印度始末記
(05/5)

タージ・マハールを吊り上げるの図(5/6)。O団長撮影
 自由民主党総合政策研究所は5/1-7、党所属国会議員7氏とともに印度国を訪問した。 これはその"非公式な"訪問団記録である。以下自民党総合政策研究所を「総研」と略記する。

 初めて印度を訪れた多くの人は、後に幾度も再訪する様な印度フリークになるか、 二度とかの地に踏み入れまいと固く誓うか、その両極端になると言われる。 中国との軋轢、首相訪印と俄かに印度に注目が集まっている感があるが、 かく言う私も特段印度に関心を持っていた訳ではなく、その印象は一にも二にもカレー、 後はインダス文明、ゼロの発見、レインボーマン程度に過ぎなかった。 今般印度を訪問する運びとなったのは、わが総研では「外交政策ビジョン」との大層な 名の下に毎年対象国を定め、若手国会議員数名とともに現地を訪問・研究することとなっており、 本年1月に着任した私にとっては、既に昨年後半から行われてきた勉強会等に中途合流し、 蓋を開けてみたら黄金週間を潰して印度に旅立つことになっていたに過ぎない。 ところが総研の本団総括者F氏が渡航直前にドクターストップで急遽不在となり、 不肖私が事務局長代理に任命され物見由山気分が一転、不安を抱えての旅立ちとなったのである。

  ●バンガロール:第一日

幻想的な夜のオベロイH
 5月2日朝、総研5名は印度はバンガロールの地に足を踏み入れた。 「印度のシリコンバレー」の異名を持つ同地はITをはじめとする急速な産業化に ホテル需要が追い付かず実に一泊4万円近くに跳ね上がった5ツ星オベロイ・ホテルに 居を据え、既に前日現地入りしている総研外交ビジョン座長のO教授、総研同僚2氏と合流すると 昼食を挟んで視察に赴く。議員来訪は夜からなので本日は飛車角落ちの布陣ではあるが バスに揺られること約  にてITセンタに到着。
 シンガポール資本を主に作られた巨大IT企業集積地の概要、更にはコールセンター事業者の 説明を伺う。要は前者は大家さん、後者は税制優遇措置等を主眼に 本社機能をここに据えているに過ぎないので「現場」というものが無く 英語力に劣る私には概要を理解することも能わず、増してや質問においておやではあったが、 電気や水のインフラを自ら備え、教育制度を含めた人材育成策と旨く 連動すれば、劣悪な輸送環境には何等関係なく、ITならば産業都市が成立し得るという 事情はよく理解出来た。
 続いては近隣の牧野フライス社。鋳物等の機械加工、金型の製作とその工作機械の製造を行う 日系企業で、進出の理由として「印度には土壌として工業が存在した」という言葉が耳に残った。 労働集約型の鋳物そのものは人件費の安い中国で作るが、 労賃はもう少し高くても中国では技術的にまだ難しい機械加工を当地で行うという アジアを股に掛けた生産体系に感服。墨田区や大田区の高度成長を支えた"京浜工業地帯"を 維持するためには人づくりもカネも相当に手当てしなければこれは難しかろうと実感するが、 その回答を思索する術もなく、感慨だけを残して当地を後にした。

 ホテルに戻り漸く小一時間の空きが出来たので周辺を散策する。 目抜き通りMG(マハトマ・ガンジー)通りに面しているので活気に溢れているが、 市内で最も整備されたと言われながら道路事情は矢張り推して知るべし(左写真)。 偶々入った店が子供服店でわさわさと店員諸兄が集まってきて、とても手ブラでは 出れない雰囲気に。日本人の悪い癖で先方の言うがままに、恐らく観光客相手の 高値ではあろうが、幸便に祐旭へのお土産が手に入った。
 夜は三議員が到来され現地企業との懇親会。当然ながら食事の殆どは 印度人か日本人かの現地関係者との会食になるが、製造業各社に中でサカタのタネ駐在員の方の 奮闘振りが印象的だった。終了後、更に深夜便で到着した三議員を迎え本日は終了。 アテンドは全てチェンナイから長躯到来された総領事館が取り回して戴けるため、 当初予定通り、公式写真員としてカメラ片手の気楽な旅路気分が戻ってきて 安堵して初日を終えたが、振り返ってみればゆったり懇談しながら飯が食えたのは 結局この日だけだったのである。

  ●バンガロール:第二日
 ここからが愈々本番、8時発トヨタ自動車合弁企業へ向かう。 移動は安全面の配慮から全てバスだが、ここで早くも猛烈な道路事情に直面した。 何しろ信号もまばら、歩車分離も曖昧、中央分離帯すら明確でない幹線道路を所狭しと 自動車のみならずバイクも自転車も、人も、軽三輪タクシー・オートリクシャーも、 クラクションを力の限り鳴らしまくっては「割り込んだ方が勝ち」の世界で 飛ばし、渋滞となれば反対車線を逆走することも厭わない。 バスやトラックの大型車両は必ず助手を乗せているが、それでも事故が起きない方が不思議で、 一昔前の中国と泰を更に激しくした状況と言えば想像出来るだろうか。 訪問議員が多いこともあり日程がタイトだったので時間が押すことは想定出来たが、 結局冒頭から遅刻のスタートと相成った。

火花散る溶接
 トヨタ自動車は 年進出の印度では新興企業で現在は年産5万台に過ぎない。 従って小振りだが、プレスや組立ラインを一瞥して日本と大差は見受けられない近代的な 工場である。ただ車体の運搬はコンベアではなく台車であり、 国内では自動化のため殆ど見掛けなくなった手動溶接ラインも稼動しているのは 雇用対策の側面もあろうが要は人件費が安いからとのこと。 しかし都市部まで出るのも一苦労で、バンガロールに出たところで歓楽地がある訳でもない。 土地選定の決め手として「ゴルフ場が近かったから」というのは強ち冗談とは思えぬ、 日本からの駐在先としては相当に厳しい環境で、従業員は工場に隣接して寮を設けたが寄り付かず、 都市部からの送迎が主体になっている労働事情に鑑みても、 電力とともに輸送、就く道路のインフラ整備が印度の産業振興に如何に重要かが感じられた。

本当にグリーンが/日本館の奇妙な標語
 ここから再び車上の人となり印度第二のIT企業・インフォシスへと向かう。 市街地を挟んで反対の位置にあるので移動だけでも一苦労、到着はすっかり昼過ぎになっていたが 概要説明を挟んでカレーを御馳走になり、二十数号館までありその名の通り 大学風情の広大な「キャンパス」をゴルフ・カートもどきに 乗って一周する予定だったが、時間の都合で日本企業対応館のみ視察。 本当にグリーンとティーグラウンドも存在し、ここが教育・産業のみならず居住空間としても 「キャンパス」を体言していることに気付く。しかし一歩外に出れば テントも目に付く印度の片田舎、このギャップが国土の狭いわが国には 体感し難いところなのだろう。

 続いてはわが国ODAの成果のひとつである下水処理施設、水に所以の深いU議員が主導される。 印度で生水は飲むなと口をすっぱく言われたが、企業もホテルも自前の電力のみならず浄水施設も 備えなければ話が進まないという環境では確かに外資導入どころではない。 下水道普及率等の質問に回答はなく、それどころではない水準ということか。 成る程道すがら道路沿いに剥き出しの土管を山ほど見たのは上下水道併せての整備ということだったか と一同得心したのが、実は全然関係なく狐につままれた感。
 流石にここまで時間が押してくると続く灌漑施設はパスせざるを得ず、 急遽ショッピング・センターを抜けた奥にある、最近出来たばかりという謎のヒンズー教寺院を 一見した後に空港へ、印度航空の乗り首都デリーへと慌しく旅立った。 機中、T議員と隣席なり誠実なお人柄に触れる。共通の知人であるYU氏(TO88)も話題となった。 既に道中で二氏は別ルートに分かれ、議員四氏を含め計12名となった一行は夜半、 タージ・パレスホテルに辿り付く。 これまた5ツ星、海水パンツを持ってこなかったのは 失敗だったかと思う程のリゾート・ムードに溢れている。

  ●デリー:第三日
デリーではオートでない人力車も
 5月4日となった。わが国は黄金週間真っ盛りだが勿論、当地は普段と変わりない。 この日は本視察団の主日程が詰まった一日である。朝からぎっちりと大使館からレクを受けいざ始動、 まず反核NGOを訪問する。雑居ビルの一角に集う印度の面々に対峙するT議員が 唯一の被爆国・日本の立場から核廃絶を切々と訴えるが、議論は次第に激しくなり、 「米核の傘下にある日本政府の見解如何」と詰問口調も。畢竟、わが国が独立国家として 本来軍事費に充てられるべきを経済発展に流用することが出来た故に、 戦後の高度成長が存立し得たというのは疑いのない事実であり、恐らく吉田茂ら往時の指導者は その構図を充分に理解して経済発展を選択したのだろうが、それと引き換えに 外交交渉力もまた大いに毀損され、国家として歪な姿を呈していることも否定出来ない。 我が国は嘗て椎名外相が「米国は日本の番犬さま」と国会答弁したが如くの プラグマチックな見解を腹に据えて、核という問題に対峙しなければならないのではないか。
 続いては元外務次官や元知事、科学者やら歴々がずらり顔を並べたシンクタンクへ。 シンクタンクとは何ぞや、というお題には時間が足りず辿り着けなかったが、 日印関係を語り合う。今訪印を通じて「チャンドラ・ボースや中村屋の娘婿になったサファービー・ボース、 バール判事や印度象(現・亜細亜象)のインディラまで、大戦前後の両国の親近感が 独立印度が非同盟の名の下に東側に列したことから疎遠になった。 昨今、対中国また国連常任理事国入りの問題から再び両国家関係は密度を増している。 これからは10億人の市場を持つ印度はわが国経済界に取っても重要な投資先であり、 そのための諸インフラ整備を両国政府が手を取って進めていきましょう」というのが 日本側から見た見解に尽きる。中国との最大の相違は対日感情の好悪というのが 双方に取って大きな利点である。

 既に大幅に押しているのでタージ・マハルの原型となったフマユン廟は僅か10分で駆け抜け、 大使公邸の昼食会。宗主国・英国が旧市街から隔絶して作り上げたニューデリーではあるが、 各国大使館の威容が並ぶ浮世離れした空間で、刺身と牛肉に舌鼓を打つ姿は少々異様ではあるが、 鹿鳴館の時代からこの種のステータスを提供するのも外交の一側面であることは 変わらないのだろう。
 続いて国立国会図書館応接室に入って外交委員会との意見交換。 どの会合でも議事録取って忙しそうな面々にも律儀に「tea or coffe?」、更にはお菓子も。 よく見るとTVカメラマンもしっかり頬張っており、優雅な時の流れは英国仕込みか。 更に共産党出身のチャタジー下院議長を表敬する。 総研についても問われO教授の企業から派遣で云々との回答に 「政治と経済は同じことです」と流石、州議会でも長年政権を担ったという共産党現実派らしい 禅問答の如き含蓄のあるお言葉。印度共産党総研が誕生したら我々のおかげです。

 して夕食はメイン・エベントである印日議員フォーラム主催夕食会。 首相訪印と相前後して設立された同フォーラムの最初の行事とは光栄の限りだが、 デリー入りしてからは公式写真員に加え、本来の事務局長代理職も少々増してきて、 支払いの算段や明日バスの変更など、大使館の方と協議している内に、 フォーラムは概ね終わっていた。大使館・総領事館の皆様方には 首相訪印直後の多忙日程にも拘らずまさに総出でご対応戴き、 この場を借りて深く感謝を申し上げたい。 なお印度では毎日カレーと想定していたにも拘らず存外にカレーに出会うことが少なかったが、 日系ホテルだけに印度カレーとわが国カレー折衷とも言うべき ここのカレーは旨かったことを付記しておきたい。

  ●デリー:第四日
 遂にやってきた訪印唯一の観光デー、これぞ社用族の醍醐味。昨日の中型バスの縦揺れではとても体が持つまいと 大型バスに変更した甲斐があったか否かは定かではないが、朝7時に出て 揺られてアグラへ。高速道路を標榜するほぼ一本道には人や自転車は言うに及ばず、 蛇使いも熊使いも現れるが写真を撮ると撮影料を要求されるとのことで逞しい。 中央分離帯に鎮座在す牛はここで寛いで適宜な時間に各々牛車に帰っていくという ガイド氏の説明も俄かには信じ難いところ。牛はヒンズー教では神の使いだが、 その心は農業国として労働力、或いは乳牛の価値が極めて高いが故に食べないようにとの趣旨だろう。
蛇使いも、牛も現る。
 断続的に牛を見続けて、16世紀ムガール帝国のアクバル大帝両帝が 築いたアグラ城に漸く到着する。200kmの行程に実に5時間とはこれ如何に。 しかも州の変わる毎に路肩に車を止め運転手氏が通行税を払いにいく。 大小王国が群雄割拠していた印度亜大陸を大英帝国が植民化統一、大戦後そのまま 統一印度として独立し、今に到るまで20を超える公用語を抱える合衆国家とはいえ、 観光産業振興を目指すのであれば、道路整備とともにこれは大きな障害となるのではないか。 出国前、世界の天気で「明日のデリーは40度です」とクラクラするアナウンスを聞いてきたにも 拘らず、高原で印度の避暑地・バンガロールは兎も角、デリーに入っても 年間を通じ最も暑いこの時期にも拘らず充分過ごせる気候で、寧ろトランジットした シンガポールの方が湿気が多くて体感温度は高かったのではないかと感じられたが、 ここに到って遂に印度らしい天気となってきた。しかし昼食はまた思い切りリゾートの オベロイ・アグラで寒暖の差が激しい。
アグラで胡座、の絵は撮りませんでした
 して愈々15時からはタージ・マハル廟、シャー・ジャハーン帝が17世紀に22年の歳月を 費やした亡き妻のために建てた霊廟である。アグラ城からも遠望見渡せたが、 周囲に何の建物もないために恰もタージ・マハルだけが浮き上がる様に聳えているのが 余りに美しい。一同声もないという表現が相応しい光景だが、現実には皆はしゃぎまくってる。 ここまで来たら議員も党職員も大学教授もない。皆日本人らしく「タージ・マハルを吊り上げるの図」 (冒頭)の撮影に明け暮れ、私も恐縮にもO団長に撮影戴いた。 民間企業経験の豊富な団長だが、何等メモを用意することなく訪問先毎の挨拶を巧みにこなし、 毎夜飲み続けるきさくな還暦を越えた御仁は民間だろうと仲々いまい。 団長をはじめ先生方には御相伴に預かり大変お世話になったことを、 再びこの場を借りて改めて深く御礼申し上げたい。
 アグラ滞在は昼食含め僅か4時間で帰路も広大な農牧地に稀に大郊外型商業施設が現れる 往路と変わらぬ光景が続く。確かに牛の数は減っている、今頃のんびり牛車で休んでいるのだろうか。 牛は一体何時働いているのか。この日は道中唯一、昼夜ともに内輪だけの気楽な飯の見込みだったが、 何と夕食には同夜現地入りされたI副長官が飛び入り参加、 更に真紅のガウンをまとった団長の部屋で二次会と宴が続いた。 祐ちゃん今年は端午の節句出来なくて御免なさい。お父さんは飲んでます。

  ●デリー:第五日
 最終日は朝が遅かった。昨夜飲み過ぎてすっぽんぽんで寝て仕舞い体調が懸念されたが、 前半続いた便秘もここに来て快食快便を通り越し蓋が外れたかの如く下り始めていたが、 今日一日は何とか乗り切れるだろう。イスラム式トイレは散見されたが、 印度でウォシュレットに邂逅することは終ぞ無く、祐旭に借りてきたお尻拭きが重宝する。 折角早起きした割にホテルに近くは店ひとつなく歩けど道ばかり。 もう少し市街地寄りかつ安全なホテルは無かったものか。
 さて午前中はオールドデリー地区のスラムと隣接されたNGO主催の教育施設を視察。 授業中にいきなり大量の亜細亜人が現れ写真を撮り捲ってる光景に気後れする素振りもなく、 幼稚園から小学校ぐらいの児童が唄や踊りを披露する。 印度IT振興の原点(?)、二桁掛け算の暗唱も実見した。 辺りは区画整理が始まり当局の指導により住居を解体・移築する姿が目立つ。 言わば認定スラムであり、妙な表現だがハイクラス・スラムなのだろう。 考えてみれば元々雨水も豊富な農業国であり、地方には未だ物々交換の風習も残っており、 何よりも年間を通じて"hot,hotter,hottest"の国だから、所得最貧層でも生きていくことは 出来る、逆にだからこそ社会主義的救貧政策と相まって貧困層に上昇圧力が働きにくく、 90年代以降、外資規制緩和をはじめとする改革によって経済環境は好転したが 貧富の差は更に広がっているという構図が見えてくる。
 続いてこれも日本のODAが活用されたデリー地下鉄だがここでアクシデント、 バスの前面ガラスにいきなり水が拭き上がる。運転手氏は意に介さない様子だったが、 程なくエンスト。運転助手氏が走行中にラジエーターを開けタイミングベルトが切れたとのことで 復旧の見込みが立たない。U議員が駅までオートリキシャー乗車を促すが、 大使館は安全重視で代替バスの到来を待つ。現れた日本産車に乗り込むとあら不思議、 全然揺れないではないか。バンガロールに比べ総じてデリーは舗装も良かったが、 要は現地産バスのサスペンションがトラック仕様だったのが縦揺れの最大要因だったか。 昨年末に一部開通した地下鉄の駅構内説明表示にはグラフで日本の貢献が最も大きいことが 示されていたが、車両は韓国が受注。欧州各国の様に実質アンタイド化に徹すべきではないか。

 既に1時間近く押しているのでホテルに戻って日本企業との昼食会も 慌しい。ここまで来ると疲労も手伝い、名刺交換もパスして写真員に徹する。 税制はじめ日本企業の印度進出に際してのネックの指摘が相次いだが、 前邦人企業会長氏からは「デリーとバンガロールだけで印度が判ったと思わないで下さい」 厳しいご指摘。ムンバイ(ボンベイ)、チェンナイ(マドラス)、コルコタ(カルカッタ)、 果たしてこれらの地に赴く日は訪れるだろうか。
上はスタジアムの如き
印度国会。
 15時半に院内に入りアメハド外務閣外相との会談。印度には閣僚が60人程います、 という外務省の説明に思わず議員諸氏から羨望の眼差しがそそがれたが、 英国式で閣外相はわが国の副大臣に近い。待ち時間を利用して「印度議会初登院の図」を撮影、 終焉が近付いてきたが再びバスが立往生、道に迷ったかと思いきやあにはからんや、 関所への支払いで事無きを得たが、この日はデリー近郊を東西南北行ったり来たりで ただでさえ移動が多い上にトラブルが相次いでどんどん遅れていく。84年に進出した 先見の明、スズキ自動車合弁工場は54万台生産うち輸出5万で、 驚くなかれ乗用・MPV(multi purpose vehicle)市場の5割弱を占めている。 しかしここにもコンベアはなく、溶接は手動と量の多寡は関係ない様だ。
 帰路も大渋滞で日本人会との夕食会には端から1時間強しか残されていない。 しかも事務取扱員はこの僅かな時間を利用してこの日系ホテルでお土産を工面しなければならない。 急ぎ紅茶とカレーを詰め込み、妻へのショールを何とか購入、夕食会の支払いを済ませて 23:15発、機上の人となった。

 楽しい旅だった。パスポートを使うのは
01年の大越以来4年振りで、 英語力の減退にも悩まされたが、北京・敦煌・西安と観光三昧だった96年の中国出張に比べれば 遥かに多忙とはいえ、少々詰め込み過ぎの感こそあれ、議員諸兄にはこの位の強行日程の方が 道理に適っているのだろう。バスと建物、しかも最新設備ばかりで生の印度を満喫したとは お世辞にも言えなかったのと発言の機会が時間的に殆ど無かったのが心残りではあったが、 お土産の象さんとともに7日無事帰国、さて次は何処に行きましょう。