チャックと劉邦
(05/7)
〜2005年度NC合宿@愛知万博の舞台裏〜
[文=高橋洋氏,写真=河田浩氏] 司馬遼太郎の「項羽と劉邦」を読んだ事があるだろうか?。
 始皇帝死後の秦王朝に対して戦いを挑んだのが項羽と劉邦であったが、項羽が天才的軍略家
 であり勇猛無比の覇王であったのに対し、劉邦は若い頃は特に取り柄も無い凡人と見られて
 いた。しかしただひたすら人柄が良かったため、劉邦の下には次から次へと優秀な参謀や将軍
 が集まり、自然と戴かれるようになった。項羽と劉邦は何度も戦いその度に項羽が圧倒的勝利
 を収めたが独断的で他人に対し過酷であった項羽の下からは次第に人材が去り、逆に万民に
 人気があった劉邦軍は膨張した。最終的に劉邦は項羽を倒し、初代皇帝・高祖として紀元前
 202年に漢王朝を開いた。それは広大な中国を舞台とした大河ドラマであるとともにリーダー
 シップとは何かを考えさせられる名作でもある。
今年度のNC合宿は、チャックこと花岡道世(NZ88)
 総合幹事長の下、6/25-26に愛知万博・浜名湖は
 舘山寺温泉にて開催された。名古屋や東京から
 9名が参加し、いつにも増して楽しく盛り上がった
 一泊旅行となったのだが、その舞台裏には中国
 3000年の歴史に冠たる「項羽と劉邦」にも勝るとも
 劣らない、壮大な人間ドラマがあったのである。

●2005年度NC合宿の起源
そもそもNC合宿は97年に平野秀樹(KO88)の呼び
 かけによって始まった。松下電器産業に入社以来、
 宇治の工場に引き篭っていた平野にとって、年に
 一度ぐらい元アイセックの仲間に会って大騒ぎをしたいというのはもっともな願いであり、
 この年4月、旧NC関係者を中心に11名が浜名湖畔の弁天島温泉に集まった。その後数年の
 空白を経て、00年に小林大祐・ひろりん夫妻(SP88)幹事による伊豆修善寺合宿で復活、01年
 には高橋洋(TO88)幹事による伊豆高原合宿、更に02年は東京にて粥川善洋(TO88)総合幹事長
 の尽力によって、盛大に「10年祭」が開催されるに至った。

03年は前川賢司(KG88)幹事の下、伊豆長岡温泉にて開催されたが、これが今年度NC合宿の
 起源となった。毎回NC合宿においては翌年度幹事を決めることが恒例になっており、04年は
 は芝村茂樹(KB88)が、ついでに05年は愛知万博と絡めてチャックが幹事を務めることが合意
 された。しかしながら当初パワーポイントの資料を作るなどやる気まんまんだった芝村の
 今から思えば止むを得ぬ個人的事情により、04年はキャンセルという結果となってしまった。

迎えた05年は、あの天真爛漫・自由奔放なチャックが幹事である。これだけでは大いに心もと
 ないので、緻密さには定評のある芝村を任期延長で幹事代理兼首都圏代表とし、名古屋と
 東京の二極体制で幹事業務を遂行することとなった。しかしその幹事代理は5月からの上海
 赴任が急遽決まった旨を3月に発表し、幹事は再びチャック一人になってしまう。果たして
 今年度のNC合宿は実現するのか、NC合宿の歴史は幕を閉じてしまうのか、心配したのは
 筆者のみではあるまい。

●幹事団の結成1:裏幹事
芝村の上海赴任声明の後、最初に動いたのは芝村の盟友でもある高橋であった。一般にNC
 合宿の場合、出席者の過半は東京在住となる。愛知万博は名古屋で開催されるとしても、
 東京発の交通手段を含むパックツアーを予約し、そこに宿泊のみ名古屋勢が加わるという形に
 するのが物理的にも金銭的にも妥当であろうと、松尾(旧姓:小田)智晶(DO88)から終身名誉
 幹事(※筆者注:なんで名誉なのに現職やねん?!)と呼ばれている経験豊富なツアコンは
 考えていた。花岡幹事長から頼まれもしないのに勝手に旅行会社のパンフレットを調べ尽くし
 「JR+愛知万博+三河の温泉宿泊」というプランを企画し、温泉宿の選択肢と予算案を花岡
 幹事長に伝えるというお節介ぶりであった。

それに素直に喜ぶとともに、お尻に火が点き始めたことを感じた花岡幹事長は、ようやく日程
 の決定に動き出す。今回の主題である愛知万博は3月末か9月末までの開催であるが、暑く
 混雑する真夏を避けるならば、必然的に6月ぐらいまでが望ましい。これも幹事でもないのに
 一人で焦りを覚えた高橋からの進言なのだが、もう万博が始まろうという3/22に6/25-26の
 一泊二日の日程が決定された。

高橋はこれを踏まえ、花岡幹事長に人数確認と宿泊先の決定を依頼するが、チャックのお尻は
 まだまだ余裕があるようであった。ようやく黄金週間明けに、花岡幹事長から「ひえ〜5月に
 なっちったぁ〜」とのメールが送信され、予約内容の判断が下った。高橋はすぐさま旅行会社
 を通して予約手配をするも、花岡幹事長に提案していた三河の温泉宿はその時点で全て満室
 となっていた。が名古屋からは少々離れるものの浜名湖の舘山寺温泉・ホテル鞠水亭を確保。
 そして5/16に花岡幹事長より関係者全員に対し、宿泊や交通手段を含む旅程の全容が発表
 されるに至ったのである。その午前5時13分に送信されたメールは自らを「表幹事」とした上で
 高橋を「裏幹事」と呼び目一杯持ち上げる内容であった。曰く「世の中、何かと"裏”の方が、
 有能なのよね・・・(^^;)」。

●幹事団の結成2:万博担当幹事
高橋がパックツアーの予約に専念する一方で、愛知万博についての情報提供にこれまた頼まれ
 もしないのに立ち上がったのは、林(旧姓:杉浦)義隆(NA88)であった。林は既に何度も万博を
 訪れており、その経験を踏まえ5/16の花岡幹事長からのメールに対して、4時間後には「愛・
 地球博(万博)に関しての情報です」という返信を送った。その非常に詳細にわたったメールの
 中では会場の広さ、待ち時間、パビリオンの予約の方法、暑さ対策の必要性など、実用的かつ
 的確な助言が次から次へと繰り出されていた。林曰く「パビリオンの予約ができなくても
 幹事殿のせいではありません」。
いつのまにか花岡幹事長により「万博担当幹事」と命名
 されていた林の活躍は、情報提供だけに止まらなかった。
 5/16メールに自ら書いた通り、待ち時間が長い上に暑い
 愛知万博では、人気の企業パビリオンのインターネットに
 よる事前予約が必須になる。一方で1ヶ月前から可能な
 その予約自体がこれまた狭き門であることは、林自らが
 痛感しているところであった。そこで5/23、万博担当幹事
 は幹事団全員にネット予約を呼びかけ、その手順やコツ、
 役割分担などを解説した。それに花岡幹事長が嬉々と
 応じたことは言うまでも無い。曰く「杉浦君て、なんて、
 優秀で、良い人なのでしょう!?!!!!!!」。
林の機敏な手配に従い5/25(水)午前9時から幹事団はパソコンの前に座り続け、事前予約に
 奮闘した。花岡:長久手日本館、林:トヨタ館、高橋:日立館と最も人気のある3パビリオンを
 分担し、花岡は職場からお局様として誰にも有無を言わせず、林はやはり職場から次期社長
 として現社長からの呼び出し以外は無視して、そして高橋は学生の特権として自宅から、万博
 のウェブサイトにアクセスし続けた。しかし…何度やっても何度やってもアクセス拒否され、
 20回に1回ぐらい画面が開いても、次へ進めないという状況を繰り返した。そうしている間に
 午前11時近くなり、トヨタ館も日立館も全ての時間帯で予約が埋まってしまった!!!と思った
 時に林万博担当幹事よりメールが入り、長久手日本館と三井東芝館について、参加者全員分の
 予約が出来たことが伝えられた(上写真:3時間待ちの三井東芝館)。幹事団の意気が大いに
 上がったことは言うまでも無い。林曰く「本日はお忙しい中、予約活動にご尽力頂きまことに
 ありがとうございました。(中略)いずれにしても予約できてめでたしめでたし。またこの
 予約の大変さを理解していただける方がいて下さるということに満足しています」。
実は幹事団は3名だけではなかった。花岡幹事長の盟友
 である柴田由美子(NA88)も名を連ねたのであった。柴田
 はこれまでのNC合宿含め、この手の全国規模の旅行に
 一度も参加はなかったが、チャック一人では可哀想(?)と
 今年の合宿への参加を表明するとともに、幹事業務への
 協力を申し出てくれた。事前予約は大阪出張と重なった
 ため参加できなかったもの、当日は万博八草駅から会場
 への誘導等で花岡幹事長を補佐した。それより何よりも
 チャックとしては、同じ名古屋から宿泊併せ女性参加者
 がいること自体大変心強かったに違いない。花岡幹事長
 は柴田を「助っ人幹事」と命名した(左写真:スリランカ館)。
●NC合宿当日へ向けて
こうして幹事団は大いに盛り上がってきた。6/8には花岡幹事長から全関係者に「途中報告」の
 メールが送られが、この中では裏幹事からの集合時間の情報、万博担当幹事からの万博対策
 の情報をペーストする一方、末尾に事前予約の奮闘記を追伸っぽく、しかし自ら延々と綴った
 のである。「♪以下はちょっと書いておきたいこと・・・お時間のある時にお読みください♪」。
 そして当日まであと3日の6/22午前1時、花岡幹事長は参加予定者全員に対し、「きゃ〜!
 後ちょっとでNC合宿@万博♪」との最終確認メールを送った。曰く「前ちゃん! 河田君!
 小松君! うっちー! 小田(松尾)ちゃん! 林(杉浦)万博幹事! しばこ助っ人幹事! 
 高橋裏幹事! 表幹事のちゃっくです!」。

2200年前の劉邦は、張良や韓信といった有能な参謀や将軍に恵まれただけではなかった。
 敵を出来る限り殺さぬ等類稀なる仁徳が故に大地の民からも支持を得、だからこそ中国大陸
 を統一できたのである。05年NC合宿でも花岡幹事長の仁徳は多くの支持を得た。チャック
 のメールに象徴される幹事団の盛り上がりに対し、参加者から感謝や期待の弁が詰まった
 温かいメールが次々と返信されたことは言うまでも無い。小坂(旧姓:内山)史子(ICU88)曰く
 「週末を遊び倒して疲れ果てる予定のため、いかにして来週の授業で手を抜くか、今からあれ
 これ算段中」。

 <花岡幹事長の生態>
日時メールの件名送付先用件
3/22 0時「始まっちゃうぞ!万博!」全員日程決定の通知
5/6 2時「ひえ〜5月になっちったぁ〜」幹事団参加予定人数の通知
5/16 5時「NC合宿@万博(お返事依頼つき)」全員参加者確認
6/2 24時「ひえ〜6月だ!(5月から成長していない、
ちゃっくです)」
幹事団連絡事項の確認
6/8 2時「NC合宿@万博(途中報告)」全員万博に関する情報等
6/17 0時「おっと! もう、来週じゃないか!」幹事団連絡事項の最終確認
6/22 1時「きゃ〜! 後ちょっとでNC合宿@万博♪」全員最終通知・確認
6/30 1時「みなさま! お疲れ様でした!」全員合宿後の謝辞
●2005年度のNC合宿@愛知万博
これ程まで準備段階で盛り上がった旅行企画が、本番当日
 に楽しくないはずがない。6/25(土)は旅行団の団結力を
 試す様、今年一番の暑さにして万博開場以来二番目の混雑
 ぶりであった。確かに広い会場を歩き回るのは疲れ、照り
 付ける太陽は体力を消耗し、公式グッズ店ですら入場制限
 をしている長蛇の列には閉口した。しかし柴田助っ人幹事
 の誘導に従い万博八草駅からリニモに乗って会場入りし、
 幹事団の団結の賜物である事前予約のお蔭で、3時間待ち
 という人気パビリオンを効率良く楽しみ、林担当幹事の
 会場知識に従って少しでも日蔭のエリアを歩いた。そして
 花岡幹事長の事前調査によりアフリカ料理や八丁味噌
 アイスクリームを堪能した(上写真:確かに味噌の味がした)。そんな中、河田浩(HU88)と小松
 雅和(HI90)は自ら公式フォトグラファーを申し出、たくさん写真を撮った。
17時には万博会場をバスで出発し、翌日も万博を訪れる予定
 の林万博担当幹事が見送る中、8名は浜名湖畔の舘山寺温泉
 へ向かった。まず湖を臨む露天風呂で汗を流し(本当に!)
 夜の部が始まった。この辺りからは、幹事業務で疲れ果てた
 チャックに代わり夜の帝王松尾が仕切り始める。散々ビール
 を飲んだ一次会の後、二次会は自然とカラオケルームへ移り
 前川の「抱きしめてTonight」、小坂の「Boy Meets Girl」、
 柴田の「天城越え」と懐かしい曲が続いた。三次会は部屋にて
 小松が必ず持参するUNOで盛り上がった。因みに今回披露
 された小松の寒いギャグの一例を紹介しておこう。
 (ウクライナ館にて)「うっ、暗いな」。こうして浜名
 湖の夜は更け、皆が眠りに就いたのは午前3時であった。
翌朝はもう体力は殆ど残っていない状態のはずであった。が
 宿の目の前にある「浜名湖パルパル」という、名古屋では宣伝
 されているらしい遊園地を、35年間名古屋に暮し続けながら
 一度も訪れたことがなかったチャックは一目散に目指した。
 他の旅行団員も、胃に応えるジェットコースターやズブ濡れ
 の急流下り、そして何の仕掛けも無い恐怖の館など大学時代
 に戻った気分で盛り上がった。消去法で選択したはずの宿地
 だったが、花岡幹事長の先導の下、万博後の二日目はあっと
 いう間に過ぎ、15時過ぎ東海道本線・弁天島駅にてNC合宿
 旅行団は大団円のうちに解散となったのである。
それぞれが自宅へ無事帰った後、最初に全員宛てにメールを送信したのは松尾であった。「次回は
 『砂浜ミーティングin茅ヶ崎』と題して、どうぞ我が家へお越しくださいませ」。それに対して
 他の団員からも次々感謝の声が続いた。そして花岡幹事長からは「みなさま!お疲れ様でした!」
 というメールが配信された。そこには幹事長としての思いのたけが長々と綴られていたことは
 言う迄も無い。「この度は、皆様に心配をおかけしつつ、皆様に助けていただきつつのNC合宿
 でしたが、無事に、そして、楽しくご一緒できたこと、ホッとしております。なんとも頼りない
 表幹事でしたが、たまにはこんなスリリング(?)な旅行も一趣と、思っていただければ幸甚です。
 ちゃっくは直前は胃がキューーーとしつつも、全体としては無茶苦茶、楽しかったです。また
 皆さんとご一緒できる日を楽しみにしております」。

今回の旅行団員の内、実際にNCメンバーであったのは3名に過ぎない。また多くがスキーや
 麻雀等他の企画旅行の常連者でもある。結婚に出産にと、同世代の仲間の家族構成が変化するに
 連れ、一泊旅行を呼びかけてもなかなか人が集まらなくなってきているのも事実である。設立者
 である平野が米国赴任してしまった以上、今後「NC合宿」という名前の旅行が継続されるのか、
 その存在意義が問われていることは否定し難い。しかしこれだけ盛り上がった旅行団にとって、
 名称などはどうでも良いことであった。

毎回劉邦がチャックである必要はない。また一人だけでも何の心配も要らない劉邦がいてもいい
 と思う。しかし誰が劉邦になっても、出来る事があれば自ら進んで協力しようとし、心から感謝
 することをごく自然に思っている、素晴らしい仲間が沢山いることをこの上ない幸せに感じた、
 2005年度のNC合宿であった。