初めて印度を訪れた多くの人は、後に幾度も再訪する様な印度フリークになるか、 二度とかの地に踏み入れまいと固く誓うか、その両極端になると言われる。 中国との軋轢、首相訪印と俄かに印度に注目が集まっている感があるが、 かく言う私も特段印度に関心を持っていた訳ではなく、その印象は一にも二にもカレー、 後はインダス文明、ゼロの発見、レインボーマン程度に過ぎなかった。 今般印度を訪問する運びとなったのは、わが総研では「外交政策ビジョン」との大層な 名の下に毎年対象国を定め、若手国会議員数名とともに現地を訪問・研究することとなっており、 本年1月に着任した私にとっては、既に昨年後半から行われてきた勉強会等に中途合流し、 蓋を開けてみたら黄金週間を潰して印度に旅立つことになっていたに過ぎない。 ところが総研の本団総括者F氏が渡航直前にドクターストップで急遽不在となり、 不肖私が事務局長代理に任命され物見由山気分が一転、不安を抱えての旅立ちとなったのである。 ●バンガロール:第一日
シンガポール資本を主に作られた巨大IT企業集積地の概要、更にはコールセンター事業者の 説明を伺う。要は前者は大家さん、後者は税制優遇措置等を主眼に 本社機能をここに据えているに過ぎないので「現場」というものが無く 英語力に劣る私には概要を理解することも能わず、増してや質問においておやではあったが、 電気や水のインフラを自ら備え、教育制度を含めた人材育成策と旨く 連動すれば、劣悪な輸送環境には何等関係なく、ITならば産業都市が成立し得るという 事情はよく理解出来た。 続いては近隣の牧野フライス社。鋳物等の機械加工、金型の製作とその工作機械の製造を行う 日系企業で、進出の理由として「印度には土壌として工業が存在した」という言葉が耳に残った。 労働集約型の鋳物そのものは人件費の安い中国で作るが、 労賃はもう少し高くても中国では技術的にまだ難しい機械加工を当地で行うという アジアを股に掛けた生産体系に感服。墨田区や大田区の高度成長を支えた"京浜工業地帯"を 維持するためには人づくりもカネも相当に手当てしなければこれは難しかろうと実感するが、 その回答を思索する術もなく、感慨だけを残して当地を後にした。 ホテルに戻り漸く小一時間の空きが出来たので周辺を散策する。 目抜き通りMG(マハトマ・ガンジー)通りに面しているので活気に溢れているが、 市内で最も整備されたと言われながら道路事情は矢張り推して知るべし(左写真)。 偶々入った店が子供服店でわさわさと店員諸兄が集まってきて、とても手ブラでは 出れない雰囲気に。日本人の悪い癖で先方の言うがままに、恐らく観光客相手の 高値ではあろうが、幸便に祐旭へのお土産が手に入った。 夜は三議員が到来され現地企業との懇親会。当然ながら食事の殆どは 印度人か日本人かの現地関係者との会食になるが、製造業各社に中でサカタのタネ駐在員の方の 奮闘振りが印象的だった。終了後、更に深夜便で到着した三議員を迎え本日は終了。 アテンドは全てチェンナイから長躯到来された総領事館が取り回して戴けるため、 当初予定通り、公式写真員としてカメラ片手の気楽な旅路気分が戻ってきて 安堵して初日を終えたが、振り返ってみればゆったり懇談しながら飯が食えたのは 結局この日だけだったのである。 ●バンガロール:第二日 ここからが愈々本番、8時発トヨタ自動車合弁企業へ向かう。 移動は安全面の配慮から全てバスだが、ここで早くも猛烈な道路事情に直面した。 何しろ信号もまばら、歩車分離も曖昧、中央分離帯すら明確でない幹線道路を所狭しと 自動車のみならずバイクも自転車も、人も、軽三輪タクシー・オートリクシャーも、 クラクションを力の限り鳴らしまくっては「割り込んだ方が勝ち」の世界で 飛ばし、渋滞となれば反対車線を逆走することも厭わない。 バスやトラックの大型車両は必ず助手を乗せているが、それでも事故が起きない方が不思議で、 一昔前の中国と泰を更に激しくした状況と言えば想像出来るだろうか。 訪問議員が多いこともあり日程がタイトだったので時間が押すことは想定出来たが、 結局冒頭から遅刻のスタートと相成った。
続いてはわが国ODAの成果のひとつである下水処理施設、水に所以の深いU議員が主導される。 印度で生水は飲むなと口をすっぱく言われたが、企業もホテルも自前の電力のみならず浄水施設も 備えなければ話が進まないという環境では確かに外資導入どころではない。 下水道普及率等の質問に回答はなく、それどころではない水準ということか。 成る程道すがら道路沿いに剥き出しの土管を山ほど見たのは上下水道併せての整備ということだったか と一同得心したのが、実は全然関係なく狐につままれた感。 流石にここまで時間が押してくると続く灌漑施設はパスせざるを得ず、 急遽ショッピング・センターを抜けた奥にある、最近出来たばかりという謎のヒンズー教寺院を 一見した後に空港へ、印度航空の乗り首都デリーへと慌しく旅立った。 機中、T議員と隣席なり誠実なお人柄に触れる。共通の知人であるYU氏(TO88)も話題となった。 既に道中で二氏は別ルートに分かれ、議員四氏を含め計12名となった一行は夜半、 タージ・パレスホテルに辿り付く。 これまた5ツ星、海水パンツを持ってこなかったのは 失敗だったかと思う程のリゾート・ムードに溢れている。 ●デリー:第三日
続いては元外務次官や元知事、科学者やら歴々がずらり顔を並べたシンクタンクへ。 シンクタンクとは何ぞや、というお題には時間が足りず辿り着けなかったが、 日印関係を語り合う。今訪印を通じて「チャンドラ・ボースや中村屋の娘婿になったサファービー・ボース、 バール判事や印度象(現・亜細亜象)のインディラまで、大戦前後の両国の親近感が 独立印度が非同盟の名の下に東側に列したことから疎遠になった。 昨今、対中国また国連常任理事国入りの問題から再び両国家関係は密度を増している。 これからは10億人の市場を持つ印度はわが国経済界に取っても重要な投資先であり、 そのための諸インフラ整備を両国政府が手を取って進めていきましょう」というのが 日本側から見た見解に尽きる。中国との最大の相違は対日感情の好悪というのが 双方に取って大きな利点である。 既に大幅に押しているのでタージ・マハルの原型となったフマユン廟は僅か10分で駆け抜け、 大使公邸の昼食会。宗主国・英国が旧市街から隔絶して作り上げたニューデリーではあるが、 各国大使館の威容が並ぶ浮世離れした空間で、刺身と牛肉に舌鼓を打つ姿は少々異様ではあるが、 鹿鳴館の時代からこの種のステータスを提供するのも外交の一側面であることは 変わらないのだろう。 続いて国立国会図書館応接室に入って外交委員会との意見交換。 どの会合でも議事録取って忙しそうな面々にも律儀に「tea or coffe?」、更にはお菓子も。 よく見るとTVカメラマンもしっかり頬張っており、優雅な時の流れは英国仕込みか。 更に共産党出身のチャタジー下院議長を表敬する。 総研についても問われO教授の企業から派遣で云々との回答に 「政治と経済は同じことです」と流石、州議会でも長年政権を担ったという共産党現実派らしい 禅問答の如き含蓄のあるお言葉。印度共産党総研が誕生したら我々のおかげです。 して夕食はメイン・エベントである印日議員フォーラム主催夕食会。 首相訪印と相前後して設立された同フォーラムの最初の行事とは光栄の限りだが、 デリー入りしてからは公式写真員に加え、本来の事務局長代理職も少々増してきて、 支払いの算段や明日バスの変更など、大使館の方と協議している内に、 フォーラムは概ね終わっていた。大使館・総領事館の皆様方には 首相訪印直後の多忙日程にも拘らずまさに総出でご対応戴き、 この場を借りて深く感謝を申し上げたい。 なお印度では毎日カレーと想定していたにも拘らず存外にカレーに出会うことが少なかったが、 日系ホテルだけに印度カレーとわが国カレー折衷とも言うべき ここのカレーは旨かったことを付記しておきたい。 ●デリー:第四日 遂にやってきた訪印唯一の観光デー、これぞ社用族の醍醐味。昨日の中型バスの縦揺れではとても体が持つまいと 大型バスに変更した甲斐があったか否かは定かではないが、朝7時に出て 揺られてアグラへ。高速道路を標榜するほぼ一本道には人や自転車は言うに及ばず、 蛇使いも熊使いも現れるが写真を撮ると撮影料を要求されるとのことで逞しい。 中央分離帯に鎮座在す牛はここで寛いで適宜な時間に各々牛車に帰っていくという ガイド氏の説明も俄かには信じ難いところ。牛はヒンズー教では神の使いだが、 その心は農業国として労働力、或いは乳牛の価値が極めて高いが故に食べないようにとの趣旨だろう。
アグラ滞在は昼食含め僅か4時間で帰路も広大な農牧地に稀に大郊外型商業施設が現れる 往路と変わらぬ光景が続く。確かに牛の数は減っている、今頃のんびり牛車で休んでいるのだろうか。 牛は一体何時働いているのか。この日は道中唯一、昼夜ともに内輪だけの気楽な飯の見込みだったが、 何と夕食には同夜現地入りされたI副長官が飛び入り参加、 更に真紅のガウンをまとった団長の部屋で二次会と宴が続いた。 祐ちゃん今年は端午の節句出来なくて御免なさい。お父さんは飲んでます。 ●デリー:第五日 最終日は朝が遅かった。昨夜飲み過ぎてすっぽんぽんで寝て仕舞い体調が懸念されたが、 前半続いた便秘もここに来て快食快便を通り越し蓋が外れたかの如く下り始めていたが、 今日一日は何とか乗り切れるだろう。イスラム式トイレは散見されたが、 印度でウォシュレットに邂逅することは終ぞ無く、祐旭に借りてきたお尻拭きが重宝する。 折角早起きした割にホテルに近くは店ひとつなく歩けど道ばかり。 もう少し市街地寄りかつ安全なホテルは無かったものか。 さて午前中はオールドデリー地区のスラムと隣接されたNGO主催の教育施設を視察。 授業中にいきなり大量の亜細亜人が現れ写真を撮り捲ってる光景に気後れする素振りもなく、 幼稚園から小学校ぐらいの児童が唄や踊りを披露する。 印度IT振興の原点(?)、二桁掛け算の暗唱も実見した。 辺りは区画整理が始まり当局の指導により住居を解体・移築する姿が目立つ。 言わば認定スラムであり、妙な表現だがハイクラス・スラムなのだろう。 考えてみれば元々雨水も豊富な農業国であり、地方には未だ物々交換の風習も残っており、 何よりも年間を通じて"hot,hotter,hottest"の国だから、所得最貧層でも生きていくことは 出来る、逆にだからこそ社会主義的救貧政策と相まって貧困層に上昇圧力が働きにくく、 90年代以降、外資規制緩和をはじめとする改革によって経済環境は好転したが 貧富の差は更に広がっているという構図が見えてくる。 続いてこれも日本のODAが活用されたデリー地下鉄だがここでアクシデント、 バスの前面ガラスにいきなり水が拭き上がる。運転手氏は意に介さない様子だったが、 程なくエンスト。運転助手氏が走行中にラジエーターを開けタイミングベルトが切れたとのことで 復旧の見込みが立たない。U議員が駅までオートリキシャー乗車を促すが、 大使館は安全重視で代替バスの到来を待つ。現れた日本産車に乗り込むとあら不思議、 全然揺れないではないか。バンガロールに比べ総じてデリーは舗装も良かったが、 要は現地産バスのサスペンションがトラック仕様だったのが縦揺れの最大要因だったか。 昨年末に一部開通した地下鉄の駅構内説明表示にはグラフで日本の貢献が最も大きいことが 示されていたが、車両は韓国が受注。欧州各国の様に実質アンタイド化に徹すべきではないか。 既に1時間近く押しているのでホテルに戻って日本企業との昼食会も 慌しい。ここまで来ると疲労も手伝い、名刺交換もパスして写真員に徹する。 税制はじめ日本企業の印度進出に際してのネックの指摘が相次いだが、 前邦人企業会長氏からは「デリーとバンガロールだけで印度が判ったと思わないで下さい」 厳しいご指摘。ムンバイ(ボンベイ)、チェンナイ(マドラス)、コルコタ(カルカッタ)、 果たしてこれらの地に赴く日は訪れるだろうか。
帰路も大渋滞で日本人会との夕食会には端から1時間強しか残されていない。 しかも事務取扱員はこの僅かな時間を利用してこの日系ホテルでお土産を工面しなければならない。 急ぎ紅茶とカレーを詰め込み、妻へのショールを何とか購入、夕食会の支払いを済ませて 23:15発、機上の人となった。 楽しい旅だった。パスポートを使うのは01年の大越以来4年振りで、 英語力の減退にも悩まされたが、北京・敦煌・西安と観光三昧だった96年の中国出張に比べれば 遥かに多忙とはいえ、少々詰め込み過ぎの感こそあれ、議員諸兄にはこの位の強行日程の方が 道理に適っているのだろう。バスと建物、しかも最新設備ばかりで生の印度を満喫したとは お世辞にも言えなかったのと発言の機会が時間的に殆ど無かったのが心残りではあったが、 お土産の象さんとともに7日無事帰国、さて次は何処に行きましょう。 |