王子界隈は昔からにぎわった場所で、その痕跡は浮世絵などでも見ることができます。
浮世絵は『紙の博物館』にも数点所蔵されています。※『紙の博物館』は飛鳥山公園内にあります。
北とぴあは北区の産業の発展と区民の文化水準の高揚を目的として建設された北区のシンボル的施設です。館内に、さくらホール、つつじホール、飛鳥ホール、ペガサスホール、スカイホール、カナリアホールなど多彩な施設を持ち、各種公演などが開催されています。以前あったプラネタリウムは、投影機本体の老朽化により2014年(平成26年)3月で投影を終了しています。最上階の17階は展望ロビーとなっており、北区の景色を一望できます。
正式名称は『国立印刷局博物館』
紙幣の国産化を目指した明治政府は、東京府下王子村に銀行券用紙製造工場の建設を決定し、1876年(明治9年)に竣工。現在の国立印刷局王子工場と東京工場(北区西ヶ原2-3-15)になります。印刷局創立100周年を記念して、1971年(昭和46年)に東京都新宿区市ヶ谷に博物館を開館。2011年(平成23年)3月、国立印刷局王子工場の一角に移転しました。
展示室では、お札、切手、証券など、国立印刷局が製造した各種製品と、明治期以前のお札、諸外国のお札や切手、お札の製造と深い関わりをもつ銅版画など、様々な資料が展示され、お札の歴史、偽造防止技術などが総合的に学べます。どんな偽造防止策が施されているのか、様々な角度から細かく見ることができます。展示案内の冊子にも詳しく書いてありますので、見学の際はもらってください。(とても良い資料です)休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)年末年始、臨時休館日
開館時間 9時30分〜17時00分
入館料 無料
【情報】
国立印刷局王子工場は見学できませんが、東京工場(飛鳥山のちょっと先です)は無料で見学ができます。所要時間は約90分。見学日は火曜・木曜の午後13時40分から(祝日・年末年始は休み)。小学生以上が対象で事前予約が必要です。電話(03-5567-1102)又は国立印刷局ホームページから申し込んでください。電話受付時間、申し込み開始日、入場には身分証明書が必要など諸々注意事項があります。
ヨーロッパを視察し帰国した渋沢栄一氏らが、1873年(明治6年)に当時の東京府下王子村に『抄紙会社』を設立し、洋紙の国内生産を開始しました。1945年(昭和20年)戦災によりその歴史を閉じますが、その後1949年(昭和24年)に3社(王子製紙、日本製紙、十條製紙)に分割し再出発しています。それまで名実ともに日本洋紙界の中心となってきた『抄紙会社』の工場創立80年周年である1953年(昭和28年)に、記念碑が作られました。
記念碑は、最初に京浜東北線の沿線に設置されましたが、後に紙の博物館の旧館の敷地内に移転。更に紙の博物館の移転に伴い、現在の場所に移転されました。
(右:歌川広重(三代)『古今東京名所 飛鳥山公園地王子製紙会社』)
“毎歳12月晦日の夜、諸方の狐夥しく、ここに集まり来る事、恒例にして今に然り。その灯せる火影に依って土民、明年の豊凶をトす。云々”
かつて王子界隈は一面の田畑で、その中に榎の木がそびえ立っていました。毎年大晦日の夜、関東八ヶ国(『関東八ヶ国』の表記は、徳川時代に幕府が、王子稲荷の平安時代から伝わる『関東三十三ケ国総つかさ』の自負に治安上の危惧をもち、扁額や幟を没収するというきわめて政治的介入を行った結果、伝承の公言が不可能になり、庶民の口に、『関東八ヶ国』と言わしめるに至った結果であると教えて頂きました。王子稲荷神社では、平安時代からの伝承『関東(=東国)総つかさ』を維持しているそうです)の稲荷の使いの狐が、この木の下で装束を整えて、関東総司の王子稲荷に参詣したと言う伝説があることから、木は『装束榎』と呼ばれ、狐たちが灯す狐火によって翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。その後明治中期に装束榎は枯れ、1929年(昭和4年)道路拡張に伴い、碑のみが現在地に移され装束稲荷の祠が建てられています。装束榎があった場所は、王子二丁目の停留所になっているそうです。1945年(昭和20年)4月13日の大空襲の際、猛烈な勢いで東南より延焼してきた火災をここで食い止めた史実があり、火防の神としても崇められています。(歌川広重『名所江戸百景 王子装束ゑの木 大晦日の狐火』)
1993年(平成5年)からは、装束稲荷の伝説に因んで、毎年大晦日の夜11時より『狐の行列』が行わています。狐のお面を被った裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩きます。しかし、ここ数年はコロナの影響で中止になっていますので、『王子 狐の行列』公式ページで開催情報を確認してください。狐のお面は装束神社前のヤマワで販売しています。
『狐の行列』にルートなどの情報を記載してあります。
御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、宇気母智之神(うけもちのかみ)、和久産巣日神(わくむすびのかみ)。創建は定かではありませんが、社記に康平年中と書かれているので、1058年〜1065年の間と思われます。「稲荷大明神」と称え奉る衣食住の祖神で、古来産業の守護神として、広く庶民から信仰されてきました。征夷大将軍源頼義により「関東稲荷総司」の称号を頂き、小田原北条氏についで、徳川将軍家代々の祈願所と定められてきました。昔は地名にちなんで岸神社と称していましたが、1322年(元享2年)に領主豊島氏が、紀州の熊野神社を勧請し王子権現(王子神社)を祀った処から、地名も王子と改まり、王子稲荷神社と改称されました。現在の社殿は十一代将軍家斉公により1822年(文政5年)に新規寄進されたものですが、1945年(昭和20年)4月13日の大空襲の際に大破しています。1960年(昭和35年)に本殿が再建され、拝殿幣殿は文政5年の作、本殿は昭和の作となっています。(歌川広重『名所江戸百景 王子稲荷乃社』)
下段左の写真は『御石様』と呼ばれるもので、境内の奥(赤く連なった鳥居の先)にあります。“願い事を念じつつ持つ石の軽重により御神慮が伺える”持って軽く感じた時の願い事は叶うという事です。左手奥には小さな『御石様』もあります。訪れた際には体感してみてください。拝殿に入り天井を見上げると関口正男筆の「鳳凰」が見れます(写真下段中央)。以前は江戸幕府の御殿絵師の谷文晁の竜の絵が掲げられていましたが、今は史料館に収められているそうです。
写真下段右は、柴田是真『額面著色鬼女図』(通称『茨木』)の書かれた絵馬です。『額面著色鬼女図』は、1840年(天保11年)2月初丑に、江戸住吉の砂糖商人・明徳講により奉納されました。酒呑童子の家来茨木童子が化けた鬼女の姿が描かれています。史料館に原画が納められていますが、普段は一般公開されていません。正月(1/1〜1/3)と2月の初丑の日には公開されますので、是非足を運んでみてください。1934年(昭和9年)9月1日に、文部省から重要美術品に指定されています。
2023年の初丑の日に御参りしましたが、ドアの明かりが写り込んでしまいました。
郷土玩具の『王子の狐』『暫狐』は社務所で買えます。
2月の初丑の日には境内で、縁起の凧を商う『凧市』も開催されます(10時〜18時)。王子稲荷が火防せ(ひぶせ)の神として信仰されるようになったのは、たびたび大火事に見舞われた江戸中期頃からで、毎年2月の初丑に「火防守護の凧守」が授与されるようになり、これにちなんで境内で縁起の凧を売る凧市が開かれるようになったとされています。
嘉永年間(1848年〜1854年 ※安政年間1854年〜1860年と書いてある資料もありました)王子村の名主 畑野孫八が、その屋敷内に滝を開き茶を栽培して、一般の人々が利用できる避暑のための施設としたのが始まりとされています。名称もそれに由来しています。1850年(嘉永3年)の歌川広重『絵本江戸土産』第四編に描かれた「十條の里 女滝男滝」が名主の滝にあたるので、それ以前の開園と考えられています。明治の中頃、畑野家から貿易商である垣内徳三郎の所有となり、栃木県塩原の景に模したことにより、さらに趣のある庭園として親しまれてきました。1938年(昭和13年)に、株式会社精養軒の所有となり、食堂やプールなどが作られ公開され続けてきましたが、1945年(昭和20年)4月の空襲により焼失。その後、東京都によって再建、1960年(昭和35年)11月から都立公園となり開園、1975年(昭和50年)4月1日に東京都から北区に移管され北区立の公園となっています。名主の滝公園には、男滝(おだき)、女滝(めだき)、独鈷の滝(どっこのたき)、湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)の4つの滝がありますが、現在は男滝のみ稼働しています。(滝が流れるのは10時00分〜16時00分。清掃日がありますので、詳細は公式ページで確認してください)開館時間 9時00分〜17時00分(7月15日から9月15日は午後18時まで。入園は閉園の30分前まで)
休園日 12月29日から1月4日まで
入園料 無料
御祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五柱で、総称して「王子大神」と呼ばれています。創建は詳らかではありませんが、源義家の奥州征伐の折、社頭にて慰霊祈願を行い、甲冑を納めたという故事が伝えられています。その後、1322年(元亨2年)、領主豊島氏が紀州熊野三社より王子大神を迎え、熊野にならって景観を整えたと言われています。それよりこの地は王子という地名となっています。徳川時代に入ると初代家康公は、1591年(天正19年)に朱印地二百石を寄進し、将軍家祈願所と定めました。本殿は徳川幕府により、江戸城天守閣を建てた木原杢之丞らを棟梁として、1634年(寛永11年)に建てられました。その後も五代綱吉公が1703年(元禄16年)、十代家治公が1782年(天明2年)、十一代家斉公が1820年(文政3年)と造営修繕されました。しかし、太平洋戦争の空襲で焼失したため、現在の権現造りの社殿は、1964年(昭和39年)の第一期、1982年(昭和57年)の第二期造営を経ての再建です。
徳川三代、家光公(幼名竹千代)の乳母春日局が、竹千代の病弱と世継問題に心を痛め、王子神社に祈願したところ、願いが叶ったという故事により「子育大願」の神社としても有名です。
1868年(明治元年)11月8日、明治政府は新たに首都となった東京を守護し、万民の安寧を祈るため、東京近郊12の神社を「准勅祭社(じゅんちょくさいしゃ)」と定めました。その内、東京にある10社が「東京十社」です。王子神社もそのひとつで、東京の北方守護として鎮座しています。
末社の関神社は、蝉丸法師を御祭神とし、理容業者により信仰されている「髪」の祖神です。【情報】
東京十社 ⇒ 神田神社、日枝神社、根津神社、亀戸天神社、白山神社、王子神社、芝大神宮、品川神社、富岡八幡宮、赤坂氷川神社
創業は1887年(明治20年)。明治からの製法を今でも続けているため(添加物を一切使用しない)、久寿餅に関しては、作ってから2日しか日持ちしません。お土産購入時は注意を。
歌川広重『名所江戸百景 王子装束ゑの木 大晦日の狐火』をお菓子にしてみたいという思いから生まれたのが「狐火の街」。漆黒の闇を餡の色で、狐火を栗の黄色で表現した栗蒸し羊羹です。甘さ控えめで美味しいです。
【商品一例(2022年9月現在)】
久寿餅(小)2〜3名用 680円(税込)※写真は小
(中)4〜6名用 1,050円(税込)
(大)7〜9名用 1,480円(税込)
久寿餅カップ 1名用 480円(税込)
狐火の街 880円(税込)営業時間 平日 9時30分〜18時00分
土・祝 9時30分〜17時00分
日曜日休み
以前は店内でも飲食ができましが、コロナの影響で当面は販売のみです。
落語の「王子の狐」は王子にあった扇屋がモデルとなっています。
ある男が王子に遊びに行く途中、田圃の中で狐が娘に化けている現場を目撃しました。男はそしらぬ顔で娘に化けた狐に声をかけ、扇屋の二階にあがります。差しつ差されつしているうちに狐は酔っぱらい寝てしまいます。それを見すまして男は店の者に、名物の卵焼きを折りに包んでもらい、「勘定は二階の女に」と言って帰ってしまいました。やがて、女中に起こされた狐は、「お勘定を」と言われびっくりし、そのはずみで狐の正体を現してしまいます。店の者は総出で狐を追い回し、棒きれで殴りつけます。狐はほうほうの態で逃げだしました。一方、狐を騙した男は、まわりの者から「狐は執念深いから、祟りがあるぞ」とおどされ、青くなります。すまないと思った男は手土産を持って狐に謝りに行きます。穴の所にいた子狐に訳を話し、手土産を渡しました。子狐が包みを開けるとボタモチが入っていました。「わーい、ボタモチだ。食べてもいいか」と母狐に聞くと、怪我をして寝ていた母狐は「およし、馬の糞かもしれないよ」というのが「王子の狐」の一席。狐の巣穴は王子稲荷神社にあります。扇屋の店鋪はなくなりましたが、卵焼きは音無親水公園の一角で販売しています。
(右:歌川広重『名所江戸百景 王子音無川堰棣』)