十年一昔
(十年祭幹事団の道程)

粥川善洋

 そもそも今般、大規模な同窓会を開催しようと思い立ったのは、00年2月に85年入学組、即ち3つ上の世代が ミレニアム同窓会と題して(入学)15周年記念会合を行ったとの報に接したことによる。 当時既に我々88世代は97年以来3年振りの旧NC旅行を再開することが固まりつつあり、 これは旧NCと名乗ってはいるものの、広く88世代から参加者を募る予定で、 実際に26名もの参加者が集まった。しからば次は参加者の限られる旅行でなく、パーティー形式で という発想は至極当然で、そこにタイミングよく85世代の動向が引き鉄となったのである。
 しかし十年目に当たる01年は3月に上田谷真一氏、5月に平田泰隆氏と 御成婚二次会を抱えており、これが一段落した後の2002年をターゲットに構想を進めることとなった。 この思惑を初めて開陳したのが01年11月、都合第3度目になる伊豆高原行であり、 2年続いた旅行を小休止して次年度は卒業十周年を題材に大同窓会を開くという提案は 概ねの了解を得て、愈々実現へと第一歩を歩み始めたのである。

 年内は旧各地区代表6氏(小野賢一HO、高橋洋TO、松田浩NA、前川賢司KG、河田浩HU、朝雲秀KY各氏)を軸に全国展開を図るという方針を固め、 11月目処開催を内定した段階で終了。小休止を挟んで再稼動したのは3月になる。
 この時点でなお挙行まで半年の時間が残されているのだが、決して楽観を許されなかったのは、 今会の最大の課題が「参加者の発掘」だったからだ。通常、学校にしろ会社にしろ、況や大学のサークルであっても、 同窓会となれば自ずとご案内先は絞られ、後は連絡先さえ調査すればよい。しかしながらAIESECという組織の性格上、 まず各地区・LCにおいて誰に声を掛けるべきかの判断を仰ぐ必要があり、かつ公式OB会名簿は必ずしも整備されているとは言い難い。 従って、地区・LC毎に幹事を立て、現況把握から着手して貰わなければならなかった。 幸いに母数の多い3地区のうち、中部地区は卒業後も花岡道世氏(NZ)を中心に連絡体制が成り立っており、首都圏、関西の掌握が急務となった。

 同時に多くの参加者を募るためには、現在東京近郊以外に住んでいる面子の出座が欠かせない。 そこでまず各地区から時の声が挙がり、これを本HPで紹介することにより盛り上げを図るよう試みた。 3/29、河田氏が九州出張に併せ、朝雲、石井成一郎(FU)両氏との邂逅に成功したのを皮切りに、 黄金週間前後に掛け、前川氏が大阪とんぼ帰りの強行軍で4者(前川、山口恭司DO、芝村茂樹KB、松田各氏)会談を実現。関学・同志社の関西2大母体への 浸透に進展が図られるとともに、大阪会談の仕掛人でもある松田氏により、中部キックオフ会合も開催された。
 また後には大阪4者会談後の前川氏、平野秀樹氏(KO)、松尾智晶氏(DO)3者会談から花が咲き、6月に京都ゴルフ/飲み会が実現し、 前川氏、粥川が遠征。遡れば3月の粥川来名時に行われた名古屋ゴルフ会と併せ、現に首都圏以外に居住する面子の参加意欲惹起並びに、 ゴルフ参加者の拡大にも寄与することとなった。

 こうして満を侍した形で5月、首都圏・関西の各LC幹事団Mに至る。関西地区は、旧各LC委員長の大半が東京在住、 かつ木村仁一(KG)、中村亜矢子(DO)氏らを主幹に「拡大関西会」と題して、定期的に集会を重ねており、 スムーズな会合が実現したが、肝心の首都圏が存外に難航。合田隆太郎(SP)・紀子(AG)夫妻の如く、 パッケージで2LCの幹事を務め得る剛の者もいる一方で、卒業後交流の途絶えたメンバーも少なくない。 そこで幹事団が探索を開始し、まず吉田学(HS)、盛田勉(JO)両氏がLC幹事団Mに登場し、十年祭を前に十年振りのご対面となった。 この際、6月中にご案内対象者を把握するとともに、第一次案内として11/9開催を通知することが決定を見た。
 残る課題は未決定のLC幹事発掘だが、6月に入って鈴木将人氏(HI)、葛谷好弘氏(CH)と連絡が付き首都圏は完了。 一方関西も鳥羽俊彦氏(KT)の東京在住が確認された。残る宮山  氏(KN)については既にLCが存在せず、 絶望視されていたところ、京都ゴルフ会当日に前川氏が自警ボランティア組織、ガーディアン・エンジェルスの一員として制服姿で 神戸の街をパトロールする姿を読売新聞紙上に発見。 結局連絡先は把握出来なかったが、このタイミングで安否が確認されるとは幸運への福音だろうと一同の意気は上がった。

 6月に大きな進展を見たのが会場の決定である。本会議は平均年齢が30代前半に至ったことを考慮し、 ハイグレードにホテル乃至はサンケイ会館等のホールを検討したが、高価かつ映像の使用に支障が生じるため、 結局手馴れた御成婚二次会会場候補の中から飯田橋のTWIN STARを選定した。 後に当日の11/9は奇しくも小林・鈴木両家立教内夫妻の御成婚記念日であり、かつ 当日こそ御欠席ながら鈴木夫妻は当に御成婚二次会を 年前のこの日、TWIN STARで行っていたことが判明。 縁の深さを感ずることとなる。
 また二次会は、不特定多数が集まる宴会場と宿泊施設を備えた安価な会場という厳しい条件の中、 「麻雀の会」幹事長として宿泊地選定に定評のある高橋氏が、かつて同会でも利用した本郷に林立する 合宿風宿からふたき旅館を抽出、両名による下見(6/7)を経て、内定を見ることとなった。
 更に当初伊豆方面も検討したゴルフ場も、本会議・二次会が飯田橋−本郷の南北線上に位置することから発想し、 この延長線上の赤羽ゴルフクラブに白刃の矢を立てると、ゴルフとなると話が早く早速7/6に下見と称して ゴルフ主幹、補佐官を兼ねる河田氏、前川氏に粥川、加えて妻君の早期の筆下ろし機会を睨んでいた合田隆太郎氏の意向で 初ラウンドの合田紀子氏の4人でラウンド。河川敷ながら充分コンペに耐えられるとの判断の下、ここに受入体制の土台は構築されたのである。
 不見転で抑えた20名枠は他世代4氏の友情出演を仰いでも仲々埋まらず、最終的に本会議当日に北方宏之氏(KG)が名乗りを挙げ、 河田氏の奔走により楯、賞品も無事捻出され、無事19名で開催されることになる。

 夏場を迎えると徐々に一次集計の結果が集まり始める。ただ開催まで4ヶ月を擁することから必ずしも集計はスムーズには進まない。 そこで8/3に主幹事団が再集結し、各地区・LC毎の公式ルートと並行して、 個人的に親交のある人物を幹事団が個々に勧誘する個別声掛け作戦の充実、 同時に中部は松田・花岡両氏の音頭で地区一括で上京策、関西は前川氏が木村仁一氏と手分けし、 別途二次会を設営することも考慮して関学メンバーの拡大を図る作戦が合意された。 このため各LC幹事を総結集する打ち合わせは無理に開かず、粥川が定期的に各LC幹事に メールで出欠・名簿の集計、往時の写真送付依頼など、依頼を続ける方式に落ち着いた。
 なお粥川が拘った「往事の写真」だが開催が近付くに連れ、再三の催促が功を奏し形になる程度には集まったのだが、PC発プロジェクター経由の投影が 芳しからず、労多くして益少なしに終わった(右写真:投影状況)。収集戴いたLC幹事各位の労苦に報いるためにも、改めて一部を別項にする予定なたのでご覧戴ければ幸いである。

 9月の小休止を挟んで10月に入ると、通例の御成婚二次会であれば舞踏隊の練習と衣装購入に 全力を注入する時期だが、今回は踊りなし。舞踏隊は歓談時のBGVとして登場するのみとなった。 このため過去の出演作の編集、並びに参加者が開会と同時に会場二階待合室から降りて来る間放映される、 十年を振り返る約6分の冒頭V作成と、「マンゴー平田の唄の祭典」同様に粥川の孤独なビデオ編集作業となったが、 撮影が無い上に、前回がVHS機の操作だったのに対し、ソフト導入によりPC上の作業となり、 大幅に効率が改善したのは時代の流れを感じさせる。
 しかし舞踏が無い代わりに参加者の確保という大工程が残されている。そこで事前の一次連絡に基づき、参加可能性のある全員に個別に メールで出欠と名簿記載事項を確認するという突貫手法に頼ったが、当然ながら6月案内時に対し各人の当日予定が固まって来るに連れ参加見込は減少し、 当初目論見の三桁はおろか70人も微妙な状況に肩を落とす日々が続く。ところが拾う神あり、小野氏が多忙のため動けず連絡の滞っていた 北海道地区が小笠原英希(SG)、白井建史(HO)両氏の尽力で6名に、関西総括前川氏のお膝元・関学から8名という嬉しい誤算をはじめ、 東京在住者の少ない慶応勢は平野秀樹・二木恒徳両氏の画策で元NC3副委員長の勢揃いに当確ランプが付き、中部勢は当日直前のプレ十年祭企画が本格化し遠征気分を盛り立てるなど大詰めで再び上昇気運が到来、 漸く一息を付くに到った。御成婚二次会では参加回答の8割強、天候等著しく恵まれても9割という経験則に比し、 当日の本会議・二次会計参加81名と、ほぼ予想と違わぬ結果が出たのは、流石に参加確認に注力しただけあったとは 細かながらの自負である。

 そして10/20、主幹事団最後の打ち合わせが行われる。ゴルフに参加しない首都圏外参加者のオプションとしてかねてから花岡氏らが主張していた裏番企画が、高橋氏の手による「東京散策ツアー」としてベールを脱いだほか、 当日の段取りとして唯一のイベントである自己紹介シリーズを、当初の地区単位一括から全員出演に変更することも決定を見た。
 明らかに時間が伸びることは予測が出来、かつ実際に自己紹介後の歓談を割愛せざるを得なくなったのは最大の心残りであり、十年振りの再会を満喫するために舞踏をカットした意義が薄れて仕舞った。 詮無いことではあるが、一言メッセージの事前作成やら敢えて押してでも全体時間を延長させるなり対応を検討すべきだったことをお詫びするとともに、次回への教訓としたい。
 また二次会・宿泊は高橋氏が一切を取り仕切り、高山幸人(JO)、白井各氏ら準備団を編成することとなった。この後島田衛氏(SG)の提案で鏡割りプランが誕生、ふたき旅館の変更問題も大過なく解決され準備は整った。受付・会計は毎度のお務め関千春(WTC)・小坂史子(ICU)両氏、写真・ビデオは三田寺要治(SP89)、小松雅和(HI90)両氏の助力を仰ぐと配役も固まり、 更に開会の辞を担う和里田元総理の日程も整い、愈々当日を迎えることになったのである。

 幹事として参加人数に拘ったのには理由があった。それは大学卒業後、この元AIESECというフィールドから寧ろ疎遠になっていたメンバーを一人でも多く集めたいということだった。主幹事団をはじめ当時から名の売れた面々は幸い現在も様々な形で交流が続いている。
 その上で「十年祭」を名打つならば、十年振りの邂逅があり、況や学生時代に知己を得ていなくとも、偶さかに同じAIESECという名の団体に属した縁により、仕事でも、遊びでも、或いはもう可能性は少ないかも知れないが「回帰現象」でも、 この「十年祭」から新たな交流が始まっても良いのではないか。そのためには30代前半となり、これからのわが国を担うべく歩み始める今を逃しては「発掘」作業もままならなくなるし、一度名簿策定作業を行っておけばメールの存在する現代においては、弐拾年、参拾年祭も可能になるだろう。 その目論見が何処まで実現出来たかは定かではないが、幹事長としては是非また十年後には開催したいと思わせる会だった。 個人的感慨が許されるならば、それは良かったということだと思う。

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