以下の文章は1998年9月に書いたものですが、多くの点でこの文章はまだ古くなっていません。後半で、現在言うところのユビキタス的概念に触れていますが、ようやく時代が追いついたという所でしょうか。
実際には私のユビキタス的概念の発祥は1991年まで遡ります。当時のアスキーの懸賞論文に投稿して、何故かふりかけ二つ貰った記憶があります。その時の文章は今見ると流石に下手すぎて読むに耐えませんが、概念そのものは明確に示されています。
しかし今読むと流石に無邪気、というか、今のユビキタスブームそのものも無邪気過ぎます。もちょっと未来に対する洞察力があれば、例えばIDタグに唯のユニーク数列を使う事の愚かさが判ろうとというものです。
この文章の最終段、感情を読み取るインタフェイスについては、幾つか試験的な実装は存在するようですが、コンピュータによるユーザ状況把握という概念が優先されない限り、実用化には程遠い状況は続くでしょう。
しかし個人的には、ここに書いた内容全てが古いです。今の自分の興味のキーワードはコンピュータによる状況把握、スケーラブルな政治インタフェイス、”問題解決=政治”システムとしての分散ネットワーク、そしてリアルタイム運用指向の人工知能、など。
将来のコンピュータのあるべき姿を描けば、以下のようなものになります。
簡単に解決可能なら、ユーザの操作無しにコンピュータは問題を自動解決すべきである。そうすればインタフェイスは不要となる。
自動解決できない問題はネットワークインタフェイスを通して共有される。問題は分散システムが解決するだろう。
我々の現在像を眺めてみよう。部屋の片隅に祭壇が設けられている。パソコンラックという名のその壁がんには、ファンが唸りをあげる御神体が安置され、祈祷を捧げるためのキーボードとマウス、神聖なるイコンを現す巨大なCRTディスプレィ(貴方がお金持ちならもう液晶ディスプレイになっているかもしれないが、それでももっとお金があればもっと巨大な液晶ディスプレイを欲しがるに違いない)、我々はその前にかしづく信徒だ。
我々のコンピュータに対する姿勢はずっとこのかた、高解像度ディスプレイの前に釘付けというものである。手に入れられる最も解像度の高い装置を望み、大量の情報を一度に表示することを望んでいる。我々はディスプレイの前に囚われているのだ。
だが、我々の本当に望んでいる情報とは、そんなにも大量なのだろうか?我々の本当に望んでいる情報とは”はい”か”いいえ”、1ビットの簡潔な答えではないのか?
現在のコンピュータは、情報処理に関して、明らかに手を抜いている。コンピュータが示すのは、答えを含む情報である。ネットのログを見せるにしても、貯えた画像から好みの絵柄を探すにしても、エクセルのデータをグラフにするにしても、それは生のデータへのアクセスである。抽象化はまったく行われない。凝った呪文で探索できるシステムもあるが、それは魔法使いのためのシステムだ。エクセルのグラフは全体像を見えやすくしてくれるだけで、決して「二次の式で近似できそうだな」などと言ってはくれないのだ。
この状態は好ましいものだろうか、我々の求めているのは大量の生の情報だろうか。否!答えは明らかに否!である。我々が欲しいのは答えだ!
だが、今のままではコンピュータは答えを探せない。何を探しているのか、ユーザーの頭の中にあるものを伝えられないからだ。
いや、実際には伝えることはできる。ただ、実際的では無いのだ。コンピュータが実際的な答えを出すためには、多くの判断材料が必要である。だが、キーボードとマウスを介して、現実的な速度で、我々が耐えうる速度でその情報を伝えることはできない。生のデータに直接アクセスするほうがよっぽど早いのだ。我々が持つ最良の知的システムは、JR線の旅程計算のような、限定的用途のエキスパートがせいぜいといったところだ。
だが、判断材料がもっとあれば、コンピュータはより知的に振る舞える。増えた判断材料によって、探索分野をどんどん限定してゆけばいいのだ。
そのためには、情報入力をキーボードとマウスに限るわけにはいかない。じゃあ、脳に結線でもするかね?
何もそこまで飛躍しなくても良い。それにそれもやはりキーボードの延長でしかない。必要なのは、コンピュータが自発的に情報を採取することだ。
コンピュータが自発的に情報を採取する。この概念は、既に一部の分野で実験が行われ、実用化されたものもわずかだが存在する。
まず、実用化されたのは位置情報だ。セイコーエプソンの旅行者向け貸し出し携帯端末は、PHSの位置情報を使って、検索領域を絞り込む。位置情報には、さまざまな用途が見込めるだろう。たとえば先だってのJR線旅程計算エキスパートなら、探索の基点のデフォルト入力として用いることができよう。大手プロダイバは旅行先の至近のアクセスポイントを自動的に選択するサービスを提供できるだろう。
更に、屋内での個人位置情報。パロアルト研での実験で、個人情報を発信するバッジと、赤外線ネットワークの組み合わせによる、個人デスクトップの遍在の実験が行われている。手に取った任意のスレート端末に、個人環境を復元するのだ。最近ではJavaOneで、JAVAリングというものが参加者に配られた。これは無線で個人情報を周囲に発信する。そのイベント会場では、JAVAリングの個人情報を元にそれぞれの好みを記憶させ、各人の好みのエスプレッソを煎れるコーヒーメーカーが実演された。
想像するだけでも、職場での各人の居場所がリアルタイムに判れば便利だとか、いくつかの便利な用途を思い付くことが出来るだろう。位置から状況を推測し、必要なデータを用意することができる。台所で欲しいのは料理のデータや冷蔵庫の在庫データだろう。洗濯機の前では天気予報が気になるだろう。また、パーソナルな分野でも、次の音声、しぐさ、表情等の情報を得るためのセンサ指向方向を得るために有用であろう。
次に、音声。これもPC用音声入力ソフトウェアが実用化されている。5年以内に組み込み用のソフトウェア/ハードウェアコンポーネントが登場するだろう。キーボードに代わる標準入力となると私は予言する。キーボードより入力速度で劣るが、入力に慣れを必要とせず、ごく自然なインターフェイスとして機能することができる。特に携帯型機器の入力装置として有用である。この分野では瞬く間に入力装置を代替するだろう。
更には、声の中の感情要素もデータとして有用に利用するようになるだろう。
しぐさ、表情も入力情報としてみる実験は古くから行われている。ただ、大抵、身体装着タイプの機器を用いることとなり、実用的ではない。しかし、室内での位置情報を使えれば、センサを向ける方向を決定できる。
そして文脈、これからも感情要素が読み取れる。感情には願望が隠されている。これを解するのがこれからのコンピュータの使命だ。
さて、これらを支えるハードウエアは、入力としてのセンサを抱え、身体装着機器に頼らずに入力を得るために至る所に分散した、ネットワークとして実装されるだろう。
出力としては画像、音声、そして各種機器コントロールがある。
実体としての計算装置も、分散されるだろう。多数の計算装置が並列にネットワークにぶら下がる状況で、マルチタスクを実現する必要はない。各計算装置にタスクを振り割ればいい。これによりメモリ管理等は格段に楽になる。表示装置もマルチウィンドウの必要は無い。複数の表示装置にそれぞれ表示すれば良いのだ。表示用のスレートを重ねて物理的にマルチウィンドウを実現できる。
だが、演算結果が絞り込まれれば、画像表示だけに頼る必要は無い。音声だけでも有用な答えが得られるようになるだろう。
CPUとメモリはワンチップに統合される。さらなる動作周波数の向上を目指すならこれは避けられない道である。必然的にチップセットのノースブリッジに相当するものも統合される。何らかの高速シリアルバスが、現在のPCIバスに取って代わる。極端なデバイス像を描くなら、それは塊から四本の端子、電源とグラウンド、そしてツイストペア駆動のシリアルバス線が出ているだけのものとなる。
だが、メモリは足りるのか?増設したくなったらどうすればいい?
答えは簡単だ。ワンチップPCを、まるでメモリでも挿すように増設していけば良い。負荷配分はどうするのか。ここで、ワンチップワンタスク、という姿を提案したい。現在のワンチップマルチタスクという形態は、やがてタスクスイッチのオーバーヘッド増大に悩まされる事となろう。もともと一つしか物理的実態の無いものを複数に見せかけているのだ。この複雑化はやがて大きな負荷となるだろう。現在でも複数CPUの実装は可能であるが、負荷を分散しただけで、複雑性は更に増しているのが実状である。
予想される進化像はこうだ。通常のPC、これはAT互換機でもMacでも構わないのだが、これに基板上の増設ソケット、もしくは外部にケーブル接続したボックスその他情報家電というかたちでPCの能力増加が図られてゆく。増設されるPCチップは、具体的にはJavaチップってトコロになるだろう。
タスク配分は元のAT互換機なりMacなりが行なってゆく。起動タスクがチップ数を越えると、AT互換機等の持つVMが超過した分の仕事を受け持つことになる。
これは過渡期の姿であり、最終的にはベースであるAT互換機等から絶縁し、自分で負荷を調整するようになる。ネットワーク接続し、遠隔地のチップに負荷を分担させることになる。これに伴い、演算能力の貸し出しサービスというものが予想される。
ワンチップPCは、各種機器に組み込まれたり、多様な用途に使われたりしてゆくだろう。だが、その為に、必要性を予測されたありとあらゆる能力を全て実装するのは馬鹿げている。なぜなら、必要な能力をその都度獲得する技術が存在するからだ。
書き換え型のFPGA、プログラマブルなゲートアレイを用いることによってそれは可能となる。ロジックはネットワーク経由で書き換えられる。
極端な場合、ストレージへのアクセスが発生するたびにインターフェイスのロジックを生成するようなことも考えられる。そのために、ロジックをページ切り替えするような技術が現れるかもしれない。極端な場合、重いグラフィックシーンでは、グラフィックメモリを分割してそれぞれ空いているワンチップPCで分担、書き換えで生成した3Dエンジンで並列演算、という事も可能となる。
チップはありふれたものとなり、様々なところに埋め込まれ、ネットワークされるだろう。公共の場もネットワークされ、遍在するようになる。
このハードウェアを生かすためのソフトはどうなるだろうか。入力データは即座に取り扱い方法と送り先とを付けてオブジェクト化され、ネットワークに流される。送り先が処理できなければ、代わりの送り先を付けて再び流される。タスクもまたオブジェクトとして、データと同様の経路を辿り、流れ着く。何か処理が必要になると、タスクサーバへ必要なタスクを送るよう要求するのだ。そうして、周囲のチップネットワークに処理体系を自己組織的に築いてゆく。タスク要求のきっかけは、例えばスイッチや位置情報、音声入力や怒りをだったりするだろう。
高度なタスクは、ユーザーの状況を把握する。深夜、帰ってきたユーザーの声に疲労が滲むとき、ユーザーは何を欲しているか。電車の中で、タイマーによれば目的地はすぐなのに、ユーザーのいびきが聞こえるなら、どうすべきか。ユーザーが路地に迷ったように思えるとき、そっと道案内するのはどうだろうか。状況を理解することにより、ユーザーがより必要としているデータへの素早いアクセスを提供することができる。
更に高度なタスクは、ユーザーの嗜好を把握する。最終的には、ユーザーの心理モデルに基づくシミュレーションによる、テレパシー類似物が実現されるだろう。
そしてやってくるのは、欲した時に演算能力を、検索能力を利用できる環境である。
身につけた最低限のハードウェアは、ネットへのログイン時に個人の資格を認証し、入出力のインタフェイスを取る。そして本人の希望する規模のサービスが、ネットに接続されたハードのある場所ならどこででも受けられるようになるだろう。
街頭を歩いてみよう。掲示板に近づくと、目の前にいる人間を判別し、その人間のホーム、遠隔地のユーザーのサーバを接続し、公共サービスとのソケットを繋ぐ。ホームサーバはユーザのいる環境を把握し、必要と思われる情報を公共サービスから引き出す。更に有料サービスを受けたければ有料サービスへのソケットを生成し、情報を引き出す。
駅の改札では、バッジの認証がされたなら素通りできる。切符を買う必要は無い。本屋ではバーコード検索で本を特定し、その場でネットでの書評を読んで考えることができる。良く育てたサーバなら、昼飯をどこで食うか、店とメニューの候補を幾つか絞って提示できるだろう。勿論、自分の今居る場所からの主観地図付きでだ。スーパーで、自宅の冷蔵庫の中身を参照しながら考える。ここでも、コンピュータによるメニュー支援が有効に役立つだろう。
これらは、誰にでも有効に働くコンピュータのサービスだ。ユーザが望んで環境を構築してゆくなら、更に様々なことが可能となる。ぶらぶらと歩きながらの口述著述も、欲しいと思ったときに資料が手に入る環境なら、更に進むだろう。音楽も、(既に進行中の話だが)記憶ストレージから開放され、一曲づつダウンロードして聞くものになる。
映像ソースも恐らく、現行のOVA一本分の時間長より若干短い20〜15分程度のシリーズとして、一般のドラマも制作されるようになるだろう。鑑賞環境がネット接続に移行するにつれ、サイズ的にも鑑賞環境のルーズ化に関しても、短い方が有利だ。映画も、コマーシャル付きで短く刻んで、安くもしくは無料でネットで提供する道が開けるだろう。
これが恐らく、五年以内に議論され、十年後に半分が実現するであろう世界だ。
そして更なる未来においては、感情とそれを読み取るインタフェイスの発達が、テレパシーに似ていなくもないものを提供出来るようになるだろう。不随意の入力を、ユーザーのシミュレーションと照らし合わせ、適切に反応してゆくのだ。
それはいわば、感情の拡張である。コンピュータは、論理との正反対としてそれから最も遠い存在とされていた、情動、感情を増強するだろう。
増強は、量的なものでなく(そう、泣き叫ぶ声を更に大きくするのではなく)質的なもの、細やかな心理のひだ、打ち寄せるさざなみ、織りなす縦横の糸を、さながら拡大鏡のように鮮明に見せるように作用するだろう。
そして感情は、ネットワークコミュニケーションにも応用されてゆく。我々はやがて、細やかな心遣い、鮮やかな感情の発露、微妙な心理の機敏を充分に解することができるようになる。
だが、それは、感情のコントロールをユーザーに強いることになるだろう。あまりにへたくそな感情の発露は社会的に許容されるものではなくなろだろう。移動手段の高速化が速度制限という概念を生んだように、感情の制限というべきものが具体化することになろう。”自然な感情の発露”という言葉は幼く純真なものとして聞こえるようになるだろう。我々は再び、変容するのだ。