5トンの試験機は最大で7km飛んで失敗に終わり、スターストラック社は解散となった。
1985年に設立されたAMROC(American Rocket Co.)社はスターストラック社の人員と技術を受け継いでハイブリッドロケットロケットの提案をした。しかしAMROC社のSET-1ロケットは1989年のたった一度の打ち上げに失敗、射点で離床に失敗して破壊、その後この技術はSpaceShipOneのハイブリッドエンジンに使用された。
最初に軌道到達を果たした民間企業はオービタルサイエンシズ社で1990年のことだった。1982年に純民間のベンチャー企業として設立されたオービタルサイエンシズはデータ分析や衛星用の軌道投入上段を開発しながら企業規模を大きくしていき、1987年に空中発射打ち上げ機ペガサスの開発を始めた。ペガサスは中止された軍の技術開発計画の成果の転用にバート・ルータンの空力設計が結びついたものだった。
ゲイリー・ハドソンはアメリカの宇宙開発史の中でも特筆すべき人物の一人だろう。
彼はペルシュロン打ち上げ機の開発現場を去った後、1982年に自ら設立したパシフィックアメリカンローンチシステム社でリバティ低コスト衛星打ち上げ機を構想、開発しようとした。だが、リバティ打ち上げ機の開発は一段目を作り上げたところでDARPAの資金援助が打ち切られて終わった。DARPAは新しいペガサス打ち上げシステムの方が有望だと考えて援助先を切り替えたのだ。
ハドソンの挑戦はそれで終わりでは無かった。彼は1996年にロータリーロケット社を設立、ユニークなロトン打ち上げ機の開発を始めた。だが当初の設計にあった回転式環状エアロスパイクエンジンはあまりにも独特で、動作する小型の試験検証エンジンすら制作されることなく、1999年にこのエンジンの開発を放棄してNASAのFastracプログラムの成果を利用することにした。この時点でロータリーロケットの資金調達は困難になっており、2001年に同社は破綻した。
リバティ打ち上げ機そのものはハドソンから事業を譲渡されたパックアストロ社によって開発が継続された。しかし1997年、開発に成功した7トン液酸ケロシンエンジンに続いて13トンエンジンの開発を始めたところで、商業的に成功の見込みが無いとして開発は打ち切られた。
ロータリーロケットの残党はXCOR社を設立しロケット推進飛行機を開発、次いで弾道飛行する宇宙観光用の機体を作ろうとしたが、結局資金がもたなかった。
Fastrac液酸ケロシンエンジンは元々はオービタルサイエンシズがNASAとの契約で制作していたX34弾道飛行機のために開発されていたものだった。X34はペガサスのように空中分離されてあとは自力でマッハ8まで到達、その後自動で着陸するというデモンストレータ機で、完成近いところで開発はキャンセルされた。
オービタルサイエンシズ社はその後2006年に、国際宇宙ステーションに民間で補給をおこなうNASAのCOTSプログラムに応募、同様にCOTSプログラムに応募していたキスラー社、旧ソ連製NK-33エンジンを用いた再使用打ち上げ機を開発していた会社と協力関係となった。キスラー社はCOTSプログラムのマイルストーンを達成できずに事業を畳んだがオービタルサイエンシズはエアロジェットAJ-26、つまりキスラーが買っていたNK-33エンジンを買って使用するアンタレス打ち上げ機でCOTSプログラムを達成した。
SpaceX社の最初の衛星打ち上げ機ファルコン1の最初の一段目エンジン、マーリン-1Aの燃焼室はゲイリー・ハドソンの作ったエンジンによく似た、炭素繊維を巻き付けて強度を増しアブレーション冷却を採用していた。これはカリフォルニアのアマチュア系液体エンジンでよく見られる系統の技術である。またターボポンプはFastracプログラムの技術を利用したものだった。
マーリンの成功は元TRW社員のトム・ミューラ(Thomas John Mueller)の才能によるところが最も大きい。彼は反動推進協会のメンバーであり、そこで会社では実現できない独自の液体ロケットエンジンを開発していた。彼のエンジンの燃焼室はカリフォルニアスタイルだった。更にマーリンには彼が導入したピントルインジェクタが使用されている。
SpaceXもCOTSに参加し、ファルコン9打ち上げ機とカーゴドラゴン宇宙船でプログラムを達成した。
SpaceXの成功の陰には、名もなく散った様々な民間ロケットプロジェクトが存在し、それらプロジェクトには更に裾野としてアマチュアロケット活動が存在している。それはアメリカのロケット技術の裾野の広さと、宇宙を目指す精神を示している。
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本記述は "Strange Angel" George Pendle 2005 ISBN 978-0-15-603179-0(ペーパーバック版)を主に、"Martin Summerfield and the first USA operational liquid-propellant rockets" Lh Caveny 2013 などを参考にした。
引用画像は図4下は""History of Liquid propellant rocket engines" Sutton p368より引用、残りはパブリックドメインである。
■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#7 -2021年11月20日(土)00時01分
パーソンズも海外移住を考えるようになったが、カルマンへの相談の結果、良い就職先には数学の学位が要るという助言から南カリフォルニア大学の夜学に通うようになる。
しかし、ノースアメリカン航空の従業員を調査したFBIは、パーソンズの過去を理由にセキュリティクリアランスを剥奪し、パーソンズは夜学からも放り出された。
これは既にパーソンズの周囲の人たちに起きていたことだった。パーソンズには学位が無く、従って大学に保護するような、のちにサマーフィールドに対して使われた手段も無効だった。
キャンディーは神秘的なロケットサイエンティストでなくなったパーソンズに興味を無くし、メキシコの芸術家の集まりに参加するために家を出て行った。
独りになったパーソンズは週末にガソリンスタンドで整備士として働き始めた。彼はまた、病院で助手として働き、南カリフォルニア大学の薬理学部のスタッフを一時的に勤めもした。
1947年12月にアレイスター・クロウリーは死んだ。クロウリーの死後もパーソンズは魔術に囚われたままだった。
ジョージ・P・サットンは、1948年に名著"Rocket Propulsion Elements"の初版を完成させ、1956年には第2版を出版した。この本の影響は劇的で、以後のアメリカのロケットエンジン開発を定義付けた。サマーフィールドは初期の版に占めるドイツ系の図表の多さに苦言を呈しているが、自分たちの仕事について書くわけにいかなかったのだから仕方のない話である。
フォレスト・J・アッカーマンはこの時期、SFファンの集いに見慣れない人物が紛れているのに気付いていた。SFファンたちはFBIに警戒されていたのだ。
1949年6月、マリナは新しい妻と共にアメリカを訪れ、旧友たちと再会した。アンドリュー・G・ヘイリーが開いた盛大なパーティで、一同はパーソンズにもう一度詩を暗唱して欲しいと頼み、そしてパーソンズはよく暗唱していた詩を窓際で暗唱した。
マリナがアメリカを去った日、オッペンハイマーが共産主義者だったと弾劾され、数日後にはワインバウムと共にマリナも告発された。数日離米が遅かったらマリナは拘束されていたはずだ。
パーソンズは当初ワインバウムとの会合についてその内容について擁護したが、その後一転してその会合の内容についてFBIの望む内容に偽証した。この時期パーソンズはイスラエルへの移住を考えるようになっており、ここでセキュリティクリアランスを失ってイスラエルへの移住条件を失うのを避けたかったようだ。
サマーフィールドはFBIによって過去の共産主義者との交友を問題とされてセキュリティクリアランスを失い、1949年にJPLを退職した。セキュリティクリアランスを失った直接の原因は証言そのものの拒否、特に大学での級友だったフランク・オッペンハイマー(ロバート・オッペンハイマーの弟)についての証言の拒否にあったようだ。彼はカルマンの勧めによりプリンストン大学に移るとアメリカロケット協会のジャーナル紙の編集者となり、翌年プリンストン大学の教員となった。直後に彼は自前の固体ロケット推進・燃焼研究所を設立した。サマーフィールドは赤狩りでセキュリティクリアランスを失った知り合いや技術者たちを多く研究所に招聘することに成功している。
サマーフィールドのアプローチは燃焼現象そのものの観察と分子レベルでの反応の評価だった。そのためにサマーフィールドと学生たちは実験を重視し実験装置を自作した。
後にサマーフィールドは固体ロケットの権威として知られることになる。
銭学森もまたセキュリティクリアランスを失い、そしてカリフォルニア工科大学の教授職も失うことになった。記録的な最年少の教授からの転落だった。せっかく取得したアメリカ国籍も何の役にも立たなかった。
銭は中国に帰ろうと計画を立てたが、荷物を先に中国に送り出したとき、税関で荷物から機密スタンプのある書類が発見された。実際には銭自身の書いたものであり問題ないはずだったが、次いで暗号表のようなものが発見されるに至り、銭は拘束された。実際にはそれはただの対数表だった。
銭学森の帰国は朝鮮戦争時の米兵捕虜との交換で実現した。但し帰国は銭の研究が先端性を失うまで5年待たされた。この時期に彼が研究していたのは、コンピュータによるロケット誘導という当時最もホットな分野だったのだ。
アポロ・スミスは1937年の夏にワインバウムのバンガローに行かなかったおかげで、赤狩りをまぬがれていた。彼はダグラスエアクラフトの主任空力エンジニアとして、エアロビーなどのロケットの空力を担当してその後のキャリアを過ごした。
パーソンズのセキュリティクリアランスが戻ると、パーソンズはヒューズエアクラフトに就職した。パーソンズのイスラエル移住の望みを叶えるべくカルマンはハーバート・T・ローゼンフェルドと接触、仲介した。ローゼンフェルドにはイスラエル政府との強力なコネがあった。そしてイスラエルにとってロケット技術は魅力的だった。
1949年9月、パーソンズのイスラエル移住に当たってローゼンフェルドは技術資料の提供を求めたが、パーソンズが類似の資料をヒューズエアクラフトの同僚に問い合わせたとき、パーソンズは共産主義者のスパイの疑いがあるとして告発された。パーソンズの過去は調べられ、大量のいかがわしい評判がFBIによって発掘された。ローゼンフェルドはさらに特定のソ連人との繋がりについて調査されることになり、ここにパーソンズのイスラエル移住は頓挫した。
10月にパーソンズへの起訴は根拠なしとして拒否されたが、やがてパーソンズのセキュリティクリアランスは永久に取り消された。
1950年5月号のアスタウンディング誌で、満を持してL・ロン・ハバードのダイアネティクスは紹介された。ジョン・W・キャンベルはそれからほぼ一年間、ロン・ハバードの熱烈な信者となってダイアネティクスを世界を変える画期的な精神療法として持ち上げ、紙面でもてはやし続けた。この時期キャンベルはハバードがノーベル平和賞を獲るだろうとまで主張していた。
ダイアネティクスはある意味画期的な発明だった。神秘主義とニセ科学はちょうどよく混合され、クロウリーの抹香臭さは払拭されていた。ハバードの"科学的手法"は吃音を治療し視力の低下を矯正し、学習障害を克服して知性を高めることを約束していた。
希望者は新しく設立されたダイアネティックス研究所で、たった600ドル払うだけで10日間のセラピーを受けることが出来た。ミサではなくセラピーと名前を開けていたが、その実態はパーソンズのロッジそのままの構造である。
ハバードは瞬く間に新興宗教と呼ぶべき組織を作り上げていった。ダイアネティックスはその宗教、サイエントロジーの教義の一つとなった。
サイエントロジーでは世界は邪悪な宇宙人によって遠い過去から既に支配されており、だが精神の正しい使い方に目覚めた人々によって、その超越的能力で勝利するとされている。どこかで聞いたような話だが、これがそれらの先祖なのだ。
ハバードがパーソンズのロッジを信用詐欺で破滅させた件について、サイエントロジー教会はこれはハバードが米海軍からの依頼で黒魔術カルトを解体したのだと主張している。ハバードは邪悪なカルトを破壊し、グループの人々を救助したのだそうだ。
1952年6月、恐らくは実験中の何らかのミスによる爆発によってパーソンズは死亡した。
パーソンズは失意の後南へ、メキシコへの旅行を考えるようになっていたが資金が足りなかったため、彼は再びカルマンを頼った。カルマンは映画産業用の爆発物を製造している企業を紹介した。それは当初面白い仕事だったが、やがて仕事への興味を失ってしまった。
パーソンズはメキシコで花火会社をつくるアイディアを弄ぶようになっていた。旅行の準備のために彼はため込んでいた化学物質をいくらか安全な倉庫に移動させることになっており、その最中の事故だった。37歳だった。
月の裏側、モスクワの海の東1000kmの位置にある径40キロメートルの古いクレータの一つには、彼にちなんでパーソンズと名前が付けられている。
ハインラインの「夏への扉」の主人公ダンのモデルはパーソンズだったのかも知れない。パーソンズは、エアロジェットの株譲渡の一件に付いてマリナが裏切ったのだと考えていたのだろう。同時に国外脱出を果たしたマリナを羨ましくも思っていた筈だ。ハバートとベティの役どころは夏への扉にはぴったりだ。ベティにはもう一役あてがわれているように見える。サットン夫妻さえ元ネタが割れそうだ。
だが、パーソンズには猫も美少女の姪も、勿論タイムマシンも無かったのだ。
パーソンズの死後もその影はフォーマンにつきまとい続けた。フォーマンは北カリフォルニアでヒューズエアクラフトとロッキードのミサイルシステムのテストエンジニアの職をみつけた。だがフォーマンは快活さを失い、攻撃的になったと彼の家族は証言している。
パーソンズの死から2年後、フォーマンは砂漠の夜のドライブの最中、車の後部座席にパーソンズの存在を感じた。二人は子供の頃、どちらかが死んだら、死んだ方の精神は死後の世界から生き残った方に何らかの連絡を送ると約束しあっていた。
だがパーソンズはそれが起こったとき、とても恐ろしいと感じていた。
マリナはアメリカ国外にいてもFBIからの圧迫を受け続けていた。彼はユネスコを辞任せざるを得なくなり、1953年に彼は辞職すると動く彫刻、キネティックアートの芸術家となり、また現代美術誌の編集者としてキネティックアート運動を盛り上げた。マリナは実験的な作風で環境芸術的では無かったためアーティストとしては大成しなかったが、エアロジェットの株式を保有し続けていたので経済的には恵まれていた。
1959年にはアメリカへの旅行が可能になり、1965年にはマリナに対するFBIの捜査は終了したとされている。
1968年のハロウィーン、あのデビルズゲートダムの燃焼実験から33年を記念した行事でJPLに招待されたマリナは、そのスピーチの最後に、「結論として、私はジャック・パーソンズに敬意を表したい」と締めくくった。
アメリカロケット協会のジャーナル紙の名前は1954年にジェット推進になった。これはそれまでの読者、アマチュアロケット愛好家やSF作家たちとの決別の始まりだった。紙面には企業の専門的な記事が増えていった。アメリカロケット協会は1963年にAIAAに合併されることになる。
サマーフィールドのオフィスには、マリナから贈られたキネティックアートがずっと飾られていた。
■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#6 -2021年11月20日(土)00時00分
戦争の終わりが見えてくるにつれて、マリナは兵器開発に協力し続けるモチベーションを失っていた。マリナは以前からのアイディア、高空観測用のロケットを実際に飛ばすことに集中することにした。
プライベートロケットたちは高速風洞で様々に研究され、次の段階へ移行する準備が整いつつあった。様々な翼のついた機体形状が試されたが、最終的には後端に小さな安定翼のついた細い鉛筆形状が選ばれた。この時にその後のアメリカのロケットの形状を決定したのかもしれない。
次は液体推進剤を使ったWACコーポラルロケットだった。WACとは姿勢制御無し(without Atitude Control)の略だった。このロケットは既成の液体JATO XF30Lを流用してタンクを延長した、径30センチ(12インチ)の機体で、姿勢制御がない分はガイドレールの櫓を使ってまっすぐ飛ばすことで補っていた。このガイドレールはプライベートロケットの段階から採用されたものだった。WACコーポラルには推進剤を燃焼室に送り込むポンプの代わりに圧縮空気のボンベがあった。この圧力で推進剤を送り込むのだ。
WACコーポラルの次が陸軍の要求を満たす、径30インチのコーポラル弾道ミサイルの筈だった。この弾道ミサイルのために銭学森が姿勢制御の研究を受け持っていた。
WACコーポラルはガス押し式で燃焼室にはプレート式インジェクタを採用し、インジェクタは衝突式だった。ペイロードは11kg程度になる。
WACコーポラルの最初の地上試験は1944年9月におこなわれ、10月にはホワイトサンズ射場で最初の打ち上げが行われ、高度72kmに到達した。この性能は戦前のアマチュアロケットの水準から隔絶したものだった。その月のうちに6機が打ち上げられ、4機が成功した。
1937年以来の、スーサイドスカッドの当初目指していた目標は、ここにようやく達成された。マリナはちゃんとロケットを飛ばしてみせたのだ。
図6:WACコーポラル
この年、JPLに勤めていたチャールズ.E.バートリーは、固体推進剤のバインダーとしてアスファルトの代わりにチオコール合成ゴムを使用して、更に高性能な鋳造可能固体ロケットを開発した。彼は更に固体推進剤の星形の内面燃焼グレインを発明している。
バートリーは1952年に自分の会社、グランドセントラルロケットカンパニーを設立して固体推進剤を生産した。
一方でチオコール合成ゴムの供給元であるチオコール社もまた固体ロケットの材料としてのチオコール合成ゴムに気づき、自社製造の固体推進剤を開発、1948年には量産を始めている。
1945 年から 1946 年にかけて、マリナとサマーフィールドは WACコーポラルプログラムの一環として、ロケットによって人工物を軌道に投入するために必要な条件を計算し、論文にとして公表した。
アメリカ物理学会ジャーナルに掲載された論文"Physics of Rockets: Dynamics of Long Range Rockets"には多段式ロケットの構成例が描かれている。ただそれは非現実的な規模のものだった。仮定された構造重量比とアビオニクス重量が過大であり、エンジン性能もまだブレイクスルーを必要としていた。そのため、多段式大型ロケットを開発して衛星打ち上げをおこなうという彼らの主張は、高官の支持を得ることはできなかった。
1947年にJournal of the Aeronautical Sciencesに投稿した"The Problem of Escape from the Earth by Rocket"では液酸液水推進剤や核動力まで言及している。
これら論文は各国で参照された。ソ連でも多段式ロケット/弾道ミサイル研究の出発点として利用されている。
1945年はランド研究所の原型が生まれた年でもある。ダグラス社の内部プロジェクトRANDはその設立直後に衛星の軌道投入のための打ち上げ機の仕様について研究を始めた。またこの頃、海軍調査研究所(NRL)は液酸液水単段打ち上げ機による軌道周回機HATVの提案をした。HATVは1951年までに衛星打ち上げを果たすという野心的なものだった。これは現在まで宇宙開発史のあちこちに現れるペーパープランのガラクタたち、液酸液水SSTO機の祖である。
しかし1948年にこれらデザインが外に漏れたとき、税金の無駄遣いだという批判が起きた。NRLはHATVを断念し、もっと現実的な観測ロケットを開発することになる。
パラシュート回収機構とそのためのノーズコーン分離機構を持ち、そのために10cm全長を延長したWACコーポラルBは翌年5月から打ち上げられた。
1946年、サマーフィールドはマリナにWACコーポラルをV-2の先端に付けて二段目として使う提案をした。この提案は実行に移され、この"バンパーWAC"によって1948年から1950年にかけて8つの飛行記録が樹立された。
バンパーWACはただ単にとってつけた代物ではなく、二段目の空中点火やスピン用の小型固体ロケットによる二段目のスピン姿勢安定などの多段ロケット向けの新技術が試されていた。スピン用の小型小型推進剤には星形の内面燃焼グレインが採用されている。
1950年代初頭にNRLやランド研究所によりもう一度多段式ロケットの要件が再検討された際には、ロケット性能の向上と製造技術の向上により、ロケットの総重量は1桁から2桁減少した。さらに、急速に進化し洗練されたアビオニクス更に質量を減少させるだろうことが予想された。
しかしその頃にはマリナも皆も既に表舞台から去り、軌道到達は更に5年以上検討される事なく停滞することになる。
1946年にはパーソンズたちの豪邸のロッジは、新たなメンバーを片っ端から集めた混沌になっていた。古い信者たちは去り、占い師やサイレント時代のオルガン奏者、核物理学者やSF作家がひしめきあっていた。戦争が終わり、復員はしたが家の無い人間にとってここは理想的な居場所だった。
そんな一人としてL・ロン・ハバードがやってきた。彼は既にSF作家として知られており、パーソンズによる住民の選考基準に問題なくパスし、すぐに馴染むとこれまでの冒険譚を語り始めた。
明らかに誇張されたその冒険譚は聞く人にとっては嘘ばかりであるのは自明だったが、パーソンズは彼の語りに強く魅了された。明らかに戦時徴兵された身の筈なのに中尉だったり(促成の通信士官プログラムは存在したが、レーダーの面倒を見る、つまり電子工学を叩き込まれることが前提のプログラムだった。ハインラインやアシモフと張り合うつもりだったのかも知れないが、ハインラインは元々海軍士官、アシモフは大学院生だった)、いかだで日本占領下のジャワから脱出したり、護衛駆逐艦(通常艦長は少佐)を指揮して大西洋と太平洋で対潜作戦に従事したり、真面目に聞く奴が馬鹿を見るような内容だったが、パーソンズには関係なかった。
そもそもハバードは神秘主義的な作風で、ジョン・W・キャンベルのファンタジー系誌"アンノウン"の常連として、心の力で人を殺したり癒したりするパーソンズ好みの作品を書いていたのだ。
ロン・ハバードは目に見えてロッジを支配するようになり、ベティと寝るようになった。
それまでパーソンズはクロウリーの教義にある緩い性的基準を肯定してはいたが、実際にはセックスの相手はベティに限られていた。クロウリーの教義では嫉妬は排除されるべきものだった。
パーソンズはベティを失った事に明らかに苦しんでいたが、それを認めなかった。パーソンズは魔術に以前にもまして真剣にはまり込んでいった。その真剣さはフォーマンを終生の神経症にしてしまうものだった。フォーマンはそれからずっと夜の窓の外に悪夢を見続けることになる。
パーソンズは砂漠へ行き、炎と狂気にまみれた幻視をした。パーソンズは幻視がクロウリーの教義に適合することを望んでいたが、それは明らかにパーソンズの心の奥底から噴き出したものだった。
パーソンズは新しい使命を帯びたと考え、ロッジを解散し豪邸を売り、新会社を設立した。新会社はパーソンズとL・ロン・ハバード、そしてベティを代表とし、まず3隻のヨットをマイアミで購入、西海岸まで回航して販売する計画を立てた。その資金はほとんどが実質パーソンスの拠出したものだった。
それは明らかにハバードとベティによる信用詐欺の計画だった。周囲の人間はパーソンズに警告したが精神的に不安定になったパーソンズはハバードの説得に容易く屈した。クロウリーからの警告の手紙によってパーソンズはようやく詐欺の計画を悟り、阻止すべく動いたが、手遅れだった。
ヨットの所有者はハバードとベティの二人として登記されており、新会社は法廷を経て清算解散し、そして一か月後ハバードとベティは結婚した。
パーソンズはクロウリーに手紙を書き、ロッジ責任者を辞任した。
フォーマンはパサデナから出て行った。パーソンズはノースアメリカン航空に就職し、新たな恋人、キャンディーと共にマンハッタンビーチに引っ越した。
やがてヘレンとの正式な離婚が成立すると、パーソンズとキャンディーは結婚した。
世界各地で空飛ぶ奇妙な物体の報告が多くなされるようになったのがこの年の夏からだった。
翌年夏にケネス・アーノルド事件が起きて、それらは"空飛ぶ円盤"の名前を手に入れた。これはやがて古い妖精に代わって銀色の宇宙人たちがやってくる、その前兆だった。
1946年に銭は、JPL とエアロジェットの技術資料を編集し、23章818ページの大著"Jet Propulsion"にまとめた。このドキュメントは1955年に機密扱いが解除されている。
この年に銭は結婚し、1950年には米国籍を取得している。
東海岸のリアクションモーターズはベルX-1ロケット機用のエンジンRMI 6000-Cを完成させようとしていた。このエンジンはターボポンプを使用していた。ターボポンプとはガスタービンでポンプを駆動するもので、例えばV-2は過酸化水素の触媒反応で出来る熱い水蒸気でタービンを動かしている。コンパクトでパワーの出るターボポンプこそ液体ロケットに求められていたポンプだった。このエンジンは後にXLR-11と呼ばれることになる。ベルX-1は1947年10月に音速を突破した。
ダグラスはNike-Ajax地対空ミサイルの液体エンジンとしてエアロジェットの21AL-2600エンジンを使用することにした。同じ頃ジョンホプキンズ大学のジェームズ・ヴァン-アレンは高層大気観測用に手頃なロケットが欲しいと考え、エアロジェットに接触した。ヴァン−アレンの考える用途にはV-2は大きすぎ、できればWACコーポラルのようなものが最適であろうと考えた。
完成したロケット、エアロビーはエアロジェットの21AL-2600(AJ-11)液体エンジンを2段目に、1段目ブースターに2KS-22,000固体モーターを採用した無誘導二段式で、高度130kmまで到達することが出来た。エアロビーは観測ロケットの定番として多数が様々な場所で打ち上げられた。
海軍調査研究所(NRL)の観測ロケット開発計画は、リアクションモーターズ社製XLR-10エンジンをジンバリングし独自慣性誘導をおこなうヴァイキング観測ロケットとなった。このロケットはしばらくするとコストを理由に製造を打ち切られるが、後に衛星打ち上げ計画のためにヴァンガード打ち上げ機の一段目として復活した。最初のヴァンガード打ち上げ機の構想はこのヴァイキングを一段目として、二段目にエアロビーの二段目を採用するものだったのだ。
この年、陸軍も海軍も空軍も、弾道ミサイルの開発のために様々な企業と契約をすることになる。コンベア社の契約はアトラスICBMに繋がることになる。陸軍はドイツ人たちに弾道ミサイルを作らせようとし、これはレッドストーン弾道ミサイルに繋がる。
このような急速な軍事拡張には理由があった。冷戦が始まろうとしていた。それは国内の猜疑心としても強く広がっていった。赤狩りが始まったのだ。
マリナの家が略奪にあったが、何も盗まれてはいなかった。マリナは妻と別居状態だったが、ニューヨークの妻の車も荒らされていた。明らかにFBIの手による行為だった。
1946年12月、マリナは休職中に退職し、アメリカを離れてパリの国連教育科学文化機関(ユネスコ)に就職することを決意した。生物学者のジュリアン・ハクスレーからユネスコへの就職を打診されていたのだ。彼はロケットが弾道ミサイルになり、そして核を搭載するであろうことに心を痛めていた。実際、正式配備されたコーポラルミサイルはヨーロッパの前線で核を搭載することになる。
翌年、マリナはアメリカを去った。
マリナがロケット開発において優秀な指導者、組織者であったことは間違いない。同時にマリナが人道主義者であったことも事実である。ロケット開発者が全員、悪魔に魂を売ることも辞さない訳ではないのだ。
■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#5 -2021年11月19日(金)23時43分
これらJATOシステムの生産をどうするか、既存の航空機メーカーへの打診ははかばかしくなく、フォン・カルマンとマリナは独自の企業を設立することにした。カルマンは知り合いのワシントンDCの弁護士アンドリュー・G・ヘイリー(Andrew Gallagher Haley)に企業設立の手続きを依頼した。
ヘイリーもまた異端だった。連邦通信委員会(FCC)の法務部に勤めて10年、インチキ薬の宣伝に関わった放送局を血祭りにあげ続け、後には自分で放送局を設立しさえもしている。後には国際宇宙航行連盟(IAF)とアメリカロケット協会(ARS)に関わり、宇宙法の基礎を築くことになる。
ヘイリーは当時、連邦動力委員会の訴訟で忙しかったが、カルマンのチームはその訴訟に勝つための証拠を提供することでヘイリーの協力をとりつけている。
エアロジェット・エンジニアリング・コーポレーションはパーソンズ、フォーマン、マリナ、カルマン、サマーフィールドの5人が出資者となって250ドルずつ拠出して設立された。事務所はジュース工場の跡に開設された。
人員は再び拡充され、スーサイドスカッドのメンバーたちはアロヨセコとジュース工場の間を飛び回った。この時にアポロ・スミスもエアロジェット社に入社している。
問題は新会社の最初の製品となるはずの固体推進剤JATOの品質だった。この時期の最新の推進剤GALTIC46は28日間の加速温度環境テストで30%の不具合率をまだ出していた。
行き詰ったパーソンズは5月、何かヒントをつかめないかと全国のアマチュアロケット活動家を訪問して回った。そこで見たものに対するパーソンズの批評は辛らつだった。もちろんそれらは過去の彼らの姿でもあった。だがパーソンズはそこからずっと進歩してシステム的な開発の仕方を既にマスターしていた。
何も得ることなく帰ってきたパーソンズだったが、この直後に画期的な閃きをものにして固体推進剤の問題を解決した。固体推進剤中の黒色火薬を取り除き、アスファルトで置き換えるというのだ。
アスファルトと過塩素酸カリウムの混合物は全ての温度環境試験に合格した。この鋳造可能な固体ロケット組成GALTIC53は生産性が極めてよく、そして安全だった。これは最初のコンポジット推進剤であると言えるだろう。
固体推進剤の生産過程は労働集約的なものになった。アスファルトの塊を斧で切り、鍋で溶かし木の櫂でかき混ぜるのだ。
パーソンズはここでいっとき休暇を得て東海岸を旅行している。ここでクロウリーの弟子たちと会い、良好な評価を得た。
この時期にパーソンズは、妻ヘレンの異母姉妹ベティと肉体関係を持ち、ヘレンと離婚寸前のところまでいっている。最終的にパーソンズが謝罪して関係は修復されたが、問題は二人がハマっているクロウリーのグノーシス主義教義ではフリーセックスが推奨されていることだった。クロウリーの教義によれば嫉妬はあるべきではないものだった。従来パーソンズはヘレンとしか関係を持っていなかったが、ヘレンの感情をさしおいてぺーソンズとベティの関係が深まることとなった。
教義に忠実だったパーソンズはやがて自ら、内部から、頼るべき精神的支柱を破壊していくことになる。
パーソンズは更に、ロサンゼルスのOTOの集会場兼宿泊施設を現在のハリウッドのはずれのさびれた地域からパサデナへと移動させる計画に手を付けた。パサデナのかつての大富豪たちの邸宅を安く(月に100ドル)賃貸して住むのだ。
それはあちこち古びてはいたが大豪邸であり、ここにマリファナとフリーセックスにふける怪しげな40名近くの不特定多数が住み着くことになった。パーソンズは全員をうまく組織化しようと懸命に働いた。また収入もこの生活を支えるために注ぎ込まれた。やがてヘレンは妊娠したが、それはパーソンズの子ではなかった。
やがてこの豪邸のロッジから、以前の指導者がクロウリーの手紙によって排除された。手紙は以前の指導者を褒めたたえ、新しい使命につかなければならないと書いていたが、それはつまり新しい使命とやらのために出て行けという事だった。クロウリーはパーソンズが指導者となることを望んでいた。そうなればパーソンズは新たに多くの信者を獲得するだろうとクロウリーは踏んでいた。クロウリーは新しいタロットカードのデッキをデザインし出版するための資金を必要としていたのだ。
しかし、この策略は古くからの信者たちを裏切るものだった。やがて古い信者たちは豪邸から一人一人と去っていった。
パーソンズはSFファンとの交流も欠かしていなかった。この時期にロバート・A・ハインラインと知り合っている。この時期のハインラインの作品「魔法株式会社」及び「ウォルドゥ」にはパーソンズの影響がみられる。
「魔法株式会社」にはハインラインの政界での知見が生かされているが、同時に神秘的なものを書こうとする努力が見られる。「ウォルドウ」はマスタースレイブ式のサーボロボットアームやロボットで更に小さいロボットを作るといった画期的なアイディアが示された記念すべき作品だが、ウォルドウが神秘的な力に目覚めて無双する展開は興ざめにもほどがある。
この後ハインラインは海軍フィラデルフィア工廠でアシモフらと働くことになる。
サマーフィールドは1943年にアナポリスの海軍実験場でゴダードと一時間ほど会話をしている。しかしそこから得たものは何もなかったようだ。この時期ゴダードは海軍に招聘されて液体JATOの仕事をしていたが、秘密主義はそこでも変わらなかった。1944年にV-2を見たゴダードは、ドイツ人が彼の技術を盗んだと考えたが、実際にはゴダードは全く誰にも技術的影響を与えていなかった。
エアロジェット社はその年の終わりには100名の社員を抱えて、陸軍から2000本の固体JATOの注文をこなさなければならなかった。更に陸軍は長距離弾道ミサイルを望み、開発プロジェクトORDCITが走り始めた。
海軍は水中を走るロケット推進の魚雷を開発したいと考え、そのためアロヨセコに試験用の水路が掘られた。陸軍はドイツのロケット機に刺激されて、ノースロップと組ませてロケット動力戦闘機XP-79を開発しようとしていた。
サマーフィールドは液体エンジンの性能の壁にぶつかっていた。液体推進剤を燃焼室に送り込むパワーが不足していたのだ。ロケットは燃焼ガスの圧力が高くなればそれだけ性能が高くなる。燃やす量を増やせば圧力は高くなるはずだが、問題は高い圧力になる燃焼室にどうやって燃料を送り込むかだ。
これは固体ロケットでは問題にならない。最初から燃焼室の中に固体推進剤があるからだ。だが液体ロケットでは大問題になる。燃焼室の圧力に負けない圧力で燃料を押し込んでやらないといけない。だから強力なポンプが必要だった。
パーソンズ、フォーマン、サマーフィールドの三人には正規の就業時間が適用されていなかった。
パーソンズは相変わらずいたずら好きで、発煙筒で事故を偽装して人々を驚かせ、たまに詩を暗唱して秘書を驚かせていた。アロヨセコでは打ち合わせは木の下で行われ、燃焼試験のたびにその轟音に抗議の電話が殺到した。
社員は増え続けた。アンドリュー・G・ヘイリーは今やスーサイドスカッドの一員として馴染んでいた。カリフォルニアシティカレッジを卒業したばかりのジョージ・P・サットン(George P. Sutton)が入社したのもこの時だ。クラーク・ミリカンもエアロジェット社の事業に一枚かませてほしいとカルマンに頼み込んでいた。カリフォルニア工科大学の頭の固い連中も大量に入社して、その環境のでたらめさに眉をしかめていた。
1943年5月、エアロジェット社の全社員で記念写真を撮っているが、この時すでにその後のエアロジェットの姿が見えている。まずマリナとフォーマンの姿が無い。カルマンより隣のミリカンの方が偉そうで、そしてサマーフィールド、パーソンズ、アポロ・スミスの古株三人は写真のかなり左側に固まって映っていた。
図3:エアロジェット社員の集合写真より
ノースロップの全翼グライダーMX-324にはまず小型のXCAL-200液体エンジンが搭載された。初飛行は1944年7月で、グライダーは問題なく飛行した。XP-79のプロトタイプMX-334には新しい液体エンジンAerotojet、XCALR-2000A-1が搭載される筈だったが、MX-324の初飛行段階で、動力飛行時間の短さが問題とされた。
XCALR-2000A-1の推進剤ポンプについてはここでちょっと紹介しておきたい。過渡期には様々な凄い代物が試されては消えてゆく。このエンジンには、小さな燃焼室2つが角度をつけて回転軸を挟んで対象位置に固定されていた。この燃焼室が推進を始めると、その反動は回転軸を廻す方向に働く。そう、この回転軸がポンプに繋がっていたのだ。勿論この奇怪な代物は回転軸の軸受けから盛大に推進剤を洩らした。
XP-79はジェットエンジンを搭載したXP-79Bに計画を変更されたが、やがてドイツに対する航空優勢が確立されたため優先順位を失い、プロジェクトは停止された。
図4:XCALR-2000A-1
1944年の秋になるとヨーロッパではV-2ミサイルが飛び始め、その情報はやがてカルマンの元にもレポートとして送られてきた。カルマンは銭を呼び戻して分析させ、そしてアメリカも同様のミサイルを作るべきだという趣旨のレポートを軍に送出した。
陸軍は240kmの射程と約450kgのペイロードを持つ爆発物のペイロードを運ぶことができる誘導ミサイルを開発するために300万ドルの予算をつけた。カルマンはアロヨセコのプロジェクトをジェット推進研究所として再編した。
この時点でJPLには400人が所属していた。最初の所長はカルマンが就任したが、やがて東海岸の用事が増えてくるとJPLはマリナに任せられた。
さっそくでっちあげられた最初の弾道ミサイルの試験機は径10インチの固体JATOエンジンX30AS 1000にブースターとしてT22固体エンジンを4つ束ねたものを付けたものだった。このプライベート(兵卒)タイプAロケットは、アメリカ最初の多段式ロケットになる。
JPLはそのごく一時だけだったが、"ジョン・パーソンズ・ラボラトリー"だと冗談で呼ばれたこともあった。
図5:X30ASはX20ASと長さが違うだけである
エアロジェット社は年に2000本ではなく、毎月2万本の固体JATOを生産するようになっていた。顧客は陸軍より海軍の方が多くなっていた。
海軍は救難用の4発水上機PBY-2コロナドを急速に離水させるために液体JATOを使っていた。コロナドは重くエンジンの馬力が不足していたのだ。このエンジン35AL-6000では推進剤ポンプには専用のレシプロエンジンが使用されていた。
空軍はB-29をアラスカで離陸させるためにJATOを発注した。LR-13-AL3エンジンは硝酸とキシリジンの混合物とガソリンを65%対35%の割合で燃焼させるというものだった。
エアロジェット社の事務所は旧ハドソン自動車のショールーム兼サービスエリアに移っていたが既に手狭だった。
エアロジェットの設備拡張と投資は資金の枯渇を招いていた。ここでエアロジェットの株式を51%売り渡して資金を得る、つまり買収させる話が持ち上がった。アンドリュー・G・ヘイリーはエアロジェットの将来性をゼネラルタイヤ社の経営陣に納得させることに成功した。
但し、この契約はカリフォルニア工科大学との間のものとなり、そして大学関係者ではないパーソンズとフォーマンの株式はそこに含まれるべきではなかった。二人は説得に応じて株式を手放した。250ドルが11000ドルに化けた計算だったが、これで二人はエアロジェットの株主ではなくなってしまった。
パーソンズその後も時折エアロジェットのコンサルタントとして働いたが、やがて疎遠になっていった。エアロジェットの現場ではもはやパーソンズは歓迎されていなかったのだ。パーソンズは関係者でない旧友に、エアロジェットで働き続けたかったと漏らしている。
パーソンズとフォーマンはアド・アストラ・エンジニアリングカンパニーを設立し、爆発物のコンサルタントをすることにした。彼はヘレンとの正式な離婚を望んでいたが、それはクロウリーのグノーシス主義教義の流儀では無かった。
パーソンズは月へロケットを飛ばす夢を持ち続けていた。だが今彼はロケットに関わっていなかった。
1945年末にはマリナとサマーフィールドもエアロジェットの職を辞してJPLのフルタイムの研究職に戻っている。カルマンだけがエアロジェットに席を置いていたが形式的なものだった。こうしてエアロジェット社はお堅い普通の会社になってしまった。
1945年8月、戦争の終わる5日前にロバート・ゴダードは死んだ。ゴダードのスタッフたちはカーチスライト社に移籍して空軍向けの液体JATOの開発をおこなった。
■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#4 -2021年11月19日(金)22時41分
1939年4月にニューヨーク万博が華々しく開催され、アメリカが大恐慌を脱したことがだれの目にも明らかになっていた。
この頃マリナは、シグマ・サイの科学研究協会の会議で「ロケットの事実と空想」と題した講演をして、飛行機の翼下にロケットを装着することによって、その離陸性能を大いに改善できるだろうと話した。
講演の後、フォン・カルマンはマリナに、ワシントンDCの全米科学アカデミー(NAS)の陸軍航空隊研究委員会に出席してはどうかと話した。カルマンは当時のアメリカの重爆撃機の問題についてこれが解決法になるのではないかと考えていた。
マリナはワシントンDCで、ロケットという語を慎重に避けながら、翼下に"ジェット推進装置"を装着するアイディアについて説明し、結果としてNASはマリナの"ジェット支援離陸(Jet Assist Take Off:JATO)"のフルタイムの研究の前準備のために1000ドルを支出した。マリナは6月までに提案を具体的に纏めなければならない。
これは軍への協力で、ロケットの平和利用というマリナの理想からかけ離れたものだった。しかしこれは軍用機に関わらず航空機の離陸支援用であり、そして何よりファシストと戦う為になることだった。マリナはこうしてJATOへの態度を決めた。
1000ドルは即座にパーソンズとフォーマンを終日拘束する月給に化けた。パーソンズとフォーマンは猛烈に働いた結果として試験小屋を爆発させ、修理費で250ドルを費やす羽目になった。
6月に提出された論文は10000ドルの予算支出になって帰ってきた。明らかに少ない予算だったが、スーサイドスカッドにとっては違っていた。とはいえまともに開発するには10万ドルが必要だっただろう。
パーソンズは固体推進剤の比較的緩やかな安定した燃焼のために、様々な化学薬品を混合して試した。作った固体ロケットは燃焼を安定させることなく爆発した。パーソンズは燃焼速度の速いニトロセルロース、ニトログリセリンを捨て、黒色火薬に集中した。
繰り返される実験のためには広い空き地が必要だった。スーサイドスカッドはパサデナ市からアロヨセコの6エーカーの荒れ地を借りることにした。デビルズゲートダムの北の荒れ地、そこに今もジェット推進研究所は存在している。
翌年4月、フォン・カルマンはロケットの安全な燃焼のための条件を示す4つの微分方程式をマリナに示した。マリナはこれを解き、工学的な意味を取り出した。それは固体推進剤の燃焼表面積とノズルスロートの関係式だった。
これを満たす条件下で、つまり圧力一定の条件で燃焼は安定であるはずだった。燃焼室内の圧力から固体燃料が持つべき強度も明らかとなり、パーソンズが作るものの条件はずっと明らかになった。
最終的に、5秒間の燃焼時間を持つ安定した固体ロケットをパーソンズはなんとか作り上げた。それは黒色火薬を適切な圧力で固めたものだった。
更にパーソンズは、液体ロケットの酸化剤として赤煙硝酸を見出していた。有毒で腐食性が強かったが常温で液体であり、極低温の液体酸素の使用に否定的だった陸軍航空隊もこれには興味を示した。更にパーソンズは赤煙硝酸と組み合わせる液体燃料としてガソリン、ベンゼンと亜麻仁油の混合物を考案していた。
6月の研究報告の反応は良好で、陸軍航空隊は翌年の夏に実際に試験することを前提の条件として、さらなる研究の予算として22000ドルを支出した。
この頃、スーサイドスカッドに再び新たなメンバーが加わった。
マーティン・サマーフィールド(Martin Summerfield)はSF作家アイザック・アシモフの少年時代に恐ろしいほど似た少年時代を送っていた。両親はロシアからの移民で、ブルックリンの雑貨屋で店番をしながら少年時代を過ごし、神童と呼ばれ、化学者の道を専攻するところまで瓜二つだ。アシモフとサマーフィールドの道を分けたのは3年の差、その間に化学界は生化学で大きな進展をみせることになる。アシモフはペニシリンの単離に挑戦するコロンビア大学の大学院に進んだのに対して、サマーフィールドはカリフォルニア工科大学の大学院へと進んだ。逆に言うとアシモフは3年違いで本物のロケットサイエンティストになり損ねた訳だ。
サマーフィールドは1940年の博士号取得まで、ひたすら分光実験をして過ごした。それは現像液にまみれた、どちらかといえば単純労働に近いものだった。サマーフィールドはのんびり屋の評判をとっていた。
彼がマリナと知り合うのはフォン・カルマンの土壌侵食研究プロジェクトのアルバイトに応募してからだ。二人はモハーベ砂漠の調査のため砂丘を歩きながら仲良くなり、意気投合した。結局のところ、サマーフィールドも雑貨屋のパルプ雑誌を店番しながら読みふけり、ロケットや宇宙に憧れたうちの一人だったのだ。
卒業後の身の振り方に悩んでいたサマーフィールドはマリナの申し出に1も2もなく飛びついた。月200ドルの給与は決意を容易にした。サマーフィールドは1940年7月にGALCITグループに参加した。彼の加入によって、スーサイドスカッドには二人目の化学者が加わった訳だ。
カルマンは液体燃料JATOの開発をサマーフィールドに割り振った。
プロジェクトは急拡大し、そのためマリナはかつての仲間たちを呼び集めようとした。しかしアポロ・スミスは辞退し、銭は彼の国籍によって軍事プロジェクトに関与できなくなっていた。
新たに集まったフルタイムとアルバイトあわせて12名にまでJATOプロジェクトは拡大した。アロヨセコの荒れ地には機械工場をはじめとする建物がニューディールプログラムを利用して建設された。サマーフィールドの最初の仕事は草刈りだった。彼は液体推進剤ロケットの開発をその本当の基礎から担当したのだ。やがてサマーフィールドは荒地に建てた小屋に住み着いてしまった。彼の洗濯したパンツと靴下がその軒先に並んでいた。
一方でパーソンズはその真の関心をロケットからオカルトへとずらしつつあった。パーソンズはロサンゼルスのSFファンの集まりにも熱心に参加して、そこでもオカルトへの関心を呼び起こそうと勧誘をしていた。この時期にパーソンズはSF作家のジャック・ウィリアムスンと知り合いになっている。ウィリアムスンはオカルトの基礎知識を持っておりパーソンズは彼をOTOのグノーシス主義ミサに招待したが、ウィリアムスンはこのミサを批判的に見ている。
また、この時期に妻ヘレンの異母姉妹ベティがパーソンズ家に転がり込んできた。
図2:1942年のJPL
1941年4月にはパーソンズの27番目の固体燃料組成、GALTIC27が実機テスト可能な水準に到達していた。コーンスターチと硝酸アンモニウムの混合物を更に黒色火薬と混合して、直径3インチの鋼管の内側にあぶらとり紙で裏打ちしたものに詰めたもので、燃焼時間はなんと12秒にまで伸びていた。
だが7月になっても固体ロケットは安定した品質に達していなかった。8月6日にテストが開始され、まず飛行機に1つづつ付けて飛ばさずに燃焼試験をおこない、次いで飛行中の点火に挑戦した。結果は爆発で、テストパイロットはなんとか飛行機を着陸させることに成功した。2日後の試験でも爆発が起きた。
パーソンズはその直後に爆発の原因について、温度による膨張と収縮が固体燃料に亀裂を生じたのだと推測した。製造直後の固体燃料は極めて安定して燃焼するのに、試験時にはおかしくなることの理由はそれだった。パーソンズは次の試験の直前に新鮮な固体燃料を製造することで試験を成功させた。12日の試験はJATOのアイディアを実証し、次の二週間の試験を完全に終了することができた。カルマンはしまいにはプロペラを取り外したテスト機で飛ばすことを提案した。
アメリカ最初のロケット動力飛行機の誕生だった。
その年に更新された予算は125,000ドルまで増えていた。
液体推進剤のほうはガソリンと赤煙硝酸の組み合わせを試してはいたが、燃焼振動に苦しめられていた。ただ燃えるだけでなく、燃え方にむらができ、やがて振動に成長してエンジンをめちゃくちゃにしてしまうのだ。
パーソンズとサマーフィールドは推進剤と酸化剤の比率や燃焼圧を様々にいじったが、一度など盛大に爆発してしまっていた。液体燃料JATOの試験は翌年4月に予定されていて、しかも飛ばすのは本物の爆撃機だった。そして日持ちしない固体燃料JATOに対して液体JATOこそ今の本命だったのだ。
根気強い実験はやがて、再生冷却ではなく銅のエンジンとヒートシンクの空冷で充分であることを突き止め、様々な燃料インジェクタについて経験を積み上げていった。
対日戦争がはじまるとセキュリティは厳しくなった。FBIはマリナや銭、パーソンズたちとワインバウムと共産党の関係をチェックしていた。ただ、この仕事のおかげでメンバーたちは徴兵から免除されていた。
翌1942年2月、マリナが東海岸アナポリスを訪れたとき、海軍の人間からアニリンという物質の物性について聞いた。アニリンは硝酸と反応して自然着火するハイパーゴリック液体だった。毒性があったが液体ロケットの着火には最適に思えたが、マリナは更に飛躍して、ガソリンとアニリンを全量入れ替えるよう西海岸に電報を送った。
マリナが西海岸に帰ってきたとき、液体エンジンは燃焼振動なく完璧に動作していた。点火システムは簡略化され、システムの完成度は高くなった。量産型では構造重量比はさらに改善された。液体推進剤タンクの共通隔壁はこの頃のサマーフィールドのアイディアだったとされている。サマーフィールドは他にもJATOを切り離した後の回収用パラシュートや軟着陸用クラッシャブル構造を考案している。
4月の試験はモハーベ砂漠で行われた。ダグラスA-20双発機に装着された液体JATOは完璧に動作した。
東海岸ではリアクションモーターズが海軍からロケット動力機のエンジンの開発契約をもぎとっていた。彼らはエチルアルコールと液体酸素を使用し、海軍向けの液体JATOを提供した。
航空機用レシプロエンジンを作っていたカーチスライト社もこの頃に液体ロケットエンジンを作り始めている。
■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#3 -2021年11月19日(金)22時40分
その年の春、メンバーに銭学森を迎えることになった。これはフォン・カルマンの肝入りで、研究室がアポロ・スミスと一緒だったのがきっかけだった。銭は極めて優秀な留学生で、すぐにフォン・カルマンのお気に入りとなったが、同時に傲慢で失敗を嫌うことでも知られるようになっていた。フォン・カルマンはそんな銭を実験と実践の世界に誘おうとしたのだ。銭学森は当初実験や手を動かす作業を軽んじていたが、やがてアポロ・スミスの元を訪れるマリナとそのプロジェクトに興味を持つようになっていた。
銭はアカデミックな人間でないパーソンズとフォーマンを露骨に軽蔑することを避けることになんとか成功した。ただ銭は実験を避けて理論面にその協力を集中した。
4月、カリフォルニア工科大学で毎週開かれているセミナーでマリナがロケット研究の実験の成果について発表した後、カリフォルニア工科大学の40歳の実験助手、ウェルド・アーノルドから1000ドルの資金援助の申し出があった。アーノルドは決して裕福ではなく、毎日自転車で通勤する人物だった。アーノルドの支援の最初の500ドルは、新聞紙に包まれた1ドルと5ドル紙幣の束だった。
この資金、ウェルドアーノルドロケット研究基金の価値は額面以上のものがあった。今やロケット研究は、資金提供のある正式なプロジェクトだった。
この資金のおかげで開発は順調に進むようになった。
この頃、ロサンゼルスでは警察の汚職と腐敗にとどめを刺すべく活動していた民間団体の私立探偵ハリー・レイモンドが、自動車に仕掛けられた爆弾で殺されかけるという事件が起きていた。1月頃だ。ハリーは元ロサンゼルス警察署長だったが、腐敗した市長によってわずか90日で解雇され、そして私立探偵としてロサンゼルスに舞い戻り調査をしていたのだ。この時代はまさしくレイモンド・チャンドラーのハードボイルド探偵小説の描くカリフォルニアそのままだった。
5月にパーソンズが検察に呼ばれたのは、この自動車に仕掛けられた爆弾の謎を解くためだった。爆発物の専門家を探していた関係者たちは、こうしてあらゆる爆発物に通じた専門家に出会ったわけだ。
パーソンズは即座に爆発物のケース構造を推測し、その内容物の候補を試した。やがてパーソンズは自信をもって同等物と思えるものを製造し、それで古いクライスラーを爆破してみせた。材料は全て容疑者のガレージにあったもので、試しに爆破された車の状況は破壊されたハリー・レイモンドの車とそっくりだった。
パーソンズは法廷で証言し、この様子は新聞で強く印象付けられることになった。
8月、マリナとアポロ・スミスが四酸化二窒素を1リットル漏出してしまったその日に、パーソンズとフォーマンは同じ建屋の階段吹き抜けを使った巨大な振り子と、その錘の位置につけたロケットエンジンで推力を測定しようとした。だが点火後すぐに失火した燃焼室から四酸化二窒素とアルコールが建屋内に漏出した。研究所の多くの機器が四酸化二窒素で腐食し、庭では芝生を枯らしていた。この失敗は研究所の全員をカンカンに怒らせ、再び彼らは建屋から追放された。
新しい実験室は建屋の隅のコンクリート小屋だった。この頃には燃焼試験は水平に噴射していたものと思われる。
彼らにあだ名、"スーサイドスカッド"自殺分隊の命名がされたのはこの頃だった。
正式プロジェクトとなったロケット開発の協力者を求めて、一同はカリフォルニア工科大学の教授たちを訪問した。大抵は即座に協力を断られたが、シドニー・ワインバウムはちょっと違っていた。
ワインバウムはウクライナ生まれのユダヤ人でワルシャワ大学で医学、そして移民先のカリフォルニア工科大学で物理学を学んだ化学者で、熟練したチェスプレーヤーでコンサートピアニスト、そしてアメリカ共産党の熱烈な党員だった。当時アメリカ共産党は非合法化されておらず、共産主義は学生たちを一度は魅了するはしかのようなものだった。
ワインバウムは共産主義者が集まる彼のバンガローの集会に彼らを招待した。招待に応じたのはパーソンズ、マリナ、銭の三人、フォーマンとアポロ・スミスは参加しなかった。国際情勢と政治、音楽と文化を論じる会合は刺激的で、パーソンズはアメリカ自由人権協会の会員になり、人民日報を購読するようになった。
この頃、パーソンズとマリナはハリウッドに売り込む映画脚本を書いていた。
主人公は型破りな天才物理学者のフランクリンハミルトン、仲間はナチス嫌いの組合員、中国に戻るか悩んでいる青年、カバラに精通したフランシスコ会修道士といった、スーサイドスカッドの面々をそれぞれ反映したようなメンバーだった。
一同はロケット開発に取り組むが、修道士は燃焼試験中に機材を破壊して自殺し、裕福なファシストシンパからの寄付の条件として組合員は辞任を迫られる。研究成果はナチスに盗まれようとし、主人公はナチのメッセンジャーと戦うことになる。
主人公は人類の平和のためには全てのロケット研究の成果を破棄しなければいけないと決意することになる。ロケットは発射され、研究資料は燃やされる。
この脚本原案にはパーソンズのオカルトへの傾倒、マリナの理想主義をみてとることができるだろう。
この脚本の売り込みは失敗したようである。
1938年に彼らは2本の論文を、創刊したばかりのJournal of the Aeronautical Sciencesに投稿している。第5号にアポロ・スミスとマリナの共著で"Flight analyses of the sounding rocket"、第6号に銭とマリナの共著で"Analysis of a sounding rocket propelled by successive impulses"だ。
彼らは飛行可能なロケットに向けて研究を続けていたが、もう基金は尽きようとしていた。パーソンズとフォーマンは新しいアイデア、小さな火薬カートリッジを連続的に爆発させることで推力を得るパルスロケット推進の実験にかかりきりだった。
ロケットは一瞬で燃え尽きるのではなく一定時間継続して燃え続けて欲しかった。つまりただの爆薬ではまずい。だが、どうしても大きな固体ロケットをゆっくり安定して燃やすことが出来なかったのだ。
パルスロケットは、固体ロケットを小さく分割して安定した推進力を得ようというのがアイディアの骨子だったが、毎秒10発の爆発で合計200個のカートリッジを消費するそのシステムはそれだけで難物だった。
ロサンゼルスサイエンスフィクション連盟はワインバウムの共産主義者たちとは逆に、完全に非政治化された会合で、参加者の平均年齢は20才と若く、そして20人も30人も集まった集会だった。SFは若者たちを魅了する一大ムーブメントだった。
主催のフォレスト・J・アッカーマンは著名なBNFで、その抜群の行動力で様々な専門家や著名人を毎週の講演に招いていた。
1938年5月、パーソンズは講演を依頼され、以来パーソンズたちはロサンゼルスサイエンスフィクション連盟の会合に出るようになった。SFファンは大抵熱烈なロケットファンであり、その中には当時18歳のレイ・ブラッドベリもいた。会合の参加者のうちで希望者はGALCITの実験場を見学することもできた。
一方、ワインバウムの共産党員への勧誘をパーソンズは熟慮の末に拒否し、その後ワインバウムの会合に出なくなった。対してマリナと銭は仮党員となっている。
東海岸ではアメリカ惑星間協会の改名したアメリカロケット協会(ARS)が再生冷却エンジンを実用化していた。高温の発生する燃焼室を燃料で冷却する再生冷却はロケットエンジンが実際に飛ぶためには必須の技術だった。
直後メンバーたちはこのロケットエンジンを製造する企業リアクションモーターズ(Reaction Motors,Inc)を設立した。
6月にハリー・レイモンドの自動車爆破事件で容疑者に有罪判決がおりた。
同月、AP通信の記者がネタを探しにマリナに接触している。その夏西海岸の新聞はロケットの夢と"スーサイドスカッド"の特集記事を載せ続けた。魅了された大衆のうちから、頓珍漢なアイディアを抱えた連中がスーサイドスカッドの元を訪れるようになった。
その夏、ニューヨークの航空科学研究所(IAS)へマリナは訪問し、論文を発表している。これは前記の論文二本のうちのどちらかだろう。ロケットはようやく、専門家にも認められるようになったのだ。
しかし、ロケット開発のほうは行き詰りつつあった。
基金はとうの昔に枯渇し、パルスロケット推進はどうにもうまくいかなかった。銭は博士号の取得で忙しく、パーソンズとフォーマンも資金を稼ぐために就職先で長時間働いていた。
9月、マリナは結婚して農務省に就職した。農務省では砂嵐を研究することになる。砂嵐もフォン・カルマンの洞察によってその流体力学的ふるまいの研究が行われるようになったのだ。だから勤務地もグッゲンハイム航空研究所(GALCIT)のままだったが、マリナのスーサイドスカッドへの関与は週末だけになった。
アポロ・スミスはダグラス・エアクラフトに就職してスーサイドスカッドから離脱することになった。あの基金のウェルド・アーノルドもカリフォルニア工科大学を去っていった。
ロケット開発は再びアマチュアの週末の集まりに舞い戻ってしまった。
1938年のハロウィーンは、オーソン・ウェルズによる「宇宙戦争」のラジオ放送の夜だった。この伝説的な事件は、大衆が星空へ、宇宙へ意識を向け始めていることを示していた。
この頃にパーソンズはアレイスター・クロウリー(Aleister Crowley)の著作、1907年のKonx Om Paxを手に取ることでクロウリーの神秘主義に深入りすることになる。
きっかけは中古車屋の友人宅に部品あさりに行った際、本棚でそれを見つけたことだった。クロウリーの著作はコーランやダンテからの引用や見栄えのいい象形文字や漢字で飾られ、詩とファンシーな啓示と陰謀論的なおとぎ話で一杯だった。今見るとまぁ、100年前だとこれで博識のふりが出来たのだと感慨深いものがあるが、当時の中二病魂にはコレはガンガンキたと思う。
クロウリーは瞬く間にパーソンズを魅了した。クロウリーは19世紀イギリスの神秘主義の集大成であり、グノーシス主義を核に、仏教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教から様々な要素をつまみ食いして魔術体系を構成し、神秘主義の秘密結社をつくって儀式と神秘によって隠された知識、力といったものにアクセスできると主張していた。それは20世紀のニューサイエンス系インチキどもの遠い始祖にあたる。
翌1939年1月、パーソンズはクロウリーのカリフォルニアのOrdo Templi Orientis(OTO)組織の拠点でおこなわれたグノーシス派ミサに出席した。以来パーソンズはこの神秘主義の集まりに深入りしていくことになる。
■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#2 -2021年11月19日(金)22時38分
三人目はフランク・J・マリナ(Frank Joseph Malina)だ。
マリナの家族はチェコからの移民だったがマリナ自身はテキサスの生まれだ。両親はプロの音楽家で、マリナも楽器に親しんで少年時代を送った。マリナが7歳の時に一家は一度チェコに戻って、だが5年後一家は再びアメリカに戻ることになる。マリナはコスモポリタンとして、芸術家として育ったが、同時に気球と飛行機、そしてジュール・ヴェルヌに惹かれていた。
マリナは熟練したピアノとトランペットの奏者となったが、17歳のマリナは音楽家では無くエンジニアになることを決心していた。テキサスA&M大学に入学したが、機械工学を学ぶことにしたのだ。彼は空の更に先、ロケットと惑星間空間に惹かれるようになっていた。同時にマリナは学費を稼ぐために大学専属のトランペット奏者として雇われている。
1934年、マリナはカリフォルニア工科大学の大学院に進学した。同時にマリナはカリフォルニア工科大学に開設されたグッゲンハイム航空研究所(GALCIT)の風洞の面倒を見るアルバイトをすることになる。わずか時給25セントだったが、暑い日も涼しい風が期待できるのは利点だった。
グッゲンハイム航空研究所(GALCIT)は今でこそほとんど忘れ去られた存在だが、当時はアメリカ西海岸の航空科学の中心地だった。
ドイツ出身のユダヤ系富豪グッゲンハイムは様々な航空プロジェクトの支援をおこなっていた。例えばゴダードにニューメキシコ州ロズウェルの土地と研究資金を与えたのもグッゲンハイムだ。彼の基金によって設立された研究所は10フィート風洞を備え、すぐに西海岸の航空技術研究の権威となり、その影響力はNACAが同じ西海岸にエームズ研究所を設立して対抗せねばならないと考えるほどのものだった。
権威のもう一つの源は人材だった。ユダヤ人だったフォン・カルマン(Theodore von Karman)は1930年にカリフォルニア工科大学の招聘に応じてドイツからアメリカに移民し、同時に設立されたグッゲンハイム航空研究所の所長となった。カルマン渦やカルマンラインのカルマン、後退翼の権威、柔軟な発想で分野そのものを切り開いた流体力学の大権威だ。
パーソンズは新聞記事を頼りにカリフォルニア工科大学に筆者を探し回っていた。記事はオーストリアでのオイゲン・ゼンガーの研究を伝えるものだった。だが探し当てた筆者は忙しく、代わりに紹介されたのが風洞のバイトで暇をつぶしていたマリナだったという訳だ。
三人は即座に意気投合した。3月の心地よい天気、風洞の建屋の外、コンクリートの上に座り込む三人を想像して欲しい。ロケットと惑星間飛行の夢から話は逸れ、芸術と文芸作品に飛び込んだ話題は国際政治とサイエンスフィクションを経てロケットへと戻っていく。パーソンズもマリナも芸術を愛していた。二人は友を見つけたのだ。
やがてパーソンズは、求めていた人間を見つけたことを発見した。ロケット開発に理論があること、そして理論が要ることをマリナは説いた。同時にマリナもロケットを現実のものにする道筋をパーソンズたちに見た。それだけではない。現実的なロケット開発の道筋がその場で引かれたのだ。
だが、マリナの示した道筋はパーソンズとフォーマンにとって受け入れ難いものだった。マリナは段階を踏んだロケット開発、そして要素ごとの開発を提案したが、特に最初の、地上燃焼試験をおこなうというところはパーソンズらには論外に思えた。
マリナはロケットを逆さまに据え付けて、そのロケットの生み出す推力をばねばかりで測定しようと提案していた。ロケットを飛ばさないのだ!
だが、やがて二人はマリナの提案を呑んだ。この地上燃焼試験で得られる推力、燃焼時間、そして推進剤重量から、ツィオルコフスキー以来重要だとは皆に知られてはいたけれど無視されがちなパラメータ、比推力が導き出せるのだ。推力は一定じゃないから、正確な比推力の計算には微積分が必要だった。マリナはそれを計算することができた。
三人の集まりはその日だけでなく、継続することとなった。マリナはGALCITにロケット開発を研究プロジェクトとして売り込むことを提案し、そしてそれは実行された。
マリナは自分の研究をロケット開発にしたいと、実際の研究と実験のプロセスと共に指導教授に提案した。だが、最初に話をもちかけた教授、クラーク・ミリカンはあっさりと提案を拒否した。世間的にはロケットは"バック・ロジャース"コミックブックの中のガジェットで、スーパーマンの怪力と同じように真面目なものでは無かったのだ。
クラーク・ミリカンはあの油滴の実験のミリカンの息子である。その後ずっと後、ロケットが現実に産業になろうとした頃にミリカンは前言を翻してロケット開発の世界に地位を得たが、この時は問答無用の拒否だった。
マリナたちが次にもちかけたのはフォン・カルマンだった。カルマンは話を聞いて数日回答を延ばし、そして熟考の末にマリナら三人にプロジェクトを許可した。資金拠出は無し、但し研究所の施設は自由に使えるという条件だった。
これは正式な許可であり、この時点をもって、パーソンズ、マリナ、フォーマンの三人によってJPLの原型は生まれた。
三人は自分たちのプロジェクトをGALCITロケット研究グループと呼んだ。今やロケット開発は大科学者フォン・カルマンの支持する正規の研究だった。
直後の1935年5月にパーソンズは4歳年上のヘレンと結婚した。2年越しの交際を実らせたもので、パーソンズはパサデナに新居を買い、新しい仕事、ハリファックスパウダーカンパニーの職を手に入れた。
ただ、パーソンズはロケットに夢中で、家庭の幸せをあまり考慮してはいなかった。妻にプレゼントを買うようなことは滅多になく、ヘレンの服はみすぼらしかった。新居は爆発物や化学物質だらけで、友人を呼んで盛り上がると何時間もヘレンの事を忘れて話し続けた。
資金不足はロケットの実験の重い足かせだった。三人は自分の自腹から材料費を捻出した。大学の廃品置き場、そして近郊の廃品置き場を漁って部品を探した。どうしても手に入らない部品は中古を購入するしかなかった。
グッゲンハイム航空研究所で実験をしようという試みは、初期にやらかした爆発によって拒否されるようになり、三人は新しい実験場所を求めて近郊や砂漠をさ迷った。
三人が顔を合わせるのは週末に限られた。パーソンズらは火薬工場で働き、マリナはフォン・カルマンの書く教科書のためのイラストを描いた。週末の夕方になると三人は大学の機械工場に集まり、様々な部品を加工した。
様々な燃料構成を検討した結果、三人はガス酸素とメタノール(メチルアルコール)の組み合わせを採用した。つまり液体ロケットエンジンだ。
ロケットでは燃料以外に酸化剤も用意してやらないと燃えない。酸化剤は普通は酸素、ドイツ人や他のロケットでも使われた、オイゲン・ゼンガーが推奨していた組み合わせだった。
そういう場合は普通、液体酸素が用いられていた。分量はメタノールの1.5倍必要だ。液体なら容積比は1対1程度になるがマイナス183度以下の極低温物質でおいそれとは手が出ない。対してガス酸素はガス溶接の現場や病院ならどこにでもあるような、入手が容易で、そして結局これも酸素なのだ。問題は内容量の少なさとボンベの重さ、しかしこれは地上燃焼試験では問題にならない。
1936年春、ドイツVfRからの情報が以降一切途絶えることになる。
1936年8月、ゴダードがグッゲンハイム航空研究所を訪問し、マリナは彼に自分たちの研究を説明した。ミリカンはゴダードをカリフォルニアへ招聘しようとしたが拒否された。実のところ当時ゴダードはロケットに慣性誘導を搭載することに成功し、翌年2.5kmを超える高度に打ち上げを成功させている。
翌月マリナがロズウェルのゴダートの家を訪問すると、温かくはもてなされたが研究成果物は一切見ることが出来なかった。ゴダートは助言も含めて研究について一切何も喋らなかった。
10月31日、ハロウィンにパーソンズたちは最初の燃焼試験をおこなった。
試験の準備は前日にトラックに積まれ、二人の大学院生、アポロ・スミス(Apollo Milton Olin Smith)とルドルフ・ショットが一同に合流した。アポロ・スミスは最近グループに加わった正規のメンバーで記録係だったが、ルドルフ・ショットのほうは面白そうだから見に来たというだけだった。マリナが大学から借りたトラックを運転し、機材と残りのメンバーはトラックの荷台に乗った。
試験の現場はパサデナの北西のはずれにある貯水池、"デビルズゲート"ダムのすぐ下流、水の枯れた河床だった。今ではここは縦横に走る高架のハイウェイの下になっている。
図1:試験装置一式と参加メンバー
試験装置のうち、ガス酸素のタンクとメチルアルコールのタンクは一体化されていた。燃焼室はノズルを空に向けて高さ1メートルほどの棒がスタンドでその上に固定されていた。燃焼室はジュラルミン製で、水冷だった。燃焼室にはガス酸素とアルコール、冷却水と燃焼圧計測用の配管が伸びていた。
スタンドの下には圧縮ばねばかりがセットされて推力を測ることができるようになってはいた。点火は火薬の小さな信管を点火器として使うことになっていた。
最初の試験は、点火器が燃焼室に送り込まれたガス酸素に吹き飛ばされて失敗した。がっかりしたアポロ・スミスとルドルフ・ショットの二人はここで帰ってしまった。パーソンズは改めて点火器をセットした。
二度目の試験で、点火器の爆発は一度目の試験で燃焼室の中に溜まっていたメチルアルコールに点火した。大きな炎があがり、パーソンズは燃焼室をセットしたスタンドを素早く蹴飛ばした。それでガス酸素を供給するゴム配管が外れると、この噴出した酸素が更に火勢を強くした。ここで三人全員が現場から逃げ出した。
ガス酸素タンクの逆止弁がそれ以上の酸素の漏出を止め、メチルアルコールが全て燃え尽きると三人は現場に戻って、装置の惨状を見ることが出来た。
この試験の意味は三人には明瞭だった。成果はあったのだ。配管はきちんと動作した。逆止弁は必須だった。燃焼室への燃料の供給がどのようなものになるか、実際に見ることもできた。三人にとってこの失敗は、次の成功の前兆だった。マリナは両親に手紙で「全体として、テストは成功」だったと書いている。
次は11月15日だった。彼らは試験装置を再建して、点火器に信管ではなく自動車用のスパークプラグを採用した。点火は成功し、5秒間の燃焼に成功した。しかし炎の色は低圧の不完全燃焼を示しており、燃焼熱でガス配管のゴムが溶けて試験は終了した。
11月末の試験では燃焼器のノズル形状は修正され、配管はゴムではなく銅管になっていた。点火は成功し、そして燃焼も良好だった。20秒間の燃焼は最終的に燃焼室を破壊して終了した。それは大成功だった。
翌年1937年1月16日の試験では、44秒間の連続燃焼に成功し、そして各種試験データが実際に計測された。
実験結果の報告を受けたフォン・カルマンはこれを評価して、試験場としてグッゲンハイム航空研究所の敷地を使うことを許可した。
一同は更に強力なロケットエンジンを作ろうと準備を始めたが、これはパーソンズの家庭環境を、ヘレンとの暮らしを著しく圧迫した。パーソンズはヘレンに、婚約指輪を質に入れるよう説得しさえした。
■ アメリカ西海岸の宇宙開発とスーサイド・スカッド#1 -2021年11月19日(金)22時30分
「宇宙の傑作機ソユーズロケット」を書くなかで調べたものの一つに、大戦前後のアメリカのロケット開発の状況というものがある。JPLの創設とその草創期に関わる物語、特にジャック・パーソンズ、フランク・マリナ、銭学森、マーティン・サマーフィールドらの物語は、ロケット開発史に特筆すべき足跡を残しているにもかかわらず顧みられることが少ない。
JPLと西海岸のロケット開発、つまるところアメリカのロケット開発を遡ると彼らに辿り着く。ロバート・H・ゴダード(Robert Hutchings Goddard)ではない。
ゴダードはこの頃、全てを非公開にしての液体ロケット開発を孤独に進めていた。ゴダートの業績は何度か外部に知られる機会があったが、技術そのものは外部に渡ったことは無い。ゴダートは全てを特許で保護して外部に知られることを警戒していた。
ゴダードの秘密主義は、1919年に資金援助をしてくれていたスミソニアン協会に充てて書いたレポート「極端な高度に達する方法」"A Method of Reaching Extreme Altitudes"が新聞屋に漏れたときに決定的になった。1920年1月のニューヨークタイムズは、ゴダードを"高校で毎日学んでいる知識が不足している"と嘲笑したのだ。
1926年に史上最初の液体ロケットの打ち上げに成功した時も、1929年に気圧計とカメラを積んで打ち上げた時も、その技術的詳細は共有されることはなかった。ゴダードは液体ロケットや慣性誘導による飛行安定など多くの事を独力で成し遂げたが、それらはほとんど外部に影響を及ぼすことが無かった。
では、まずは一人目、ジャック・パーソンズだ。
ジョン"ジャック"・W・パーソンズ(John Whiteside Parsons)は並外れた、極めて強力な個性の人物だった。裕福な家の出身で、パサデナの大富豪たちが暮らす住宅街で使用人たちにかしずかれて何不自由ない少年時代を送っていた。両親は離婚していて裕福な母方に引き取られ、家庭教師を付けられて学校へは行かなかった。本だけが彼の友達で、古典ファンタジー物語とジュール・ヴェルヌにどっぷりと浸かっていた。
地元の中学に通うようになると、すぐにパーソンズはいじめられるようになった。リムジンで送迎されウールのブレザーを着てネクタイをした、イギリス訛りの長髪の太り気味の少年は、生来の失読症もあって即座に弱虫やマザコンと呼ばれ、侮辱され、背中を蹴とばされるようになった。
そんなパーソンズを救ったのは、2歳年上の大柄な少年、エドワード・S・フォーマン(Edward Forman)だった。彼が二人目だ。
いじめの現場に出くわしたフォーマンはその輪に割って入り、犠牲者を引き出していじめっ子をぶん殴ったのだ。フォーマンは貧しい家の出で、そしてフォーマンも失読症に苦しんでいた。
フォーマンはパーソンズの持っていた本の物語に、やがてパーソンズ自身の語りに魅力を感じるようになった。パーソンズにとってはフォーマンの与える助言と保護は何にも代えがたい素晴らしいものだった。
時はパルプ雑誌全盛の頃、二人はさまざまなパルプ雑誌にのめり込んだ。その年は"アメイジングストーリズ"誌に"宇宙のスカイラーク"そして"アーマゲドン 2419 A.D."つまりバック・ロジャースが現れた年だった。すぐに二人はロケットを発見した。雑誌の広告欄のおもちゃのロケット花火を参考に、パーソンズはさっそく花火の黒色火薬をばらして詰め替え、ロケットを作って彼の豪勢な家の庭で飛ばしている。
フォーマンの父親は電気技師で、その知識と資料が二人の作るロケットをさらに高度にしていった。二人は砂漠に出かけてロケットを打ち上げるようになる。翌年の1929年、二人はそろって地元のジョン・ミューア高校に入学した。
アメイジングストーリーズは各地のロケットマニアたちの活動を報告していて、そして文通欄には彼らへの連絡先が掲載されていた。パーソンズは各地各国のアマチュアロケット開発者たちに手紙を書き、特に当時既に最高の成果を出していたドイツ宇宙船旅行協会(VfR)、フォンブラウンに直接電話で問い合わせている。大陸と大西洋を越えるこの長距離通話を苦にしなかったのは、彼の家が大富豪であったからだった。
だがその年、大恐慌が世界を、そしてカリフォルニアを襲う。パサデナでは多くの大富豪が姿を消し、パーソンズの家も同様に大きな資産を失った。パーソンズの送迎のリムジンは早速消え、フォーマンの母はパートの仕事に出かけるようになる。しかし二人の少年は相変わらずいたずら好きでロケットと爆発が大好きなままだった。
当然ながらパーソンズの学校の成績は悲惨なものだった。彼の母親はパーソンズを全寮制寄宿学校に放り込むことにした。アメリカのカルチャーを知っていればご存じのこととは思うが、金持ちの子供が放り込まれる寄宿学校とは子供にとっての牢獄である。だが彼はそこからの脱出を果たした。トイレを爆破して無事放校となって戻ってくることに成功したのだ。
元のジョン・ミューア高校に戻ってきたパーソンズはもうかつてのいじめられっ子ではなかった。自分に自信を持ったハンサムな若者になっていたのだ。
大恐慌のさなかの1930年、アメリカ惑星間協会(AIS)が発足する。これはアメイジングストーリーズの編集者ヒューゴー・ガーンズバックの肝入りによるものだった。
AISは自前でロケット開発をおこない、ガーンズバックの雑誌で華々しくその成果が報告されたが、ドイツの宇宙船旅行協会(VfR)からの技術情報に基づいて高度76メートルに到達したのが彼らの最良の成果だった。
1931年7月に母方の祖父が死に、パーソンズの家族は収入源を失った。パーソンズとフォーマンは二人そろってジョン・ミューア高校を中退した。
フォーマンはそのまま機械工として働き始めた。パーソンズはパサデナのユニバーシティスクールに入学したが、ここは他の学校から爪弾きにされた金持ちの子が押し込まれた小さな学校だった。きわめて自由な気風の学校で、パーソンズはそこで小説を書き、学級新聞を編集し、政治活動っぽいものにものめり込んだ。
更にパーソンズは地元の爆発物製造会社、ハーキュリーズパウダーカンパニーでバイトをするようになる。パーソンズは既に科学の知識で優秀で、更に知識を深めようと貪欲だった。勿論ロケットの為だ。フォーマンは機械加工に長じてロケットの構造を提供するようになっていた。パーソンズは会社の化学物質を流用して固体ロケットの推薬を作った。
ユニバーシティスクールの卒業後、パーソンズはパサデナジュニアカレッジに入学したが学費不足で、一学期で退学することとなった。
パーソンズが望んでいたのは化学の正規教育を完了することだった。彼の向学心の強さはハーキュリーズ社の経営陣の心を捉え、彼に高額の報酬を、大学に進学するための資金として充分な額を稼げる仕事を提案した。ハーキュリーズ社の西海岸のもう一つの工場、サンフランシスコのすぐ北にある工場で、ダイナマイトを生産する危険できつい1日16時間の仕事だ。報酬は月100ドル、そしてサンフランシスコの大学、特にスタンフォードやバークレーといった超名門への入学斡旋は魅力だった。
パーソンズは彼の残された家族、母と祖母をロサンゼルスに置いたまま一人サンフランシスコで働き始めた。彼はスタンフォードで講座を受講できるようになったが、それにかかる費用は高すぎるとパーソンズは考えるようになった。母と祖母の生活費も若いパーソンズの負担だった。もし三人でサンフランシスコで暮らせればそれが一番良かっただろうが、それは無理だった。
パーソンズはやがて、家族と別れて一人で厳しい労働の日々を送るのに耐えられなくなり、そうして1935年、ハーキュリーズ社の好意の職を辞してロサンゼルス、パサデナに戻った。
パサデナには友も待っていた。フォーマンと共に新しい化学の知識を応用してロケットの開発を再開したが、やがて、化学以外の科学知識、物理学と数学と、そして理論が必要だという結論に達することになる。
かれらはすぐ近所の大学、つまりカリフォルニア工科大学のキャンパスをうろうろするようになった。
そしてすぐ出会うことになる。
■ 大戦中の滑走路舗装について -2017年7月30日(日)10時26分
戦前戦中を通じて日本側があまり重く見ていなかった要素のひとつに、飛行場の品質が挙げられる。
戦中戦後のアメリカ側の指摘には日本側の飛行場の品質の劣悪さが多く挙げられている。例えば誘導路を持たないため運用効率に劣り、爆撃等で主滑走路が塞がれると容易に使用不能になる点や、滑走路の隠ぺいが下手な点等だ。
また日本は盲目着陸支援などの地上側の整備を怠った。飛行場地上設備は航空技術のうちには入れられておらず、日本側の地上側設備は日中戦争前の水準に留まっていた。
日本の滑走路は煉瓦などを下に敷いた上にコンクリートを舗装するものだった。煉瓦の下には路盤は無かった。そもそも路盤という概念自体が戦後のものである。目地は数メートル間隔で切られていた。圧延は行なわれてはいたが機械によって行なわれるのは稀であり、芝生で運用されることも多かった。戦前日本の滑走路は幅70〜80メートルと広く、両端に大きなサークル状の舗装部分があるのが特徴的である。
路盤が無いのは道路も同じで、これはアスファルト舗装も同様だった。アスファルト舗装の厚みは5センチほど、これはコンクリートも同じで厚みは不均一、鉄筋等も入っていなかった。
大戦末期に重爆用に建設された、例えば大刀洗北飛行場では滑走路幅は30メートルまで狭くなり端のサークルが無くなっている。また米軍風の誘導路を設けるようにもなっている。この時期の滑走路のコンクリート舗装に鉄筋が入っていたかには諸説あるが、四式重爆の1軸当たり接地圧は全備重量でも7トン程度であり問題は無かっただろう。ただ4発重爆撃機となると問題で、コンクリート舗装でなく砂利を深く敷き詰めたマカダム舗装が正解であろう。問題は展圧の大きさとなる。
米軍は戦前から重機を使った圧延をおこない、舗装にアスファルトを使うことも多かった。アスファルト舗装は施工後使えるようになるまでの時間がコンクリート舗装より大幅に短くなる。
1930年代アメリカ各地では有料高速道路(ターンパイク)建設が相次いだが、それらは殆どは日本と同じ5センチ厚の不均一アスファルト舗装だった。その後進んだモータリゼーションにあわせ、舗装の耐久性向上の為さまざまな評価試験が考案され、輪荷重5.6トンまでの設計法が開戦前には確立されていた。
だが滑走路用舗装となるとその荷重、開発中の重爆撃機XB-19の輪荷重16トン、全荷重72トンという桁違いの値が問題となった。1939年まで米空軍はほとんどの航空機を草地で使う想定だったのが大転換である。
1941年に試験舗装されたラングレーのアスファルト舗装滑走路は重爆想定の荷重試験に耐えられなかった。1942年に入ってカリフォルニア州の高速道路技術者O・ジェームズ・ポーターが開発した試験方法、CBR(カリフォルニア支持力比)試験が導入され、そこから理論的に外挿された値が試された。試験は材料のせん断歪みを計測していることに等しい。つまり砕石路盤の断面積を増してやれば、この場合深さを変形が問題とならなくなる水準まで増してやれば良い。この試験舗装はB-29の片輪27トンの荷重にも耐え、コンクリート舗装を主張する反対派をねじ伏せたのだ。
また誘導路には細長い穴あき鉄板を敷き詰める舗装が多用された。これは滑走路の損傷部位を塞いで素早く使えるようにするのにも多用された。
日本も穴あき鉄板をラバウルでは滑走路に使用している。だが他ではこういった工夫は見られなかったようだ。
福生飛行場、後の横田の1941年と1947年の状況を航空写真によって比較すると日米の飛行場の違いがよく判る。戦中の滑走路は幅80メートルと広く、格納庫前のコンクリート舗装が僅かしかない。
対して米側は格納庫前のコンクリート舗装を大きく拡充し連結して、主滑走路を新しく舗装しなおしているが、新しいものは幅が狭い。また中間位置に出られるランフェイ、新しい排水路が掘られているのにも注目すべきだろう。アメリカでは路盤変形の主要因として水分を挙げ、排水を重要視していた。
戦後の道路技術はCBR試験によって一変した。CBR試験は現在でも世界中の舗装道路で使われている。アメリカではCBR試験によって得られたパラメータに従って1951年にWASHO道路試験、次いでAASHO道路試験という大規模試験によって道路設計が固められることになる。路盤概念はこの日本での翻案である。
■ 日米の工作機械と生産#3 -2017年7月28日(金)21時08分
開戦前夜の国産工作機械の品質をざっと説明しよう。
まずその架台の鋳鉄品質から海外の機械とは違っていた。それまでの鋳鉄は肉厚によって強度が変化したが、当時海外で一般化しようとしていた鋳鉄品質ミーハナイトは肉厚によらず均一な強度となる。ミーハナイトは戦中にこれを国内で再現したところもあったが[5]、ミーハナイトの日本への本格的な導入は1950年代までずれ込むことになった。
ボールベアリング品質も全く違っていた。当時の池貝製作所製の旋盤と、コピー元のドイツ製旋盤とを比べると、オリジナルには存在しない注油口に気づかざるを得ない。精密ベアリングはスウェーデン製SKFまたはドイツ製FH加工済み鋼球の輸入によって賄っていた。チェーン用の鋼板も輸入である。国産軸受は日本精工と光洋精工、西園鉄工所(NTN)が生産していたが、スウェーデン鋼丸棒の輸入に頼ったものだった。国産の工作機械用軸受けが誕生するのは1942年まで待たなくてはならなかったし、材質の問題は付いてまわった。そしてそもそも技術が10年遅れだったのだ。
工作機械の性能の差は、スピンドルの最大回転数のような判りやすい部分でも明白だった。海外製旋盤の大半が3000rpmを達成しているのに対して、国産だと2000rpmに達するものは皆無だった[4]。
当時の工作法の本を読むと、機械の扱いや加工法については詳細に説明されているが測定機器の説明はページ後方でしかも操作法のみ、測定して出た値の取扱いなどの解説は皆無だった。図面の読み方もほとんど説明が無く、電気溶接などの新しい加工技術の解説で唐突に出現するのみだった[6]。
また冶具の重要性は全く意識されていなかった。当時の冶具と言うのはボール盤加工で楽をするために板にあらかじめ穴を開けて穴位置出しを容易にする程度のモノしか無かった[7]。
こういった状況を問題視する者も当然存在した。汎用工作機械ではなく専門の機械を並べて専門工を養成すべきだと主張する者は多かったし、専用機械によって構成されるラインを構築しストップウォッチ片手にタクト生産をやろうという試みも、投資余裕のある大企業では幾つか見られた[4]。三菱重工名古屋発動機製作所ではトランスファーマシンの導入が試みられている[8]。
機械生産に適した規模に各工場を再編しようと言う主張は生産力理論の支持者に多かった。その主張は産業統制のかたちで実行に移されることになる。
日中戦争直前には国産工作機械の生産台数は二万台、生産額3000万円に届こうとするところまで成長していたが、1936(昭和11)年、陸軍のシンクタンクだった日満財政経済研究会が作成した重要産業五カ年計画は、工作機械生産を額面五倍の毎年五万台、うち五千台を満州で生産するというものだった。1937年の資源審査会の答申はさらに上積みした国内生産五万台に変更された。
このために1938年工作機械製造事業法が制定されたが、これは中小企業を統廃合し少数の大企業のみを特別扱いするものだった。大企業である許可会社以外の中小企業は各県の第一工作機械工業組合に統合されていく事になる。零細は第二工作機械工業組合の組合員となったが、第二工作機械工業組合への資材割り当ては無かった為、これは強制廃業と同じであった[3]。
重要産業五カ年計画は工作機械増産を生産力増大による国力増大と言う政策枠組みの中に位置づけていたが、日中戦争はこれを戦争遂行のための施策に変化させることになる。これら施策は需要の裏付けとなり特に第一工作機械工業組合に属する企業の生産を増大させたが、計画経済の常として品質は相変わらずであった。
工作機械の品種は統廃合され、他業種と同じく標準型が制定されることとなった。これは実質、企業共同による海外主要製品のコピープロジェクトだった。この手法はそのまま戦後も使われることになる。
生産量の増大を図るため、大企業でも生産品種を絞り、パーツやユニットを供給して他企業で量産した部品とあわせて組み立てる方式がとられた。これは企業間のパーツ互換性を否応無しに向上させることとなった。
1940年7月の輸入途絶と需要増大によって工作機械の生産台数は更に倍以上に跳ね上がった。開戦は工作機械産業の需要を増大させたが、同時に崩壊も進行することになる。この時期ようやく陸海軍は工作機械産業の重要性に気がついたものと思われる。それ以前は例えば、1936年辺りまでは工作機械より自動車のほうが優先度が高いと思っていたらしい[9]。以降工作機械は終戦まで年五万台以上が生産された。
切削工具は消耗品である。当時出始めていた超硬バイトは国産化できていたが、問題は工作機械の65パーセントで使用されていた高速度鋼(ハイス)バイトで、スゥエーデン鋼の輸入が途絶えると新規生産は出来なくなった。
工作機械で用いられる特殊鋼、例えば高速度鋼やボールベアリング用クロム鋼はほぼスウェーデンやオーストリアからの輸入だった。超硬バイトもタングステン等の希少元素が欠乏すると生産できなくなった。高性能モーターもまた輸入に依存していた。輸入途絶は高性能工作機械が作れないという事も意味していた。
アメリカ製の高性能工作機械は使用する切削油にメーカー指定のものを使わなければならなかった。開戦後この切削油も消耗するに従い水を足してごまかしていたが、やがて焼き付きによって工作機械ごと使い物にならなくなった。工作機械を作る工作機械が使い物にならなくなると当然生産も品質も落ち込むことになる。
大戦中量産された国産の普通旋盤は皆スピンドル速度がせいぜい500rpmという悲惨な性能だったが、それ以上の性能を発揮するために必要な切削工具がそもそも無くなっていた。資源節約から摺動部の処理は行なわれず、そのためすぐにガタが出るような代物だった。
工作機械需要の逼迫に対して資源は明確に不足しており、例えば年11万台という過大な生産計画が資源の裏付けも何も無く飛び出しては有耶無耶のままに消えていった。
エンジンのシリンダー加工に使う内面研磨盤は、1941年の生産台数192台に対して1944年の生産要求は1075台にも達していた。これら目標は主要工作機械メーカーに頼ることなく達成されたが、つまり精度の無い粗悪品が930台ばかり出来たという話であった。歯車形削盤の生産要求600台も同様である。
対して生産管理と冶具の使用はこの時期大きな進歩を見た。工業規格は戦争中に大幅な拡充を見ることとなる。原価計算は標準計算が導入された。熟練工を徴兵で失い臨時工を抱えた生産現場ではマニュアルの重要性が認識されるようになる。
空襲によって生産設備が失われると再建のために工作機械が必要とされたが、一緒に工作機械も失われていた。1944年12月の地震被害もあって工作機械生産を打ち切って工作機械を航空機生産にまわす決定が下されることになる。ただこの転換と動員計画が順調に推移したかと言うと疑わしい。もはや生産転換に必要な資源すら欠乏していたからだ。
終戦後残っていた工作機械の台数はおよそ75000台、その大半を賠償のために海外に送られることになり、うち優秀性能機であるとされたものを調査したストライク賠償調査団はその品質の劣悪さを「使い物にならない」と端的に要約した[10]。ストライク調査団は全ての工作機械の日本への残置を勧告した。こういった状況はしばらく変わる事がなかった[11]。
「昭和27年2月、米国から工作機械買い付け調査団が来日しました。米ソ関係が一触即発の危険な状態にあり、国防上設備拡張が急務だったのでしょう。……ところが結果的に彼らは1台の工作機械も買わないで帰国してしまいました。……私は翌年(28年)米国へ行った際,クラーク氏(調査団団長)をたずねました。……日本製工作機械を1台も買わなかった理由を問い質しますと『日本はあれで、よく戦争をしたな』というんですわ。……非常にショックでしたね」小山省三〔大日金属工業会長〕談[12]
戦前戦中の工作機械に関する状況も、先に描いた他の技術分野と同じく暗澹たるものであるが、しかし、戦後日本がやがて世界に冠する地位に到達する、その萌芽が既に見えているのに注目したい。
輸入途絶と標準型制定は、日本が独自に必要に応じて工作機械を開発するきっかけとなった。精密転がり軸受はこういう条件下に無ければ独自製造という決断まで至らなかっただろう。大手メーカーの技術は拡散し、原価計算や冶具の多用なども行われるようになる。戦後の国産工作機械は海外メーカーとの技術提携を画期として成功への道を歩み始める。戦前問題とされた中小メーカの乱立状況は結局変わることがなかった。結局成功の最大の立役者は政策、工作機械設備投資に対する特別償却制度であった。
しかしこの成功、日本製工作機械が世界を征した期間と言うのも、電気電子産業と同じく、1980年代半ばから20年程度の間に過ぎなかった事に、歴史的視野を持って強い注意を払う必要があるだろう。
戦後日本の歩みは、もっと良く研究され評価されるべきである。
[4] 「日本機械工業の基礎構造」豊崎稔 1941年 日本評論社
[5] SME LIBRALY 9 日本の工作機械を築いた人々 倭周蔵氏
http://www.sme-tokyo.org/library9.pdf
[6] 「工具とジグ」東海林由吉 太陽閣
[7] 「機械工作法」財団法人国民工業学院
[8] 私の歩んできた道 生産技術者を目指す 山田卓郎 精密工業学会誌 Vol.78
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjspe/78/12/78_1060/_article
[9] 「日本工作機械史論」 長尾克子 ISBN4-526-05259-0
[10] 戦後日本工作機械工業の展開 -昭和20-40年代- 長尾克子 1995
http://hdl.handle.net/2115/31999
[11] わが國機械工場の陳腐老朽化について 淺田長平 1964
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tetsutohagane1915/39/7/39_7_748/_pdf
[12]「"母なる機械" 30年の歩み: 日本工作機械工業会創立30周年記念出版」1982
■ 日米の工作機械と生産#2 -2017年7月27日(木)19時04分
日本における現代的な工作機械は1857年にオランダから輸入された16台で、輸入は戦前日本の工作機械の需要を支え続けた。国産の工作機械が出始めるのは1880年代からで、産業として曲りなりに現れるようになるのは1890年代からである。
先駆者であった中島工場は中島兼吉が1886年に開業したが、経緯不明ながら1873年に東京砲兵工廠に卓上フライスと多軸ボール盤を納入している。中島は幕末に渡欧経験のある砲兵工廠出身の技術者で、日清戦争の頃は縁故受注もあってか東京を代表する機械工場とされていたが、設備投資に乏しく1907年の中島兼吉の没後は衰退の一途をたどることとなる。
初期の工作機械メーカーはまず大阪に多数生まれたが、どれも零細企業だった。1903年には従業員20名以上のメーカーは24社を数えている。いずれも専業ではない。
池貝製作所は田中重久の工場で旋盤工であった池貝庄太郎が1889年に2台のイギリス製旋盤と共に開業したのを始まりとし、同年旋盤を独力複製したがこれは実物が科学技術館に展示されている。
その後も人力を動力としてわずかな工員数で様々な機械を製造していたが1905年に飛躍のきっかけとなる池貝式標準旋盤を完成させた。同1905年には東工大の前身、東京高等工業学校から海外製旋盤のコピーの注文が出されたが、これは詳細な仕様書とプラット&ホイットニーの検査員を勤めた経験のある教員による検査が付いてきていた。この要求を満たすために池貝製作所は大きな質的跳躍を遂げることとなる。
若山鉄工所は1898年に25歳の若山瀧三郎が開業し、やはり手動の旋盤から出発して日露戦争の需要増大にのって海外製工作機械を導入し、やがて工作機械専業メーカーとして頭角を現していった。
大隈鉄工所は製麺機械の製造から1904年ごろから工作機械の製造を始めたが、経営を支え続けたのは製麺機械だった。
唐津鐵工所の創業はずっと遅く1909年、竹内鉱業の社内部門として発足した。当初から品質指向を明確にしていたが、1911年に竹内鉱業が三菱合資会社に買収されると唐津鐵工所への投資規模は激増した。1913年の東京高等工業学校に納入された工作機械の品質は従来の国産工作機械とは隔絶したものだった。1916年の経営分離後は合理的工場経営が指向され、唐津鐵工所は大型機メーカーとして地位を確立することになる。
新潟鐵工所はアメリカ人技師の指導によって立ち上げられた日本石油の新潟支所の社内部門が1910年に独立したものであるが、受注生産は1904年の東京砲兵工廠からの旋盤50台に始まっている。ただし外販は1913年からである。
日清日露の戦争による工作機械需要は、瞬く間に輸入機械の国内在庫を枯渇させ、国産機械の需要を創出した。当時の国産工作機械はメーカーブランドを名乗るものは稀だった。
「内地品は独創的計画少く……甚だしきは全能力運転に於て機械の振動烈しく精密なる作業に堪へざるものもあり、或は組立後手入不能のものあり……又邦人の体格体力等に没交渉にして全然不適当のものあり……」[4]
品質と呼べるものは実質存在しなかったのだ。
戦後の需要収縮は廃業と再編の時期となったが、これは第一次世界大戦の勃発による好況で一転した。まず世界大戦による欧米の輸出途絶による国内需要があった。次いで工作機械の輸出も始まる。これは主にアジア圏への輸出で、これもまた欧米の輸出途絶に付け込むものだった。そして戦争が終わり欧米製品の輸出が再開されるとこれら特需は瞬く間に消滅した。品質的にまったく太刀打ちできるものでは無かったからだ。
国内メーカーの設備投資が続いたのは1920年代初頭までだった。この時代の国産工作機械の精度はその製造に使用した工作機械の精度を超えることは無く、つまりどれだけ高価な輸入機械を導入できたかで一意に決定されるものだった。この時期工作機械製造でリミットゲージを用いていたのは池貝や唐津、新潟など限られた企業だけだった。
第一次世界大戦の輸入工作機械の大半を占めたのはアメリカ製機械だったが、1920年代半ばアメリカの貿易が保護主義に転じ、関税率の上昇に伴ってアメリカ製品がシェアを失い、その分ドイツ製工作機械が躍進することになる。ドイツの機械産業の振興はアメリカの保護主義のおかげだったのだ。
昭和の不況もあって工作機械の需要はほぼ軍需に占められていたが、軍縮はこれら軍需も失わせた。民間需要は品質の劣る零細メーカーの供給する工作機械で満たされていた。これら零細企業は現物合わせレベルの精度しかなく、炭素工具鋼を使うレベルの製品しか供給できなかった。
昭和の不況期に工作機械専業メーカーとして生き残ったのは唐津鐵工所のみ、残りは大なり小なり様々な機械製造に手を出すことになった。唐津と池貝は原価計算を工程管理に持ち込む現代的な工程管理を導入していたが、他には波及しなかった。
これら優良メーカも、独自開発力となると限られたレベルしかなく、基本的に輸入工作機械のコピーしか行なわなかった。そもそも顧客である軍の指定だったのだ。軍はお手本となる工作機械を輸入して民間に渡してコピーさせていた。技術的問題解決は独自の解決ではなく、他の機械を購入することで行なうこととなっていた。そもそもこの時期の海外の技術進歩の速さに国内業者は全く追従できていなかったのだ。
1930年代に入りアメリカが貿易自由化に転じると、再びアメリカの工作機械シェアは上昇に転じた。アメリカの対日貿易額は増大し、1933年にアメリカの輸出したフライス盤の42.9パーセントが日本向けであった。日本の増大した軍事予算のうちの相当額がアメリカとドイツ製工作機械に投じられることとなった。この金額はアメリカの工作機械業界に開戦前夜の対日制裁に反対させるに充分なものだった。
アメリカの最新工作機械は高度化の結果として運用側にも様々なものを要求するようになっていた。例えば歯切り盤の導入には微分方程式に通じていることが要求されたし、見積もり前に作業行程の資料、図面や行程明細書を要求するようになっていた。いわば懇切丁寧になっていったのだが、軍事用途には障害となっていった。
旧来の軍工廠では工作機械はそのまま導入されるだけで設備更新や品質管理の導入などは行なわれることが無かったが、新たに一から設備を導入した新興産業である航空機製造の現場では、少なからず新しい機械製造のやり方が導入されることになる。
民需も順調に伸びて安価な国産機械が導入されていたが、これら生産現場は旧来と殆ど代わるところが無かった。例外は豊田など、自前で工作機械製造に取り組むような一部の企業だけだった。安価な国産工作機械は相変わらず零細企業が現物合わせで製造しており、価格のディスカウントによって競争力を確保していたが、その低い利益率は新規設備投資を難しくしていた。
恐らく国産大手が安価な高性能機械を供給すれば良かったのだろうが、そういう事態は起きなかった。大手にとって民需は存在しないも同じだったのだ。
1930年代はアメリカからの工作機械輸入が年5000台にも達したが、同時に国産工作機械の生産もほぼ同規模で増大した。これは殆どが官需だった。メーカーは大戦中に強制的に整理合併されるまで多くが中小企業だった。
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本記述は主に以下の資料に拠った。
[3] 「マザーマシンの夢 日本工作機械工業史」沢井実 名古屋大学出版会 ISBN978-4-8158-0747-4
[4] 「日本機械工業の基礎構造」豊崎稔 日本評論社
■ 新刊「宇宙用コンピュータの構成と設計」のお知らせ -2017年7月26日(水)22時57分
コミックマーケット92 8月12日(土曜日)東ペ60b、風虎通信での頒布となります。表紙はSICP本(MIT Press版 CC-BY-SAライセンス)のパロディになると思います。
タイトルの通りこれ一冊で宇宙用コンピュータが作れるようになる本です。嘘じゃありません。勿論それなりの実行と努力は要求します。というか他の類書(あるのか?)を読んでも宇宙用コンピュータは作れないでしょう。
本書は見積もりや試験、インタフェイス仕様といった他の工学系類書には無い項目、視点がかなり多めに盛り込まれています。ソフトウェア関連も多めに盛ったつもりです。耐放射線性の項目はかなり踏み込みましたが、全て公知の資料にある内容です。
あと、福間晴耕さんの「宇宙の傑作機 ソビエト・ロシアの偵察衛星 ゼニットからペルソナまで」も出る筈です。
また、去年の夏に頒布した「太平洋における電子と情報の戦争 1935-1945」の再頒布もおこないます。恥ずかしい誤字脱字等多少は直った筈です。
「太平洋における電子と情報の戦争 1935-1945」推敲の段階で相当分量を割愛したのですが、それらのうちの一つ、工作機械についての記述を手直しした上で数回に分けてここに掲載したいと思います。割愛したのはどう考えても工作機械が電子でも情報でもなかったからです。同様に道路技術についても割愛した分を紹介したいと思っています。
では。
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日米の工作機械と生産#1
19世紀初頭にヘンリー・モーズレーの開発したねじ切り旋盤は、画期的な自動送りを備え、現代のものと基本的に同じ構造のベッドや刃物台、心押し台などを持ち、現在の旋盤の原型となった。モーズレーはさらに高精度の定盤とマイクロメーターを生み出す。彼の生産するねじは標準となった。
平削り盤は1820年に現れ、これにより平行運動機構がようやく実用精度で作れるようになった。ジョゼフ・ホイットワースは1941年ねじの国家規格を提案している。ホイットワース社は最初の近代的専業工作機械メーカーとなった。
この時期の歯車は割り出し盤と切削盤の組み合わせで加工されていた。きちんとしたインボリュート歯車が製造されるようになったのは1940年代である。
工作機械の王座をイギリスが譲るのはそのすぐ後、1950年代である。アメリカは以降120年以上に渡って工作機械の王座を維持し続けた。
精度が生産性につながることは19世紀初頭にはエリ・ホィットニーによって見出されていた。1915年以降、米政府の調達火器は標準への互換が契約で求められるようになる。
1845年に最初のタレット旋盤が、1850年に最初の現代的なフライス盤がアメリカで売り出された。螺旋溝を持つ現代的なドリルもアメリカで発明されたが、これが機械切削で製造できるようになったのは1862年だった。
1855年に完成したコルトの新工場では、調達した工作機械の額より多い金額が、冶具やゲージを揃えることに費やされていた。アメリカでは安価な労働力である移民でも生産できるように機械化が推進されていったのだ。イギリス人は一次世界大戦の頃まで、職人気質によらないアメリカ製品はイギリス製品に質で劣ると考える事を好んだ。
炭素工具鋼は1868年ロバート・フォレスター・マシュトによってイギリスで発明された。1873年にはアメリカでフレデリック・テイラーによる切削工具の研究が始まっている。テイラーは刃先の丸い比較的柔らかい刃物のほうが鋭い刃物より高速で切削できること、既存の工作機械の送り動力の不足などを立証し、連続的に水をかけながら切削する手法を生み出した。テイラーは膨大な試験と徹底した科学的手法で、やがて高速度鋼(ハイス)を生み出すことになる。高速度鋼の性能は工作機械の性能をも一挙に引き上げざるを得ないものだった。
旋盤の要素のうち自動調芯チャックだけははずっと遅く19世紀末に実用化した。砥石を使う精密研削は隙間の無い密閉を実現したが、この技術は当初ほぼアメリカでしか使われなかった。モータが工作機械に採用されるようになるのもこの時期である。
工作機械の生産性の向上は新しい水準の生産を実現した。ボールベアリングが使われるようになり、アメリカの自動車生産は1890年の4万台から1897年の100万台まで激増する。テイラーは1911年に「科学的経営の原則」を出版し、品質管理の原則はここで確立された。
20世紀になると現代と同じホブが現れ、歯車は安価な機械要素となった。またドイツの工作機械の躍進が目立つようになってきた。イギリスでは未だに工作機械をモーターではなく皮ベルト、高速度鋼ではなく炭素工具鋼を使っている工場が大半だったのに対して、ドイツはアメリカの模倣の段階を脱しようとしていた。初期のホブ切り盤はドイツで最初に製造されたのだ。
1930年代になって、ドイツでタングステンカーバイト焼結ダイスが発明され、これにより工作機械の性能は更に飛躍を余儀なくされることとなる。ベアリングは5000rpmの高速回転に耐える精度が要求され、切削油も添加剤入り水溶性切削油剤が使われた。
工作機械を統合したオートメーションは、まずフォード社で高度な単能機械、トランスファーマシンとして表れ、次いで高水準な汎用工作機械を連結したリンク・ラインシステムとして普及した。ならい旋盤の技術と冶具の組み合わせは汎用機を半自動工作機械にすることが出来たのだ。やがて第二次世界大戦の軍需を満たすために、アメリカの様々な産業でこうした生産技術が採用されることとなる。
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本記述は主に以下の資料に拠った。
[1] 「工作機械の歴史 職人の技からオートメーションへ」L・T・ロルト 平凡社ISBN4-582-53203-9
[2] 「近代技術史」ダニレフスキイ 三笠書房
■ 同人誌訂正個所について -2016年8月23日(火)19時15分
同人誌「太平洋における電子と情報の戦争 1935-1945」を、風虎通信さんから出させていただきましたが、申し訳ありません。幾つかミス記述がありました。
現在確認している訂正個所は以下の通りです。
5p 5行目 "原材料輸入量の現象を" => "原材料輸入量の減少を"
42p 8行目 "戦費調達力が二百万ドル" => "戦費調達力が二百億ドル"
同 9行目 "一年半で百二十八万ドル" => "一年半で百二十八億ドル"
45p 6行目 "設立提案を" => "設立提案に対し"
68p 10行目 "従来の抵抗器は" => "従来の、そして日本の抵抗器は"
74p 27行目 "アンテナそれぞれでの" => "アンテナそれぞれで"
81p 6行目 "奥行き36メートル" => "奥行き精度36メートル"
113p 13行目 "MITのドレーバー" => "MITのドレーパー"
116p 20行目 "開戦直前だったのて" => "開戦直前だったので"
117p 20行目 "三色弾" => "三式弾"
132p 11行目 "使用波長が技術上の問題で大きく" => "使用周波数が技術上の問題で低く"
140p 11行目 "OODAサイクル" => "OODAループ"
あと、表紙が太平洋にいないドイツ艦とFuMO23
次は「宇宙用コンピュータの構成と設計」の予定です。
■ "宇宙の傑作機 モルニヤ" と修正箇所について。 -2015年8月15日(土)18時55分
コミックマーケット88、サークル"風虎通信"へ来ていただいた方、ありがとうございます。今回、「宇宙の傑作機 モルニヤ」を頒布することができました。
本書は旧ソ連/ロシアの非静止軌道通信衛星モルニアシリーズを中心に放送衛星、気象衛星等の実用衛星について、その開発史をまとめたものです。
モルニアについて調べているうちについ寄り道した気象衛星メテオールが、デザイナーのイオシピュン(А. Г. Иосифьян)共々なかなか面白くて、メーカーのVNIIEMの技報を読み漁ってしまいました。イオシピュンは学生時代に"電気銃"を発明し、戦前は電気飛行機と電気ヘリコプター、戦時中は電気手榴弾を開発した電気野郎ですが、コロリョフやヤンゲルらと交友も深く、戦後はB-29のアビオニクスのコピー生産をやりながらコンピュータの開発もやって(チェルノブィリの制御用コンピュータはソフトもVNIIEM製でした)アルメニア科学アカデミーの長もやって、とえらい人物です。現在のロシアの電気推進、ホールスラスタも、元を辿れば彼の開発でした。電気ロケットを作るあたりまったくブレていません。
あと寄り道と言えば、GPSの開発初期に関わった、Nakamura Hideyoshi氏とは一体どのような人物だったのでしょうか?
それと、早速ですが修正個所があります。申し訳ありません。
P20 誤:これらは全て、4.2MHzのAM変調信号に詰め込まれる。
正:これらは全て、搬送周波数4.2MHzのAM変調信号に詰め込まれる。
P24 誤:当時の256kbpsのPCM-FM変調ダウンリンクでは、
正:当時の256bpsのPCM-FM変調ダウンリンクでは、
P24 誤:テレメトリに使用されたのは20MHzのPWM伝送方式だったが、
正:テレメトリに使用されたのは搬送周波数20MHzのPWM伝送方式だったが、
P40 画像に問題がありました。"メドベージェフのチューブ"は以下のような装置です。
P46 画像のキャプションを訂正します。
@根元のヒンジ内のバネでアームが展開し、展開完了で@根元のラッチが外れてAの棒が衛星側に引っ張られて、Bのヒンジ固定が外れて90度回転し、アンテナ展開が終了する。
P70 誤:レスチネフ社ではこの機種をモルニア-1Kとしている
正:レシェトニェフ社ではこの機種をモルニア-1Kとしている
P84 [50] The Origins of GPS
誤:https://www.u-blox.com/images/stories/the_origins_of_gps.pdf
正:https://www2.u-blox.com/images/stories/the_origins_of_gps.pdf
P87 誤:モルニア軌道とはかなり似ているが、
正:モルニア軌道とはかなり似ているが軌道ドリフトは遥かに小さく、
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Maker Faire Tokyo 2015へ来ていただいた方へ
"よわアーム"、独自開発サーボによる、弱いけど最低限使えるレベルのロボットアームをめざすプロジェクトのデータ一式は以下URLののGithubに公開しています。
https://github.com/mizuki-tohru/YOWA-ARM
"てのりマイコン"てのひらサイズのBASICが動くコンソールのデータ一式は以下URLののGithubに公開しています。
https://github.com/mizuki-tohru/stm32f4-console
■ ポーランドの宇宙開発史#2 -2015年4月1日(水)00時02分
比較的牧歌的な、ネガティブに言えば他国よりかなり遅れた状況にあったポーランドだが、国際情勢の急速な変化はポーランドの宇宙開発にも影響を与えるようになった。
ポーランドは2015年4月、新たな打ち上げ機開発計画を発表した。これはRP-AとRP-B (Rakieta Przesylowa-Parcel or Dispatch Rocket-A,-B)の二種で、RP-Aは固体二段式の観測ロケット相当の機体、RP-Bは大型の液体打ち上げ機だ。双方ともRP、貨物ロケットだとポーランド政府は主張している。
RP-Aは全長6.5メートル、径34センチ、高度500キロに到達する能力を持つスペックを目指している。これはドイツのDLR(ドイツ航空宇宙センター)が独自にスウェーデン製MAXUS固体ロケットやブラジル製VSB-30固体ロケットを通じて打ち上げ機開発に関与しているのをモデルにしたものである。これまでポーランドは高度100キロを越える高度、つまり宇宙に到達したことが無い。意気込みの強さは発表の文面からも伺える。
ただ、イージス弾道ミサイル防衛システムのスタンダードミサイルに様々なスペックが類似していることが既に幾つかの筋から指摘されている。ポーランドは現在NATOの部隊をポーランドに展開するよう求めているが、ドイツなど他の条約国の反応は思わしくない。ポーランドはアメリカの地上配備BMD、イージス搭載SM-3を受け入れ、近いうちに稼働段階に入るが、ポーランドは独自の弾道ミサイル防衛システムを構築する意向を持っている[9]。
RP-Bは、これはまたブラジルでの打ち上げが怪しくなったツィクロン-4打ち上げ機にそっくりである。これは主にウクライナのユージュマシュ社に対する経済支援、保護の目的があるものと思われる。ロシア製の機材を他の機器で代用するのが主な計画らしいが、これはポーランドがロケット開発のノウハウを入手しようとする動きの中の一部だろう。ただこの動きは弾道ミサイル防衛システムの枠を超え、弾道ミサイルそのものを保有しようとしているのではないかという疑惑を向けられることにも繋がっている。
大型液体打ち上げ機最初の搭載ペイロードはすでに開発が終了しているらしい。目標は有人運搬、つまり有人打ち上げであると宣言されている。試験機Pirxieは直径2メートルの球形をした有人機で、熱設計上の理由から、半球をそれぞれ紅白に塗装したいわゆるポーランド球体[10]となっている。打ち上げがいつになるか、そもそもどこから打ち上げられるのかも不明だし、そもそもこれがポーランド独自の打ち上げにカウントできるのかも疑問なのだが、詳報を待ちたい。
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今回更新分は勿論大嘘なのです。ポーランドはきっともうじき宇宙到達を平和裡に果たすに違いありません。
[9] http://www.defensenews.com/article/20140201/DEFREG01/302010028/US-Ready-Assist-Poland-Indigenous-Missile-Defense-System
[10] http://polandball.wikia.com/wiki/Poland_cannot_into_space
■ ポーランドの宇宙開発史#1 -2015年3月31日(火)04時41分
ポーランドの宇宙開発は1956年、ワルシャワでのポーランド宇宙協会の設立から始まるが、実際のロケット開発は、その後一貫してポーランド南部の都市クラクフを中心として行われた[1]。
ポーランドのロケット開発そのものはそれまで至って低調な歴史しかなかった。1650年代の兵器技術者カジミェシュ(Kazimierz Siemienowicz)はポーランド出身とされ、多段ロケットの原理を含む議論を出版したとされる[2]。
ナポレオン戦争のさなか、砲兵大将ユゼフ·ベム(Józef Bem)がロケット兵器を開発し、これは使用されて大きな成果を上げているが、肝心のベムはフリーメーソン会員であった為に軍から追放され、1848年から1849年のハンガリー蜂起に関わり、そしてその蜂起の崩壊後イスラム教に改宗してトルコ軍に入るという波乱すぎる人生を送っている[3]。アレッポで死んだ後は遺骨がポーランドに持ち帰られ、公園に霊廟が建てられているという。
それから第二次大戦後しばらくまでの間、ポーランドでなんらかのロケット熱があったかというとどうも無かったようである。
第二次世界大戦中、ドイツのA-4(V-2)ミサイルの生産テスト及び発射訓練部隊は、クラクフの西120キロのブリツナに移転していた。これに関連して地元でも工場等の利用など影響があった可能性もあるが、史実としては伝わっていない。
戦後、クラクフに住んでいたスタニスワフ・レムは1951年にSF小説「金星異常なし」Astronauci で一躍有名作家の仲間入りを果たす。レムがクラクフでアマチュアロケット開発に関わったという資料は見つけることが出来なかった。
1958年、ヤツェク(Jacek Józef Walczewski)がクラクフの水文気象学研究所(PIHM)支所で開発したロケットRMは固体ロケットだった[4]。
1956年にポーランド宇宙協会が設立され、翌年クラクフ支部が開設されると、このクラクフ支部こそがポーランドのロケット開発の中心となった。ヤツェクは1958年まで技師として働いていたが、水文気象学研究所で彼はロケット開発を始めたのだ。
彼らは日本の宇宙開発に触発され、大学主導の宇宙開発を目指すことにした。まずはペンシルからで良いのだ。
最初に作ろうとしたRM-0はロックーンで打ち上げようというものだったが、挫折している。完成したRM-1は長さ174ミリ、径66ミリ、4.9キログラムの小さなロケットで、機体はボイラー管を流用したものだった。RM-2は二段式、RM-3は三段式の予定だった。RM-1はクラクフ北西のBłędowskiej砂漠(そう呼ばれている地域がある)で1958年10月に打ち上げられた。到達高度は当て推量に近いが3000〜3500mだった。
ヤツェクは1959年に改良型RM-1Aを開発した。全長はおよそ1メートル、径は16ミリ、パラシュート回収可能なペイロードベイを持っていた。しかし1960年2月の最初の打ち上げで爆発し、残った同型二機は打ち上げられなかった。
RM-2Aは全長1.4メートル径80ミリの二段式で、1960年6月にBłędowskiej砂漠で打ち上げに成功、さらに一段目空力翼を大きくして直進安定性を与えた改良型RM-2Pを開発したが打ち上げは失敗した。
ヤツェクを中心としたクラクフのエアロクラブは、ロケットを貨物輸送に用いることを提案していた。新しく開発されたRM-2CおよびRM-2Dは1961年から1965年にかけて、数度にわたって郵便輸送のデモンストレーションを行っている。最初の二度は失敗、6回打ち上げに成功しましたが、一回は機体が水没してペイロードともども失われている。
1961年、ポーランドのロケット開発者たちは、太陽黒点極小期国際観測年(IQSY)へ観測参加することにした。太陽活動が最も活発だった1957年のIGYへの観測参加というかたちで米ソの最初の衛星は打ち上げられ、そして今度は太陽活動が最も穏やかな期間を観測しようという訳だ。観測に必要なのはもちろん高高度に到達できるロケットだった。
1962年、航空研究所(IL)及び水文気象学研究所(PIHM)が開発した固体ロケット、メテオール-1(Meteor-1)は全長2.5メートル、径12センチ、先端に4.5キログラムの分離式ペイロードを搭載し、最高で高度36.5キロに到達した。ペイロードは主に金属針のチャフで、これを地上からレーダー観測することで高層大気の風を観測することができた[5]。
打ち上げはポーランド北部ウストカの海岸から、高さ4メートルのランチャを使って行われた。1964年から40回の開発打ち上げの後、1965年6月からIQSY観測を開始し、1967年までに41回の観測打ち上げが行われた。打ち上げ成功率は91%だった。
1963年、水文気象学研究所は人工降雨や雹抑制実験のためのロケットRASKOを開発した。RASKO-1はRM-2の転用で、1964年開発のRASKO-2は長さ1.3メートル径5.5センチの単段固体ロケットだった。RASKOは海上打ち上げされたが、一度も高度1キロにすら届かなかった。RASKOは1970年まで実験が継続されたが、成果は思わしくなくその後計画はキャンセルされた。
さらに大型のメテオール-2は全長4.5メートル、径35センチ、二本のブースターを装着しての全重は400キログラム以上にもなっていた。ペイロード重量は10キロ、これを最高で高度90キロまで打ち上げることができた。計算から導かれる推進剤の比推力は130秒程度と、これは黒色火薬のものだ。ペイロードは温度テレメトリをダウンリンクするラジオゾンデで、1965年から開発を開始して1968年には最初のバージョンであるメテオール2Hが飛行した。メテオール-2Hは7機が打ち上げられた後、改良型のメテオール-2Kが1969年にとって代わった。
彼らは当然多段化を考えていた。そのための試験機がメテオール-3で、1967年から開発を開始し、1968年から打ち上げられるようになった。これは基本的にはメテオール-1のモジュールを二つ縦に繋いだだけの代物である。そういう訳で高度は最高65キロまでにしか到達しない。
だがメテオール計画は1970年、ゴウムカ失脚後の新政権により政治的に中止させられることになった。メテオール-Kは10回の打ち上げで、結局二段目を搭載しないまま終了した。最後のメテオールは1974年に飛んだメテオール3Eだった。新政権はソ連寄りの政策をとり、宇宙開発の独自開発路線は否定された。
1970年2月、日本の東京大学宇宙航空研究所は衛星打ち上げに成功し、世界四番目の独自衛星打ち上げ国となった。
1976年、ポーランド科学アカデミー宇宙研究センター(CBK)が設立されたが、活動はソ連の国際宇宙開発の枠組み、インターコスモスの一部として活動するに留まった。つまり打ち上げ機も宇宙機開発も行わず、宇宙機搭載ペイロードと客員宇宙飛行士を送り出すだけに留まった。
ミロスワフ・ヘルマシェフスキ(Mirosław Hermaszewski)はポーランド最初の宇宙飛行士である。1978年にソユーズ30号で打ち上げられ、サリュート6号に一週間滞在した。
ポーランド共産政権が崩壊した1989年以降も、ポーランド科学アカデミー宇宙研究センターの活動はほとんど変わらず、研究はおもに惑星間物理に限られてきた[6]。ESAの宇宙計画に参加するようになったが、主に観測ペイロードの開発と利用に限られている。2012年前後の欧州経済危機ではその活動を大きく制限されたが、ポーランド経済も少しづつ復活のきざしが見え始め、それにより活動も復活している。
現在、ポーランドのロケット開発は民間団体のポーランドロケット協会(PTR)のそれを最大の活動としている[7]。活動は2010年からと最近だが、クラフクを中心に主にハイブリッドロケットを開発、打ち上げている。
ポーランド最初の独自人工衛星「レム」(Lem)は2013年11月に打ち上げられた。開発はカナダとオーストリア、そしてポーランドの合同プロジェクトBRITEによって行われた。重量は6キログラム、20センチ四方の三軸衛星で、パドルは展開しない。スタートラッカとSバンド送受信機を搭載している[8]。同型の二号機ヘベリウスは2014年8月に長征4号で打ち上げられた。
[1] http://www.samolotypolskie.pl/samoloty/3071/126/Sekcja-Techniczna-Oddzialu-Krakowskiego-Polskiego-Towarzystwa-Astronautycznego
[2] http://pl.wikipedia.org/wiki/Kazimierz_Siemienowicz
[3] http://pl.wikipedia.org/wiki/Józef_Bem
http://phw.org.pl/rola-jozefa-bema-rozwoju-wojsk-rakietowych-krolestwa-polskiego/
[4] http://pl.wikipedia.org/wiki/Jacek_Walczewski
http://www.samolotypolskie.pl/samoloty/3104/126/Walczewski-Jacek2
[5] "Rockets of the World third edition"
[6] http://www.cbk.waw.pl/
[7] http://www.rakiety.org.pl/
[8] http://www.brite-pl.pl/pliki/satelita.html
■ C86、当サークルにおいでくださって有難うございました。 -2014年8月17日(日)21時47分
1:ハイレゾオーディオプレーヤ2014年版
サポートはhttp://www.wikihouse.com/madnoda/で行っていきます。マニュアルpdfはこちらにあります。
2:てのりマイコン
サポートはhttps://github.com/mizuki-tohru/stm32f4-consoleで行っていきます。マニュアルpdfをはじめデータ全般がこちらにあります。
3:「ソヴィエト・ロシア・ウクライナのコンピュータ」
申し訳ありません。ミスがありました。
7.4 プロジェクト・オーガス の項の最後は、正しくは以下のようになります。
"ウクライナでは80年代を通じてゆっくりと企業ASが導入されていき、経済の80パーセントがウクライナ政府の制御下に置かれることとなる[38]。ただこれはOGASではなくOAS(ОАСУ)であり、自動経済システムではない。
グルシコフは1982年に死ぬ。それはソ連にパーソナルコンピュータが生まれる前年でもあった。現在キエフには、グルシコフの名前を冠したサイバネティクス研究所が存在している。ウクライナでは現在でも発電所などでは細々と企業ASが開発、利用されている。"
[38] Надо ли изобретать колесо?
http://ehronika.com/2011/05/07/надо-ли-изобретать-колесо/
Автоматизовані системи управління технологічним процесом електростанцій
http://lektsiopedia.org/ukr/lek-7385.html
■ コミックマーケット86に、サークル名"航天機構"で参加します。 -2014年7月9日(水)23時28分
8月17日(日曜日)西く-16b、同人ソフトの西南、電子デバイス島です。頒布は以下のものとなります。
1:ハイレゾ高音質携帯オーディオプレーヤ
去年のものからDACがFN1242Aから変更になります。USBストレージ対応、秋月I2C小型液晶対応になります。ただ、まだ開発中なので、最悪出せない可能性もあります。
2:てのりマコン
400x240白黒ビットマップ液晶とキーボード、32ビットSTM32F4マイコン上でBASICがエディタ付きで動きます。リチウムポリマバッテリーでどこへでも持ち歩けます。
BASICはマイクロSD上のファイルの読み書きに対応します。充電はUSBからおこないます。フルシステムではBluetoothシリアル入出力やBluetoothキーボード化、アナログ入力、RS422シリアル入出力などにも対応しますが、頒布価格を抑えるために、基本キットにはそれらに対応するための部品を搭載しません。ただ、いづれも秋葉原に入手できる部品です。基本キットでは液晶とバッテリーを別途調達して組み立てる必要があります。これらも秋葉原や通販で入手可能です。
写真は開発版で、頒布するのはキーボードをシンクレアZXスペクトラムをベースに作り直した改修版になります。
その他基板も持参するかもしれません。詳細は直前にはもう一度書けると思います。
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あと、8月15日(金曜日)西あ-43b"風虎通信"さんで、"ソヴィエト・ロシア・ウクライナのコンピュータ 増補改訂版(仮)"が出ます。
前の本の内容を全部見直して、訂正した上で足りなかった部分を足しただけの筈が、なぜか100キロバイト分ほど内容が増えていました。増えたのは主に組み込みとパソコンです。
ソ連独自OSのDispakもじっくり調べましたが、前の本では作者を間違えていました。訂正します。Refalの作者トゥルチン(В.Ф. Турчиным)じゃなくて、別人のトゥリン(В. Ф. Тюрин)でした。トゥリン本人が書いた解説書も読みました。
Refalもソースから読みました。マルコフ連鎖のマルコフの子供が同姓同名で、マルコフアルゴリズムはその子供のほうの考案だとか、なんなの一体……
ウクライナのアーケードゲーム機ТИА-МЦ-1は収穫でした。ウクライナのコンピュータ産業については考察する価値があるでしょう。
■ ウクライナのバナッハ-タルスキ分割 -2014年4月1日(火)00時05分
西ウクライナ、ガリツィアの都市リヴィヴは、最近の国際情勢の中でよく耳にするようになった地名であるが、ここが元はポーランドの都市だった事、ポーランド人とユダヤ人の都市だった事はあまり意識されていないように思う。さらにこの都市が、かつてポーランド数学及び論理学の一大中心だったことは、ほとんど知られていないことと思う。例えば逆ポーランド記法の元となったポーランド記法の考案者、ヤン・ウカシェヴィチはルヴフ(リヴィヴのポーランド名)の出身者である。
バナッハ-タルスキのパラドックスでよく知られているポーランド数学の巨星、ステファン・バナッハもまたルヴフの出身者である。バナッハとポーランド数学、そして当時のルヴフは極めて緊密に結びついていた。
ルヴフは、第二次世界大戦まではポーランドの都市であり、第一次世界大戦後の西ウクライナ人民政府による短い支配の前はオーストリア-ハンガリー帝国に属し、ポーランド人とユダヤ人の都市として繁栄した。ルヴフはウクライナ人の都市とは決して言えなかった。
バナッハは1892年にクラクフで生まれ育ち、ギムナジウムを卒業した後、ルヴフ工科大学へと進学した。第一次大戦後、シュタインハウスにその才を見出されたバナッハは、優れた研究成果を次々と発表し始める。1920年、ルヴフ工科大学の助手に採用されると、同年博士論文でバナッハ空間を導入した。1930年に発表したタルスキとの共著論文「合同でない点集合の分解について」は後にバナッハ-タルスキのパラドックスと呼ばれることになる。
1939年、独ソ不可侵条約の締結に伴いソ連はポーランドへ侵攻、その国土を分割占領した。ソ連占領下のルヴフでは大規模なポーランド人の迫害と追放が始まり、バナッハは市議としてポーランド人の保護に努めた。しかし1941年ドイツの侵攻によりバナッハらユダヤ人は絶望的な状況に置かれることとなる。占領直後に40人の都市指導層知識人がウクライナの民族主義者の手引きで粛清され、11万人の市民がゲットーに押し込められた。バナッハはルドルフ・ヴァイクルのバクテリア研究所によって保護されたルヴフのユダヤ知識人の一人だった。バナッハは腸チフスワクチンの製造に必要なシラミの飼育係だった。腸チフスはゲットーでも強制労働の現場でも猛威を振るったが、生き残った人々も絶滅収容所へと移送されていった。
1944年のソ連による再占領の後、バナッハは自由を取り戻したが健康を回復することなく、肺と気管支の癌により1945年死去した。
戦後ルヴフはウクライナに編入され、冷戦中の迫害によりユダヤ人は社会的地位を奪われることになる。冷戦終結後、少数となっていたユダヤ人の多くが主にイスラエルへと移住していった。
バナッハ-タルスキのパラドックスが今日見直されているのは、ウクライナ情勢が選択公理の適用であるという指摘からである。ロシアがウクライナからクリミアを分割した処理は、建前上は住民投票に基づいており、これは分割の単位が住民であることを意味している。住民はたかだか有限個の集合でしかないが領土は無限に分割可能であり、そのためクリミアは民族に分割された要素の濃度写像であり、この領土はルベーグ可測でない断片の集合と考えることが出来る。
要するにバナッハ-タルスキのパラドックスを適用すれば、このような有限個の断片を組み替えることによって、例えばもう一つの、全く同じ大きさのクリミアや、全く同じ大きさのウクライナを作り出すことが出来るのである。
バナッハ-タルスキ分割が適用された場合どうなるか、ルヴフを例にすると、スヴァボーディ大通り/レギヨヌフ通り中央に見えない分割線が設定され、東がリヴィヴ、西がルヴフと呼ばれることになる。リヴィヴ住人は西のルヴフが存在しない振りをし、逆にルヴフの住人はリヴィウという都市が見えないかのように振舞る。
分割線の周辺では、この二つの都市は複雑に交ざりあっており、例えばシェフチェンカ大通り/アカデミア大通りの南端東側にある銀行は、ルヴフ側から見るとスコットランド風の内装をした、ケーキがおいしいと評判のカフェである。二階の大理石のテーブルでコーヒーを飲みながらバナッハやフォン・ノイマンばりの定理証明の落書きをしたいのなら、窓口で年金の相談をするために辛抱強く待ち続けるリヴィヴの住人たちを邪魔しないよう、万全の注意を払う必要がある。勿論年金相談窓口が見えているかのような振る舞いをしてはいけない。万が一そんなことをしてしまうと、あなたは最終的に高い城砦またはソラリス・ステーションと呼ばれる場所に連行、監禁されることになる。ただ、誤って間違いを犯してしまった場合でも、落ち着いて床や路面にシェルピンスキー図形を描くことで執行者たちを幻惑することが出来るという噂がある。
都市郊外にはリヴォフ、またはレンベルクと呼ばれる地域もあるが、市中央からは離れており、特にリヴォフは陰鬱な共産主義時代のアパート群に設定されているため、旅行者は特に気にする必要は無いだろう。
ベジェルとウル・コーマ両都市の例を引くまでも無く、このような分割はウクライナに諸問題の解決と平和をもたらすであろう。
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上記当たり前と言うか、付記の必要も無く嘘です。
……去年は全然更新しなかったので、今年はもちっとやろうと思っています。
あと、夏コミは「ソヴィエト・ロシア・ウクライナのコンピュータ」増補改訂版を予定しています。あと自サークルが受かれば、電子系も色々と。
■ コミックマーケット84に、サークル名"航天機構"で参加します。 -2013年8月9日(金)00時56分
8月12日東へ-12b、電子デバイス島です。頒布は以下のものとなります。
1:ハイレゾ高音質携帯オーディオプレーヤ
CDに記録される楽曲データは16ビット44.1KHzのサンプグリングレートとなっており、特に高周波領域の音はCDへの収録に当たってカットされています。本機はこれを越える24ビット96kHzのサンプリングレートの楽曲に対応しており、より原音に近い楽曲再生がおこなえます。
また、高音質用OPアンプを8Vのバッテリー電圧で駆動するという、市販の携帯オーディオプレーヤではまず無い理想的な動作を可能としました。そのため電源には2セル直列のリチウムポリマバッテリーを使い、更にこのバッテリー用の充電回路も内蔵しました。
mp3再生では音質に定評のあるライブラリMADを用いて、高品位なソフトウェアデコードを行います。
この音質のポータブルオーディオプレーヤは最近ようやく幾つか出てきましたが、安くても五万円台と高価です。本機は設計データの全てが公開された安価な機体です。特にソフトウェアを自前で書き換え、載せ替えが可能となっています。またOPアンプの乗せ替えにも最適です。
今回は、基板と実装解説のセットを1000円、基板に表面実装部品を載せたものに解説のセットを9000円で頒布いたします。
2:液晶付きデータロガー
主に低頻度の事象を補足するために開発された、モノクロ液晶ディスプレイ付きのディジタル/アナログ/シリアルデータの収集機です。入力された信号のパターンを液晶に表示すると共に、マイクロSDカードに記録していきます。
今回は、基板と実装解説のセットを1000円、基板に表面実装部品を載せたものに解説のセットを5000円で頒布いたします。液晶は別にご調達ください。
カタログで予告したペットボトルロケット用慣性誘導コンピュータは、部品のディスコンと実装不良、歩止まりの悪さから今回の頒布は断念しました。
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あと、8月11日西あ-11b"風虎通信"さんで、"宇宙の傑作機別冊 スカッドミサイル改訂版"が出ます。ロシアのネット書店で買った、後ろ半分がスカッドの部品の廃品利用アイディア集みたいな変な本を元にしたスカッドの詳細など、いろんな内容が増し増しになっています。こちらもよろしくお願いします。
■ ミクロ経済学はほとんどガラクタだった -2013年7月17日(水)00時15分
経済学の勉強を始めたとき、期待していたのは、お金とは何なのか、経済の人間生活における位置づけはどうなっているのか、そういう事をまず明確にしてくれる事だった。
経済学はそういう私の期待をきれいさっぱり裏切ってくれた。経済学者はお金とは何かとか、あんまり考えないらしい。経済行動における通信プロトコルとかまったく考えていなくて、代わりに均衡とか平衡とか、そういう言葉が大好きのようだった。
仕方が無いので私は独学を続け、そうして行動ゲーム理論を一巡りして、ようやく私は経済学の基礎に巡り合ったことを確信した。当の行動ゲーム理論の理論家たちはまったく意識していないようだったが、経済行動の基礎は行動ゲーム理論の中にしか無かったのだ。
経済行動の基礎は取引だ。この取引にはお金を使わないものも含まれる。実際には人間の経済行動の大半はお金を使わない。また、取引の相手も、実は自分自身が大半を占める。例えば前方に道が二つに分岐していたとする。どちらにするか、経済的な選択を人間はするだろう。より近道を、よりお金のかからない道を選ぶだろう。毎回通っている道を選ぶというのも、選択にコストをかけたくないという経済的に合理的な行動だ。
経済的に合理的な行動が、経済活動でなくて何であろうか。
こういう事柄を研究するのが行動ゲーム理論だ。
私はこういう事柄こそ経済の基本だと考えるが、たいていの人の意見は違う。彼らが論じるのは天下国家の経済であり、金儲けの経済だ。
例えばスコット・サムナーの貨幣に対するご高説を拝聴してみよう。貨幣の定義はいろいろあるそうだ。だが要するに媒体であるらしい。媒体!かっこいい言葉だが、要するにエーテルだ。二者が財物を交換するとき、その間に貨幣が挟まって、多分ぷるぷる震えることでこのエクスチェンジを可能とならしめるのだろう。ここにあるのは単なる似非物理学もどきだ。
私はもっと根本的な疑問を抱えている。貨幣が自然数を表現するのは何故か。なんでお金は数字なのだろうか。価値の、信用の表現が数字で済んでしまうのは何故なのだろうか。だが、話を現在の経済学に戻そう。
金儲けの経済に目を移そう。要するにミクロ経済学だ。私はマンキューの分厚いミクロ経済学の教科書が、ほとんど明確な裏づけを持たない空論の集合であることに驚いた。マンキューは何か自分でモノを売った経験が無いのだろうか。
例えば、モノの値段がどうやって決まるか考えてみよう。例えば同人誌即売会で同人誌を頒布する場合を考えてみる。これは零細少量生産のよい例題だ。
まず書きたい題材がある。同人誌ではまずこれが大前提だ。書きたい題材を本にすることが同人誌の鉄則で、ここに従来の経済学の経済性だとか合理性だとかいう理屈はまったく立ち入ることができない。但し行動経済学、行動ゲーム理論では別だ。同人誌を書くのはそれが幸福になるための、例えば自己顕示欲を満たす豊かさを手に入れるための活動の一環だからであり、行動経済学的な経済合理性は充分すぎるほど成立している。
さてミクロ経済学の領域に戻ろう。同人誌の価格は、書きたい題材に関するマーケット規模、製作する同人誌がどの程度ウケるのかの予測、印刷サービスのコストによってほぼ決定される。というか、価格決定は冊数決定に比べるといい加減で良い。実際のところ最も重要なことは冊数決定、つまり需要予測である。価格はあとで幾らでも調整がきくパラメータだが、冊数は同人誌即売会のずっと以前に決定され、印刷サービスへの支払いも即売会のずっと以前に確定する。
冊数をどうするかでデフォルトの価格はほぼ自動的に決まる。たいていの場合価格は、コストプラスアルファを販売予測冊数で割ったものに、1から2のあいだの係数を掛けたものになる。プラスアルファの部分は、価格を100円単位で調整するときにかなり適当になってしまう。価格を100で割り切れるようにすることは、同人誌即売会では10円安くするよりも客に評価される。
ただ実際には、売れる冊数は事前予測よりもかなり少ないことが多い。事前の告知のようなちょっとした宣伝広告すら無い場合や、宣伝に反応が無かった場合は特になりがちである。そういう場合は即売会会場でリアルタイムに値下げすることになる。同人誌は水モノに近いので、在庫を持たないことが優先されることが多い。だから販売予測冊数と印刷する冊数は通常等しい。
すると同人誌の価格は、需要予測と生産コスト、そして価格端数と実売実績によって決定されるが、結局需要予測こそが同人誌経済の主体であるということが出来る。結局同人誌は極端な値段でもない限り、買うのを値段で決める奴はいない。隣より10円高いからといって、隣を買う奴はいないのだ。
何が言いたいかというと、零細少量生産の世界では価格決定というのは経済の主役ではないという事だ。
つまるところ、マーケットの性質が違うと、ミクロ経済学の教科書で金科玉条として扱われている事柄も様子が全然違ってくる。
例えばコンビニに行ってみよう。コンビニに置いてある商品は、どうやって需要の変化に対応するのだろうか。それは決して価格の変更ではない。ただ単に置く数を増減するのだ。価格は極めて硬直的で、もし需要供給曲線を描くなら、それはとてもおかしなものになってしまう。需要が変化しても価格はフラットな水平線で、ミクロ経済学の教科書では、これは供給の価格弾力性が無限大の場合だと言っている。つまり我々は、コンビニを覗くたびに無限を目にしていることになる。実際にはコンビニの商品は無限供給には程遠い。それらはバッチ生産で、売り切ったらそれまでだ。
値引き交渉ができる店とコンビニとでは、何が違うのだろうか。コミュニケーションが取れることだろうか。いや、この問題は一般化するとコミュニケーションの問題では無いことがわかる。例えば原油や小麦の価格、株価などは過敏に変化する。これらはコミュニケーションで変化しているのではない。将来の需要予測で変化しているのだ。
値引き交渉とは、需要予測に関するパラメータを互いに相手に与える行為に他ならない。コンビニはユーザの需要予測をほとんどしない。客は需要の都度に頻繁に来るに決まっている。もし需要予測をするならそれは店舗の出店時にだ。
結局大事なのは需要予測だ。特に現在の社会のような供給過剰経済下ではわりとシンプルに需要のみが問題となる。
逆に供給が少ない場合、問題は複雑となる。というより市場経済のルールから逸脱しがちになる。例えば公共工事で入札が行われるとき、談合がはびこるのは何故だろうか。それは、実のところ取引には市場以外の数限りない方法が存在し、市場取引は特殊な状況に過ぎないということだ。
供給過剰条件と過小条件では取引の条件がまったく違うことを説明しているミクロ経済学の本を、私はまだ見たことが無い。供給過剰条件では経済のパラメータは基本的に需要一つだけだということも、これを説明した本を見たことが無い。そもそもが、現実の数字の裏づけのあるグラフを載せているミクロ経済学の教科書を見たことが無い。大抵のグラフは単位すらない。
怖い。なぜミクロ経済学の教科書たちは現実から遊離しているのだろうか。それとも私の見ている現実とやらが幻なのだろうか。私の経済学の教科書の読み方は全て間違っていて、全ての現実の取引に明快な説明が与えられる、時々そんな夢を見ることがある。
ひとつの知識分野がまるごと空虚だとか、それは悪夢だ。こう言明することすら悪夢だった。ミクロ経済学の現状に対して誰も疑いを差し挟まないなんてありえるのだろうか。それともやはり、私の頭がおかしいだけなのだろうか?
どちらにしても、悪夢に違いない。
■ 第一回国際マイクロ経済学会レポート -2013年4月1日(月)00時08分
去る13月に開催された第一回国際マイクロ経済学会は、急速に注目を集めつつある新しい学術分野の勢いを確認する良い機会となった。発表された内容はどれも混沌としか言いようが無く、今後の波乱を感じずにいられないものばかりだった。
まず基調講演からゼーニマンはやってくれた。本来ならマイクロ経済学とは何か、新しい学術分野に対して俯瞰するような事を言うべきなのだが、しょっぱなから貨幣の時間に対する非対称性に関する持論を滔々と語った挙句、貨幣は自然数ではないと言い出した。貨幣の時間に対する非対称性とは要するに負債には利息がつき、貸した金には利子がつく、これを言い換えただけの事であるが、これをゼーニマンは貨幣の基本性質だと定義した。増えたり減ったりするのは資産価値であり貨幣ではないという、当然の指摘をする野暮なミクロ経済学者はここにはいない。ゼーニマンは貨幣と資産価値は不可分である、できるならこれを分離してみろという。貨幣は自然数ではないというのは判りにくいが、筆者にも後に飲み込めるようになる。分科会にそのものずばり貨幣数論というものがあったのだ。
パネルディスカッションは、生物経済学についてだった。これは要するに人間以外の動物の経済行動に関する学問である。だがここでは、通貨を使わない、普通の人間の合理的行動を含めるかという提起で議論は紛糾した。それは行動経済学の分野だというのが大勢の見方だったが、そもそも行動経済学がそこまで拡張されていないという、悲しい意見により、そもそも行動経済学とは何かという話に脱線する始末となった。
午後からは生物経済学と貨幣数論の二つの分科会のうち、貨幣数論のほうに顔を出してみた。貨幣数論では、どうも貨幣に対して足し算や引き算、掛け算や割り算がどこまで使えるのか、たとえば大きな金額では掛け算、つまり利率計算は正しい判断に結びつきにくい事を、どう定量化すべきかが大きな議論になっていた。
これに対してマンジューは人間の価値計算、価値判断の基礎を、人間の脳内にある何らかの計算機械のアーキテクチャに求めた。マンジューによれば、人間の脳には大きな数を正しく計算できない計算機ハードウェアが内蔵されている。同時に7つの事象、7つの数しか覚えられないとは良く聞くが、それは人間の内蔵する価値計算機が3ビットのレジスタしか持っていないからだという。人が覚えていられる事は明らかに3ビットより情報量が多いという指摘に対しては、人間の、認識の結果をひとつのニューロンが代表して記憶する方式が、コンピュータで言うところのポインタに該当するのではないかと曖昧にかわした。マンジューによれば人間の価値計算機は他の生物と違いチューリング完全であり、ソフトウェアにより大きな数の認識と計算、高度な価値判断を行っているのではないかという。人間だけがチューリング完全なのかという問いには、それは今後の研究を待たなくてはならないといい、既にチューリング完全を当の昔に達成しているコンピュータに、なぜ自我が芽生えないのかという質問に対しては、価値判断に自我が必要だというなら根拠を示すべきだと返し、機械経済学者たちの拍手を浴びていた。
行動経済学によって明らかになったパラメータにしたがって作られた貨幣計算用の数学ライブラリMONYMATHはオープンソースとして開発が進められており、それを使うと大きな金額の価値が曖昧になる問題や、きりのいい金額より少し小さい数にすることによって価格大きさを誤魔化す手法などに左右されずに、人間の本来感じる価値の大きさを自然数で表現できるという。
この日聞き逃した生物経済学の発表では、カラスの経済行動に関するものが評価が高かったようだ。カラスが光り物を集めるのは貨幣として使うためだということを発見したのみならず、その交換率が季節によって変化することを根気強い観察で明らかにしたのだ。
翌日は機械経済学の分科会に参加した。機械経済学とは、人間と生物以外の、ロボットや人工知能の合理的行動のデザインに関する分野で、そのスペクトルの端はミクロ経済学や行動ゲーム理論の社会制度デザインに接している。分野は広大で、たとえばクレーグメンはネットゲームの経済デザインに関して発表した。ネットゲーム内の価値は、ユーザがそれに費やした時間をその根拠として持っているとクレーグメンは言う。ゲーム内の価格付けは獲得するのに必要な平均時間に比例すべきで、そこからの差が価値の割高、割安感を生むという。しかしネットゲームの成功は更にゲーム内で価値を創造できるかどうかにかかっていると言う。要するに仲間を見つけやすくする、そのコストを低減することが重要だという、それは理解するのだが、それで仲間としてAIを宛がうというのはどうなのだろうか。
AIもまた機械経済学の重要な対象である。ウィンターズはAIシステム用のリアルタイムOS開発について報告した。ウィンターズはいわゆるフレーム問題はバッチジョブ的な考え方であって、リアルタイムマシンではそもそもそういう切り口で問題を考えないと言う。単純に優先順位付けさえしっかりしていれば、AIは計算できる範囲で計算すれば、自分の計算能力の範囲で問題を解決できるという考えだ。そして優先順位付けは経済計算だと言う。つまり、様々な事象の価値の組み合わせが状況であり、自己価値を最大化していく行動をとることが合理的行動だというのだ。
「われわれの脳内でも、あれがいいか、これがいいかと迷うとき、同じように経済計算が行われている。仮想の脳内通貨が行き交い、取引として決定が行われる。脳内市場の相場観をわれわれは価値観と呼んでいるのだ」
今こそAI研究は再始動すべきだという力強い呼びかけが印象的だった。確かにAIは人間的である必要など無いのだ。合理的である必要すら無いかも知れない。問題を与えたら問題を解決する、万能問題解決機こそがAIの本質である筈だ。
この盛り上がりに冷や水をぶっ掛けたのがスティグだった。AI研究は巨大な問題を無視し続けているとスティグは言う。問題解決、つまり与えられた問題の解空間の探索に関してはAIはすばらしく上手くなった。しかし肝心の与える問題の性質の研究がおろそかである、と言う。
AIに与える問題に関する"問題"は大きく分けて二つある。一つは解けない問題への対処だ。そんなことは昔から解法は決まっており、要するに問題を解けるまで分割するという話になるのだが、それをAIにやらせる手法はまだ確立していない。スティグは可能性のひとつとして定理証明器の応用を挙げた。もうひとつの問題は、問題を発見させることだ。もしAIがいろんな潜在的な問題に気づけるようになれば、その産業価値は計り知れないだろう。これは現状と過去の問題例とのパターンマッチング、または現状の将来状況の探索によって行われるだろうと予測された。
この日は朝からプログラムの一部変更がアナウンスされていた。昨日急遽、生物経済学の分科会で扱うより参加者全員が聞くべきだと、発表がひとつメインホールにセットされたのだ。サムィナーはそこで驚くべき発表をおこなった。人類はかつて資本主義によって滅びかけたというのだ。サムィナーはその時期を五万年より最近、およそ三万年前付近だろうという。カフカスの後期旧石器時代の遺跡で、食料や道具の極端な集積の差が発見されたという。サムィナーはこれを、かつて人類は合理的な経済行動をおこなう生物だったのだという。
「お金がなぜこれほどまでに万能であるか、考えてみたことがあるか」とサムィナーは問う。「そして万能ではないというわずかな反証例がなぜ存在するかを」
経済行動をおこなうなら、合理的なほうがシンプルで強力である。お金ですべて買える価値観のほうが経済行動計算機は簡単で強力だろう。人間は完全に合理的な行動が出来たはずだ。そういう人間は脳内の市場に完全に従い、高度に資本主義的に振舞うはずだという。しかしそれでは資本主義社会の終着点、寡占で破綻することになる。
人間の非合理性はその後に進化によって獲得したものだったのだ。つまり、愛や様々な美徳を通貨に換えることができないという、通貨の万能性に対するアノーマリは、価値を集積した人間、つまり金持ちだけがモテる経済合理性、寡占状態が人類の生存には向かなかったから、そういう価値観がある程度壊れた人間が愛などの非合理的価値観によって生殖し、生き残ったのだという。
印象的な発表だったが、根拠は薄く、そういう意味では感心はしなかった。しかし会場での受け止められ方は違ったようだ。そもそも経済学そのものが割りと適当なデータと正しくないグラフを弄ってこじつける様な文化があり、この程度でも立派な発表なのだ。
今学会で個人的に一番感心したのは、マイクロ貨幣数量説だ。これはいわゆるフィッシャーの交換方程式のマイクロ的基礎と位置づけられたもので、個人の取引速度をメッセージとしてやり取りすることで物価水準を個人レベルで把握、コントロールできるというものである。具体的なメッセージは以下のようなものになるという。
「もうかりまっか?」
「ぼちぼちでんなぁ」
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はい。全部嘘です。日付参照のこと。最近ずっと経済学に凝っていましたが、結局わかったのは、マクロ経済学のみならず、ミクロ経済学も半分がたガラクタだという事でした。需要−供給曲線なんて嘘っぱちもいいところです。正しい基礎を得ようとしたら、行動ゲーム理論まで掘り下げる必要があります。
■ 韓国の宇宙開発史#11 -2012年11月12日(月)01時27分
2004年のKSLV-1のアンガラベースでの実現という方針転換は、韓国の既存液体エンジン技術の放棄を意味していた。独自開発の道の閉ざされた現代重工業とロテム社のエンジン技術者たちは、2004年11月に独立してベンチャー企業チャレンジ&スペース社(C&SPACE:CSI)を設立した。
彼らは既に開発していた衝突型インジェクタとアブレータ冷却を持つ燃焼室と、露ケルディシュ研究所製のターボポンプを結合して、10トン推力の液酸メタンエンジン、CHASE-10を開発した。燃焼室圧力は7MPa、比推力は321秒となっているが、今日の視点からするとこれら数値は実現できていたか怪しい。2006年3月の燃焼試験はロシアで行われ、最良と思われる10秒の燃焼試験結果を得た。この燃焼試験はビデオが公開されているが、燃焼ガスの様子を仔細に観察できないため、エンジンの性能についてなんとも言えないものとなっている[49]。その後燃焼室は再生冷却になったようだが、性能の数値は混乱している[50]。その後C&SPACEは韓国に試験場を移してエンジンの屋外用テストスタンドを新造した。
C&SPACE社は社長を含めわずか従業員6名の会社だったが、うち5人が工学博士号を持ち[51]、公開された株式は投資家の人気となった。彼らは2007年には500キログラムのペイロードを高度300キロまで弾道飛行で打ち上げる小型の科学観測ロケットを実現し、将来的には有翼ロケットプレーンによる観光弾道飛行を実現するとしていた[52]。
しかしC&SPACE社は2008年には資金繰りの問題を抱えるようになる。そもそも売り上げを出す手段が当分無いのだから、投資家には充分なだけの夢を見せておかないと即座に行き詰ることになる。
C&SPACE社は2008年2月にCHASE-10の通算二度目の燃焼試験を実施したが、これはお粗末としか言いようが無い出来だった[53]。役割も持たない人間がエンジンの周りをうろついたまま試験は開始され、試験担当者たちは燃焼試験のやりかたも意味も、自分たちのエンジンの動作もまるで知らないかのようだった。
プリバーナは正常に燃焼していたか疑わしい。恐らく予冷不足で液体メタンと液体酸素がガス化、つまり配管で温まってガス化したメタンおよび酸素が配管を占め、重量単位の流量が極端に少ない状況のまま点火したのだと思われる。不完全燃焼か、燃焼せずに気化したガス圧のみでターボポンプが駆動されていたように見える。
点火による爆発的燃焼はエンジンを痛めかねないハードスタートだった。その後の12秒間の本燃焼ではほとんど推力が出ていたようには見えない。ターボポンプの圧力不足による推進剤供給の不足か、やはり予冷不足による供給不足の可能性が高い。燃焼終了シーケンスに入ってメタンは盛大に燃え始めた。恐らく窒素ガスによる配管パージで、未燃焼のメタンと酸素が押し出されて燃え出したものと思われる。炎が勢いよく見えるのは窒素ガスの圧力によるものだ。
ターボポンプ排気管からは、燃え損なったメタンがプリバーナ配管のパージによって押し出され、盛大に燃え盛ってテストスタンドを焼損した。プリバーナ配管は本燃焼中にようやく冷え切ったようだ。彼らは極低温液体の扱いを全く知らないかのようだった。もしそうなら悲劇的な結果に終わらなかったことは幸運だったと言うしかない。
彼らの資金は初期にはVitzro tech社が出していたようだ[54]。2008年12月にはSOLAR&TECH社と接触したようだが、取締役人事でごたごたを演じたあと縁が切れた。2009年1月にBNR社が後見となり、新たに経営陣は一新された[55]。
2009年7月、C&SPACE社はアメリカに売り込むべくエンジンと燃焼試験設備一式をアメリカ本土にに送り込んだ。韓国ではS&SPACE社は米空軍とNASAの立会いの下で評価されると報じされていた[56]。見本市ではクロムメッキでピカピカに光るCHASE-10エンジンを展示した。そこそこの注目は浴びる事はできたが、燃焼試験を実際に見るまでは、どんな投資家でも態度は保留したかったところだろう。
ところがアメリカで二年分の納税記録が無いとLNGを売ってくれないという事が判明し、これで彼らは三週間をふいにした[57]。ようやく協力者を見つけて燃焼試験に漕ぎ付けたが、8月の燃焼試験は失敗、これはインジェクタの破損らしい。アメリカへの輸送中の破損という事になってはいるが、彼らはアメリカで幾らでもエンジンの面倒を見る機会があった筈である。彼らはこの一回きりの試験失敗で簡単に見切りをつけて韓国に戻ることとなった。このときに試験を担当した技術者は、この時の失敗の責任をとるという名目で会社を辞め、アメリカに渡ってメタンエンジン開発のベンチャー企業DARMA Technologyを興した。Blogの写真に見えるのは100kg以下の推力くらいのガス押し式エンジンだが、奥にはCHASE-10と同じ形式のターボポンプがあるのがわかる[58]。このターボポンプの入手経路は非常によくわからない。従来はC&SPACEはこのターボポンプを国産化したものと思われていた。しかし実際はロシアから幾らでも購入できる代物なのかも知れない。燃焼試験をYouTubeで公開している[59]が、青い炎の中にダイヤモンドコーンが形成され、正常な排気速度を達成していることがわかる。現在DARMAはC&SPACEの米国法人として新規技術開発と共にCHASE-10の売り込みも担当している。
S&SPACEはBNR経由の迂回上場を目論んでいた。BNR株は宇宙大国への夢と共に投機対象として人気を集めた[60]が、2010年3月、BNRの株は取引停止に、5月には上場廃止となった。この時期にSOLAR&TECH社も上場停止となっている。これはコスダックの取引監査室が頑張りすぎた結果らしい。BNR株の株主たちは阿鼻叫喚の体を演じたが、結局、C&SPACE社は生き延びたらしい。
C&SPACE社は2011年4月、一時期閉鎖していたウェブサイトを再開したが現在再び封鎖されている。C&SPACE社はCHASE-10の営業を行っているが、韓国国内における、特にCHASE-10の開発はもはや行われていないと思われる。DARMAの状況もあまり思わしくないようで、残念である。
[49] C&SPACE Firing Test
http://www.youtube.com/watch?v=uomKM3EBV7Y
[50] 제품명: Engine System (로켓엔진 시스템)
[51] [우주인] 로켓개발 벤처기업 '씨앤스페이스’ (세계일보, 2004/11/25)
http://blog.yahoo.com/_FPCV66NJEZ737TD5X3ZY2X5AFA/articles/143918/index
[52] 서울~미국 2시간 만에 가는 탄도미사일 비행체 나온다
http://www.donga.com/docs/magazine/weekly/2007/12/05/200712050500045/200712050500045_3.html
제품명: SOUNDING ROCKET (탐사/관측 로켓)
[53] 【韓国】 メタンロケットエンジン テスト 【ドリフ状態】
http://www.youtube.com/watch?v=BjUuGONDXd8
[54] 비츠로그룹 : 하반기 부문별 신입 및 경력사원 공개채용 안내(2005)
http://blog.daum.net/jobtong/3054633
[55] 비엔알(023670)의 씨앤스페이스 우회상장 일지
[56] 씨앤스페이스 "메탄로켓엔진 美공군서 테스트
[57] 미국 상륙기.. 그 난관에 부딪히면서
http://blog.yahoo.com/_FPCV66NJEZ737TD5X3ZY2X5AFA/articles/143426/index
[58] 설비 준비 및 그 경과 (중간)
http://blog.yahoo.com/_FPCV66NJEZ737TD5X3ZY2X5AFA/articles/143355/index
[59] Youtube:ch4engine
http://www.youtube.com/user/ch4engine
[60] 비엔알 - 씨앤스페이스 - 우주항공테마 - 메탄 엔진
[중장기강추][비츠로테크] ★★(씨앤스페이스)점상 40방 갱신종목★★
http://econo.urin79.com/anal5/7149
비엔알 - 우주항공테마 - 씨앤스페이스 우회상장
http://blog.daum.net/2245405/475