本書のメインアィディアであるところの、”都合のいい理論を選択すると宇宙がすごいことに”という奴は、正直言ってかなりつまらなく、そもそも肝心の万物理論についてもほとんど語っていません。クライマックスはかなり白けました。
私は人間原理って奴が大嫌いです。不可知論の親戚のくせに。特に人間原理とセカイ系が一緒になったりすると最悪。”閉じてくれ、てめぇ一人でそのセカイ、閉じてくれ!”と願わずにはいられません。そういう意味では、ラストは少しマシ、だと評価できます。
しかし本書の価値は、それ以外の部分です。
描かれた世界。あからさまに政治的立場を含んだ視点。しかしその視点が誠実で考え抜かれたものである事は、読者は誰でも理解するでしょう。政治的主張が存在するというだけで本書の提示するものを避けるのは愚かでしょう。大体、こういう場以外のどこで、本質的な、徹底した問題提起と議論が行なえるものでしょうか。SFのチカラとは、そういう部分にあるのです。
ステートレスの描写はあえて負の側面に踏み込まず、理性的な面に絞っていますが、まぁ、そのためのフィールドです。私は将来において知識の独占の問題は、合意によって満足すべき解決を迎える、いや、解決すべきであると考えています。
恐らく、将来において知識は大別して二つに分類できるようになるでしょう。オープンな知識とクローズドな知識。クローズドな知識はどんなに有益だとしても最終的には死滅し忘れられ、いかに歪だとしてもオープンな知識は公知であるがゆえに否応無しに勝利するでしょう。人類の知識には多くのエアポケットが生じますが、やがて気にされなくなるでしょう。もともと、人類の知識なんて空白だらけなのです。
文章が回りくどい割に効果的でなく、アイディアもまだるこしい割にインパクトに欠け、全般に古くさい感じがする短編集でした。
文中で描かれた状況はどれもありえないというか、微笑まし過ぎてキショイです。形容描写は、あえて死語を使いますが、とにかく非常にダサいものとなっています。お勧めしません。
しかし、こういう文章に耐性が無くなったのは、ちょっとショックでした。
こっちは、最高。
猛烈にすばらしい短編を、震えながら読む。どれも素晴らしい切れ味で、一遍に全部読んでしまうのが惜しくなります。
名作「リスの檻」は読んだことがあるような気もするのですが、初めて読んだような気もしました。そして「カサブランカ」や「国旗掲揚」の短く鋭利な有様ときたら。
「カサブランカ」でSF的アイディアと呼べるものは表面的には、アメリカが核攻撃された、これだけです。北アフリカに旅行中のアメリカ人夫妻が、アメリカという国家の保証していた様々なものを失い、どうしようもない状況の中で、状況を認知しまいとして混乱し、ぶざまに振る舞う。
外抽法。その描写、描写が可能である事そのものがSF的手法です。SFなのです。
「アジアの岸辺」は逆に鈍ったナイフで、気が付くと油絵の具を厚塗りされていた、そういう印象のある作品でした。
「黒猫」はルーシャス・シェパードを連想しました。時系列から言えば連想順序は逆なのでしょうが。「本を読んだ男」も良し。際立ってレベルの高い短編集です。
手癖で書かれた、アニメ化対応型イリヤ、という感じの作品です。第四話は温泉だし。
続きを読むのは、デストロイ風味になったと風の噂に聞いてからですね。
一言でいえばドクロちゃんの下のドジョウ、なのですが、こちらの方が文章がよりマシである文だけ、なんとも微妙な気分になりました。感嘆符の多さが逆に気になります。ツッコミの対象が減る分ノリが悪いです。あと、キャラの名前のセンスがよくわかりません。
買ってしまったのは良いけど、当分積んどかないと、まだ第一巻読み終えていないし、と思いながらパラパラとめくっていると、三値論理の話題が。
"おそらく、あらゆる記数法の中で最も美しいものは、平衡3進数である。"
旧ソ連の三値論理コンピュータ、SETUNの話題はここにもありました。あと、ポーランドで1950年代に-2を基数としたアーキテクチャのコンピュータが作られた、とか。
そういう訳で、流し読みも面白いです。肩の力を抜いて読んで、たっぷり収穫のある本です。
……しかし、こういう本を読んでると読書量が減ったような錯覚がするなぁ。ゆっくり、行ったり戻ったりしないと読めない本です。
"本物のプログラマはドキュメントをCOPY CONで書き始める"ってネタを思い出しました。本物のプログラマは直接ニモニックコードを書く、って奴です。本書はそういう、ビットシフトと論理演算が何よりも好きという変態さんのための本です。
中身はビットシフトと論理演算の話題、技法ばっかりです。レジスタ内の1の個数を調べるとか、ビット列を反転するとか、こういう小手先の業は通常縁のない技法ですが、いざという時のために憶えておいて損の無いものだと思います。特に組み込み屋は読んで損の無い内容でしょう。また、パズルとしてもお勧めできる内容です。いや、実際面白かったですよ。
……ビット操作パズルってジャンルが、あってもいい気がしますね。
文字は大きく読みやすく紙質も良いのですが、その分内容は薄めです。内容は、現代的なソフトウェアのあれこれを、その筋の第一人者が解説というものです。読者の見識の幅を広げてくれる良書であると思いますが、一回か二回読めばお役御免の内容です。
お金に余裕があるなら買い、ですが、本棚に余裕が無いならお勧めしません。
以前に野田さんに借りて読んでからずっと、欲しい欲しいと思っていた一冊ですが、現在絶版。これがなんと近場のブックオフに。
OSカーネルに関する本の中では、これが一番のお勧めです。記事とソースコードの位置が近く、相互参照にストレスが無いのが何より素晴らしいのですが、教科書的な内容でなく、現実的なトレードオフについても記述されているのは貴重です。
特にBSDに手を出したのなら、必読でしょう。
しかし、Knuthは凄いなぁ。BSDのmalloc()のアロケータはアレの中のものが採用しています。そいえば、リアルタイムOSの祖、RSX-15のスケジューラもKnuthからパクったって何処かで書かれていたっけ。
OSに関する雑多な話題、特に初期のOS史、リアルタイムOS論、OSの抱える一般的な諸問題について、そして執筆時における新しいOSについて書かれた本です。
OS史は力作です。初期OS史に興味があるなら必読でしょう。初期コンピュータ史のソフトウェアからの側面を埋めるものとして、また、OSとはそもそもどういうものだったのか、貴重な文献です。
その他の部分は、組込みシステムに関しては、基礎は押さえてあるものの如何せん内容が多少古く、業務の参考になる、という内容では無いでしょう。
そういう訳で、本書はOS史の本です。OSの発祥を調べたければ、本書は日本語では第一級の資料であると思います。
大作戦、というのは看板に偽り有り、か。ガイジンっぽい大雑把改造、日曜工作集です。
どれもかなりローテクで日曜大工に近いものも含まれます。
初心者にはお勧めしません。ハードウェアハッキングの熟練者が、ヤンキーどもの大雑把さに刺激を受けるために読む本です。この本の内容のような、イージーだけど大掛かりな代物ってのも良いかもしれません。ちっこいもの作るばかりじゃつまらない、そう思える内容でした。
最近作るモノが妙に凝りだしたヒトにお勧め。コレで良いんです。
GPLでライセンスされたリアルタイムOS、eCOSは、最も触れ易い、まともな機能を備えたリアルタイムOSとして貴重な存在です。本書はeCOSの導入から使い方まで、初心者向けにわかりやすく解説した好著です。
eCOSはPOSIX APIとμITRON 3.0 APIを備え、プライオリティ反転現象に対応した複数のスケジューラを選択可能で、ファイルシステムを含むデバイスドライバによるハードウェア抽象化を実現し、極めて高い移植性とコード可読性を持ち、専用GUIツールによる強力なコンフィギュレーション機能を持ったリアルタイムOSです。
またGPLでライセンスされているという点は、ベンダーが潰れたり買収されたりしてサボートが途絶するといったありがちな罠を回避し、永続的なメンテナンスが可能であるという点において、高信頼性システムの採用に適しています。GPLの保護は将来のいかなる変動に対しても不変に近いと考えられます。これは他の欠点を考慮しても採用するに足る長所でしょう。
という訳で、本書ごとeCOSをお勧めします。また、リアルタイムOSの勉強にも適した教材でしょう。eCOSはソースの可読性も高くオススメです。
ネットで読んだ事のある内容が多いのですが、紙が薄くてページを繰り易く、リラックスして読むのに良い本です。内容は確実にお勧めできます。
本の半ばあたりからは、ひたすらLisp最高!という話になるのですが、Lispに触れたことがないのなら、これを読むのは有益です。Lispは一度は触れてみるべき言語でしょう。
ただ、自分は組み込み屋でハード屋兼ソフト屋として、Lispが与えもたらす自由が幻影に近いことを知っていますので、内容に単純に同意を与える事はできません。でも、組み込みでも使ってみたい、とか考えています。リアルタイムOSではなく、リアルタイム言語として。
でも動的言語は組込みでは使いづらいなぁ。
XilinxのSpartan3が開発ツールと一緒に付いてきます。三万ゲートのFPGAです。30000ゲートって言ったらアンタ、簡単なCPUなら作り放題です。
というわけで、CPU作っています。メモリ内蔵、レジスタ操作の概念無し、シリアルとパラレルのインタフェイス内蔵の単純な代物。最初はSTRELA、旧ソ連最初の量産型コンピュータのエミュレータを作るつもりだったのですが、なんだか好き放題作りたくなったのです。
……でも最近、8051の勉強してるんで、なんだか影響受けそう。8051は組み込み向けの実際的なアーキテクチャで、結構面白いです。ハーバードアーキテクチャで、レジスタがメモリにマップされていて、微妙にレジスタリッチで命令リッチ、割り込みも整備されているけれども、メモリは小さく、使い方について発想の切り替えが無いと使えない、そんなデバイスです。PICなんかと比べると、背筋が張っていて思想的にゴージャスです。日本語の資料、無いんですよねぇ。
宇宙開発の歴史の中でもひときわ光り輝く珍計画、ロトンに関する本です。
ロトンはロータリーロケット社の主打ち上げ機として計画された機体です。低軌道に3トンの打ち上げ能力を持つ単段再使用型機で、しかも着陸にパイロットを必要とする有人機でした。投資家への売込みでは素晴らしく安価な打ち上げコストがうたわれていましたが、開発コストを調達できずに、モックアップに近いものを一機作ったところで、全ては終わりました。
理屈で考えれば、この機体がまともに飛行する可能性はゼロに近いものでした。降下着陸時に使う巨大なローターにどうしても注目しがちですが、問題はエンジン。機械をちょっとは齧った事のある人間なら、回転する円盤の端に燃焼室を並べるという代物がどういう問題を抱えているか、直ぐに判るでしょう。円盤は回転による遠心力で、推進剤をターボポンプ無しで昇圧する筈でしたが、まず軸受が持ちません。軸から推進剤が漏れるでしょうし、推力のスラストは致命的です。普通ならターボポンプ内のタービンブレードのみに掛かる遠心力が、エンジン全体に掛かります。応力そのものは極端なものにはならないものの、まともに作ればエンジンを浮かせる推力すら期待できないような重さになります。
実際には、ロータリーロケット社の状況は最初から酷いものでした。起業家ゲアリーは魅力的なところはあるものの、夢のために現実を都合よく無視する習癖のせいで、幾度となく夢に破れてきた男でした。彼は今回も飛躍しすぎました。
彼の魅力的なプレゼンは資金を集めますが、それは機体を開発するには不十分でも、何かをするには充分すぎるほどの額だったのです。こうして彼の、ぺてんすれすれの夢想は離陸しましたが、結果は見えていたのです。
彼は我々に、夢を見ることの愚かさをたっぷりと教えてくれます。彼は、私のような無想家、宇宙に取り付かれた社会不適合者の見本のような男です。この本の中に描かれた、彼の生活、習慣、言動などはいづれも負の側面を強く浮き彫りにしています。切なさに、泣けてきます。
自分は、彼よりもうまくやれるか。
彼の愚かさをたっぷりと思い知った後でも、私には進む道は一つしかありません。泣けてきます。
「懲りない挑戦者」繋がりで本書を読み返しましたが、”未来がすぐにでもやってくる”という雰囲気に圧倒されました。1996年には単段再使用型打ち上げ機デルタクリッパーDC-Yが軌道投入されている筈だったのです。
単段再使用型軌道投入、SSTOは可能なのでしょうか。私は可能だと考えます。但し、それは有人惑星間飛行よりも難しく、化学燃焼エンジンを使う限り経済的にペイしない、と思っています。
要するに、今はやるだけムダです。
簡単に説明します。再使用機は再突入の必要があります。軌道上で自機が持っている軌道速度を、最終的にゼロにしなければなりません。これを経済的に行なうには、大気制動を用いるほかは無いでしょう。但し、大気制動のほとんどの行程では翼などの空力学的部品は必要ではありません。進行方向に正対する断面積と、速度が熱に変換される、その熱に負けない機体が必要なのです。
速度がマッハ6以下になると空力学的特長が絡んできます。翼はこの時まで無用の存在です。ロトンの回転翼も。ただ、高度ゼロ時に機体の速度もきちんとゼロにならないといけないので、この手の装備は必須です。パラシュートでも逆噴射でも良いのですが、当然ですがこの装備重量は機体重量に比例します。再使用機は必ず、この装備重量を丸ごと軌道まで運ばないといけません。
再使用機は必ずこの機体重量に関するペナルティを負います。当然ながら構造重量比は使い捨て機とは比較にならないほど悪化します。極端な例ですが、RVT-9の初期重量/最終重量比はわずか1.1程度しかありません。デルタVはわずか500メートル程度、減速着陸分を考えると大幅に減ります。
デルタVは推進材を液酸液水からケロシンにするだけで倍以上になります。この辺りも、再使用論者の理屈を疑う根拠です。液酸液水を選ぶ限り、単段再使用機は構造重量比の重いペナルティゆえに実用化できないでしょう。
……ま、ケロシンでも、どう考えても打ち上げコストがペイしないペイロードとサイズのものしか作れません。
これらは全て、計算すれば出てきます。
自分で確かめてみましょう。
旧ソ連における政治囚、反体制運動家、民族や宗教を理由に迫害された人々、不当な扱いに抗議しただけだった筈の人々、罪なき人々がソ連国内で置かれている状況について1975年に出版されたものです。
出版したのはアムネスティ・インターナショナル。私はソ連最高のハッカーと見なしている人物、V.F.トゥルチンの活動を追う意味で本書を手に取りました。トゥルチンは1974年にアムネスティ・インターナショナルソ連支部を創設したメンバーの一人です。
ソ連において、犯罪者や俘虜が置かれた境遇には3つのケースがありました。
まず、人権に対して考慮されたケース。例としてはドイツから連行されたロケット技術者があります。
ついで、人権が無視されたケース。ソ連ではこのケースが大半を占めました。これには旧日本軍兵士のシベリア抑留も含まれます。
最後は、人権を意図して踏みにじるケースです。本書の内容はここに属し、実体は悲惨の一言に尽きます。
「三番目の懲罰手段をわれわれは”締め上げ”と呼んでいたものです。湿ったカンバスの長いやつを使うんですが、患者を頭のてっぺんから足の先まで包み込むんです。きっちり巻くので息をするのも苦しい。カンバスが乾き始めるとだんだんきつくなって、ますます苦しくなる。それでもこの懲罰は割合注意深くやられていましてね、やっている間、医師がいて患者が意識を失わないように見ているんです。脈が弱まってきたらカンバスをゆるめるんです」
この中の患者とは、特別精神病院に収容された政治犯です。彼らは多くはこじつけで、場合によっては根拠なく、精神疾患を患ったとみなされ、医学的手段に見せかけた拷問で”矯正”されました。
ソ連では建国以来、国家に対する反逆に対する為ならば、いかなる手段も正当化されるとみなしてきましたが、1960年に刑法をはじめとして諸法律が整備され、西側に準じる程度まで制度的には整えられました。いかなる犯罪者も最低限の人権は保障され、法の保護に置かれるとされたのです。
しかし実際には法は無視されました。行政は極めて恣意的に法を解釈し、そして無視したのです。
悲惨だ、可哀相だ、そんな感想の向こう側、問題の根本には法の無視があります。
日本はソ連とは違う、そう思ってはいませんか?。
三権分立など実際には存在しない日本でも、いつ行政の暴走は起こってもおかしくないし、実際、合意無き強制力の執行は非常によく行なわれています。
システムの振る舞いについて、もっと注意を払うべきでしょう。巨大システムはいつ暴力装置になってもおかしくありません。そのために、注意深く他の事例を学ぶのです。
前述のトゥルチンによる、科学史をメタシステム移行という概念で捉えた、一種の哲学書です。上巻は素人哲学じみた進化論のまとめで、ロシア宇宙哲学の片鱗を垣間見る以外は、フーンといったところです。
しかし下巻は特に数学史に的を絞って、まぁ自分が詳しくないこともあるのでしょうが、読ませる内容でした。
メタシステム移行とは、下位のシステムによって構成される新しい上位のシステムを、進化の階梯といった見方から捉えたもので、昔の進化の見方でありがちだった、進化を複雑さの突端のみで起こる現象だとする考え方なのですが、所々に興味深い見解が示されていて面白かったです。例えば、新しい理論はより”ダイナミックな”つまり将来の応用発展がより豊かであるもののほうが歓迎されるという見方をトゥルチンは示しています。
本書は、ソ連では発禁になりましたが、内容そのものは無害なもので、単にトゥルチンに対する嫌がらせだったのでしょう。自分としては、専門であるプログラミング言語とメタコンパイラの著作を期待したいのですが……どうなのでしょうか。
本書は林穣治さんにお奨めいただいて知った本です。ネット古書店、初めて使いましたが問題なく入手。
1976年に出た岩波の新書です。現在入手は難しいと思いますが、読む価値のある本でした。
1960年代、ソ連の経済成長にははっきりした翳りが見られるようになります。40、50年代の偏った資源投入による強引な経済成長は、やがてさまざまなつけを支払うことを要求することになります。また、官僚お手製の経済計画は経済規模の拡大によって、細部のほころびが致命的なまでに影響するようになりました。
労働価値理論を価値観の根底に置き、自然やサービス、ソフトウェアに価値を認めないマルクス経済学は、既に近代的な社会主義経済に適合することが難しくなっていたのです。代わってオスカー・ランゲやカントロヴィッチによって計算による価格決定、つまり価値決定の理論が提唱されますが、マルクス主義者たちはこれを弾圧しました。しかし、現実を危機から救うには何かしなければならない事は明白でした。
グルシコフは1964年に全国家経済自動化システムOGASを提唱しました。OGASはソ連全土におよそ200のノードとそれを繋ぐコンピュータネットワークを敷設し、更に各ノードから企業や様々な組織体に設置されたコンピュータをネットワークで繋ぐことによって、国家規模で即時的な生産調整を行おうというシステムです。
OGASに接続するコンピュータは初期でおよそ四千、最大で二万台にも上る規模が想定されていました。コンピュータは生産現場や流通の現場に設置され、需要を収集し、計算し、供給をリアルタイムに調整するのです。コンビニのPOSシステムを国家規模で展開したもの、と言えるでしょう。グルシコフは数百個所に及ぶ綿密なリサーチによって、ハードウェア面だけでなく、ソフトウェアとサービスの面でも自信を持っていました。
OGASが実現していたならば、いわゆるソ連の経済破綻は著しく時期を遅延していたでしょう。20世紀中に破綻することは無かったであろうと予測します。ソ連の経済力が一時的にもアメリカを上回った可能性すらあります。
しかし、計画は実現しませんでした。
フルシチョフ失脚によって、ソ連の政治は一気に保守化しました。OGASは確かに党で推進を決議されたのですが、何故か実現しませんでした。官僚と委員会は嫌がらせのように妨害を行い、反宣伝を行い、うやむやにしたのです。
キエフにすっ込んで企業向け生産自動化システムだけをやっていろ、と申し渡されたグルシコフは、キエフでASと呼ばれるシステムを実用化し、成果を挙げました。150万ルーブルするASを導入しても、在庫と出荷の最適化で、公式には3年、実勢で1年以内に元が取れることを示したのです。しかもASはネットワーク機能を持っていました。関連企業にもASが導入されれば、調整が自動的に行われるというのです。
深刻化しつつある経済停滞の中でASは評判となり、グルシコフは再びOGASの導入を呼びかけるようになります。この時期までずっと、グルシコフはKGBによる絶え間ない嫌がらせに悩まされていたようですが、彼は忙しく活動し、遂に第24回共産党大会で、明言こそ避けられたものの明らかにOGASを指すものの推進がうたわれたのです。本書はその直後に発行されたものです。
グルシコフは本書の中で価格決定については注意深く言及を避けています。議論の焦点を避け、需給調整に絞った議論を行っています。また、情報のやりとりそのものの価値も強く認めており、ネットワークの参加者が様々なアイディアを交換するという記述から見て、OGASはメッセージ交換機能を標準で備えていたようです。ネットワークトポロジは単純でしたが、当時グルシコフが手がけたDubnaOSのネットワーク機能などから類推して、相当のプロトコル及びアプリケーションの成熟が背景にあったと想像します。
本書は、従来のソ連に関する根拠のない先入観を書き換え、多くの洞察を与える本として、お勧めできる本です。本書が目的としたものは失われましたが、内容の意味するところは全く失われていません。
結局、OGASは実現しませんでした。このすばらしい改革を実施するには、ソ連はもはやあまりに硬直化し過ぎていたのです。
行列式も勉強です。というか復習です。もう一度物理シミュレーションに取り組むために、基礎からのやり直しが必要だと判断したのです。……だって鳥頭だもん。
本書は主にプログラマに向けて、基礎から応用まで、特に様々な躓きそうな部分に大幅な紙面を割いて、丁寧に解説した、行列式演算の学習書です。
ただ、基礎部分は冗長で、サンプルソースコードが示されていません。サンプルソースが出てくるのは中盤の応用からです。正直に言って、初心者にはお勧めしません。経験者には前半は不要です。
本書は多分、”理解がよくできていない経験者向け”というよくわからない読者に向けた本だと思うので、それ以外の読者には割り切りが必要でしょう。
ついでに確率の勉強もやり直そうと思って本棚を漁っていたのですが、あると思っていた教科書がありません。もしかして自分、高専でやらなかったんだっけ……
という訳で今更ながら勉強です。現在ベイズの定理まで。
本書は割りとさっぱりした書き方で、なおかつ要点を外さず、目的をはっきり持った記述がされた良書だと思います。他書はわかりませんが、お勧めできる内容ではないかと思います。
なんとなく、昔OJT用に作った教材に似ているなぁ、と思って購入。
ビットの操作、データの扱い、アルゴリズムなどを学ばせるには、グラフィックを操作させるのが一番です。ビットマップに円を描かせるだけでもよい練習問題になります。グラフィック処理は成果がすぐに見え、適切な題材に事欠かず、学習者の自発的な学習意欲を掻き立てる素材です。自分は自作のWin32APIネイティブ、DIBSectionを使った教材環境を作りました。
本書ではBorland C++Builderの使用を前提としています。バージョン3以上ならまず問題無いかと思われます。この方法はソフトウェア購入分の敷居がある訳ですが、その他の敷居は確実に低くなります。まぁC++Builderは普通にお勧めですし。
本書の目的はグラフィクス操作全般に関しての学習です。プログラミングの学習が目的では無いので、自分の目的には適しません。が、普通に興味深い内容でした。DCTやウェーブレットの記述は短いのですが、良かったです。ファイルの扱いなど環境依存の説明が多く、無駄に思える部分も多いのですが、初学者には丁寧な内容でしょう。
さて、本書を真にユニークなものにしているのは、失敗した萌えキャラ風味の挿絵たちです。これが実に良い感じです。糸目涙目でえらく貧乏くさいマスコットキャラの多彩なカットが添えられています。いやー、糸目の萌えキャラなんて初めて見ました。やる気の無いアホ毛と併せて、素晴らしい癒しを感じます。
萌え学習本の新境地として、その筋には一読をお勧めします。
本書は国際宇宙ステーション計画への日本参加部分の技術的側面について解説した本です。
生命維持という根幹技術に大きな穴が空いた本書の構成は、まるで、エンジンについての記載のない自動車技術の本のような、歪なものですが、多くのものを費やして得た成果として、大事にしなければならないものでしょう。但し、全体への参加が無かったために当然ですが、内容は各所に捻れと歪みを含んでいます。本書の中にある技術評価は、日本が手がけたもの以外はどこかおかしいです。
国際宇宙ステーション計画の終焉が見えた現在、日本の有人宇宙開発の方針が空白どころか逆噴射している現状は、情けないの一言に尽きます。将来を見据えるために、到達点を検証する事をお勧めします。
ようやく第二巻読破。訳の酷さに目眩がしそうだったものの、終盤はちょっとおもしろかったです。
二巻目のコアは、機械を導入すると労働者の数と熟練工を必要としなくなるため、雇用側は少人数の低技能労働力に雇用を切り替えるという話でした。これは多くの実例を、その多くは非常に悲惨な例を挙げて説明がされており、説得力があります。実際、この部分には疑問を差し挟む個所は感じませんでした。
但し、現代日本の労働事情は、19世紀イギリスのものとは相当に違います。
かつて戦前日本でも、家内制手工業から工場労働への切り替えがありましたが、その際の雇用減少は好景気がカバーしました。しかし不景気がやってくると田舎は悲惨なことになりました。
戦後日本ではずっと巧くいきました。新規設備導入のサイクルは全体として従来の雇用を次第に減らしていきましたが、好景気が他の業種を創出し、更に公共事業投資があぶれた低技能労働力を吸収したのです。
しかし、やがて導入設備の高度化は一変して労働者の技能を必要とするようになります。現在はこの段階が進行した状況にあたります。つまり高度技能者の需要は強くなり、低技能者には仕事がない、という状態です。
将来においては更にこの状況が進行するでしょう。高度技能者なんて、労働者人口のうちのひと握りに過ぎません。他は取り替えのきく低技能労働力か、無職かしかありません。大学を出ようがどうしようが、複雑さを増す生産システムの中で、その複雑さに対処できる技能を持たなければ、居場所はありません。
これらは近い将来、いや現在すでに問題となっており、対処が必要であることは明らかです。
対策としてはまず、教育があります。目的は、複雑な産業システムに対処可能な労働者の育成です。そのためには理数、特に数学の能力向上が必須でしょう。数学は、複雑さに対処する基礎的な能力、抽象化能力を与えてくれます。
しかし、各個人の能力が向上しても、それを受け入れる求人はあるものでしょうか。
現在の我々の生産能力は、需要の要求するものの遙か上を達成することが可能ですが、実際の生産は需要や原材料供給に抑制されています。要するに、生産力は過剰なのです。雇用には生産が必要ですが、同時に需要も必要です。生産を増やすには、需要を増やさねばなりません。
資本主義社会の中にいる限り、ゼロ成長は問題外です。我々はもはや、ゼロ成長の未来像を受け入れることが不可能な段階に達しています。需要は増やし続ける必要があります。しかし、限られた資源の中で無限に需要を増大させることは可能でしょうか。
それはまず、何を消費するかによります。システムが完全なリサイクルを達成すれば、エネルギーの投入次第で、限られた資源の中でいくらでも消費が可能になります。猛烈に使ってリサイクルする訳です。またサービスは基本的に要求する資源が少ない事にも注目すべきでしょう。つまり、サービス中心の閉じた消費社会の実現です。また輸出もサービスが中心となるでしょう。
これを実現するのは、環境に負担が少なく、資源の消費も少ない、大出力のエネルギー源です。
……という結論なんですが。
本書は著者の経験を通して、国際NGOや国連PKOといった、現在の国際政治の新しい、そして恐らくは真の当事者について述べるものです。
本書の視点は現場から、経験から、個人的な視点から述べるものであり、個人的な感想を全く隠していませんが、それ故に強い説得力と、そして危機感と切迫感を伝えるものとなっています。
私は、本書の主張をとにかく一度、完全に受容して考える事を強く勧めたいと思います。本書の内容は高所からグローバルな視野を与える事も論理的な意味を与えるものでもありませんが、結局のところ既存のそんな奴はみなごまかしだと強く感じました。勿論、私の勉強不足故に、ですが。
私は本書に、強い希望を感じました。新しい視点と、そして来るべき新しい動き。古臭い地政学と国際政治の理屈を、新しい現実で押しつぶし、塗り替えていく希望です。
デザイン系の本などを読んでいると良くでてくる言葉なので、きちんと押さえてみようと思いました。
本書は、1919年から1933年のバウハウス、デザインの背景となった機関、制度、コミュニティの歴史書です。歴史、特にドイツのワイマール共和国からナチスドイツへの流れを背景として、柔軟に変化する教育機関、芸術工房の思想的変遷をわかりやすく説明しています。バウハウスの成し遂げた事柄は驚くばかりです。
しかしその分、デザインなどの成果の分析などが割を食っています。デザインそのものに興味がある場合には、ちょっと物足りない気分を味わうことになるでしょう。
本書を読むことにより、現在のデザインの状況はより鮮明になります。特に教育がバウハウスの活動範疇から出ていないことが、現在のデザインの貧困と豊饒のアンバランスを生んでいることがわかります。
現在、ヒトが生み出す様々なものに対して、生産技術に踏み込んだデザインが行われることは極めて稀です。せいぜいが素材に対するデザインの適応止まり、繊維など一部を除けば加工技術には驚くほど無頓着です。
内部が見えないものはデザインをする価値がないという考え方も一般的です。私はこれに強く反発します。ヒトの作るモノにはすべからく美学が必要だと思うのです。
ソフトウェアのユーザインタフェイスデザインでも、旧来の考え方は見たり触ったりできるものに留まり、モードや振る舞い、規格といったものをデザインと見ていない節があります。フローやプロジェクト、サービスもデザインの対象外のようです。
もし、旧来のデザインに改革がなければ、ソフトウェアの、ハッカーの美学由来のデザインがやがて優越するだろうと予測します。
良書です。ものを作る人全てにお勧めします。
本書は、主にソフトウェアを含むようなシステムについて、ユーザインタフェイスとその振る舞いについて、どう考え、どう構成すべきかを非常にくだけた、簡潔でわかりやすく論点を押さえた文章で論じた本です。
現代において、ハードウェア、ソフトウェアの別なく、デザインは複雑さに対処するための手段となっています。使いやすさ以前に、デザインはモノをまず使えるものにしなければならないのです。
本書の前半で、基礎となる考え方について押さえたら、後半でそれを批判的に実践する事をお勧めします。私は本書の中で述べられている幾つかの事柄、例えば表示画素数を可能な限り最大限に維持するという原則、等には賛成しかねますが、そこに至る考え方、方法論の一貫性には最大限の賛意を示したいと思います。
我々はもっと、良い物をつくることを考えなければなりません。ここには、我々が新たに規範とするべき美学と知恵があります。我々はよく学び、実行するに耐えないクズを駆逐しなければなりません。これは作り手に科せられた、美学の命じる義務です。
戦後日本のインダストリアルデザインから88品目をピックアップして、デザイナーと開発の経緯を短くまとめたコラムと共に紹介する良書です。モノつくりにとっての、戦後の日本史があります。
スバル360やスーパーカブなどの、誰でも知っているようなデザインだけでなく、知らなかったデザイン、知らなかったデザイン史を多く知ることが出来たのは収穫でした。また、しょうゆ注しやコンセントタップのような、生活に埋没して気に求められないようなモノについて、きちんと評価されているのが素晴らしいです。本書はデザイナーだけでなく、モノつくり全てにお勧めしたい本です。良いデザインのモノを作りたい、そう思うことは何よりすばらしい事の筈です。
残念なことがあるとしたら、現在に近づくにつれて、デザインから魅力が失われてくることでしょう。良いデザインも多いのですが、デザインに無駄が見られるようになっていくのです。機能がまるでオマケのような代物や、全部無駄のような代物もあります。何故こんなものを選ぶのか悲しくなります。世の中、良いデザインはいくらでもあります。しかし、本書に選ばれたデザインが良いものかというと、それは別の話になります。
関連して特徴的なのは、ソフトウェアデザインがほぼ皆無である点でしょう。最後にウェブサイトが紹介されていますが、これはサイトそのものではなく、そのサイトを会したデザイン活動を取り上げているだけなので、実際、評価していないものと同じです。
もはや日本の既存デザイナーは、現代的なプロダクツをデザインする能力を失っているのではないか、そう考えます。ボタンがモードを持たなかった頃の方法論しか持たないために、ステートマシン的な複雑さに対処できていません。複雑なモノをデザイン出来ない、というのは致命的です。
あと、本書そのものも、デザインのツメの甘さが目立ちます。ページ下部に、その時代それぞれの事件やデザインを紹介していますが、写真と説明が離れすぎていて苦痛を感じます。ページの端には目盛りのようなものがあり、そのページがどの年度に属するのか示しているようなのですが、数字が打ってある訳でもなく、小口でもごちゃごちゃして視認性が皆無に近く、役に立ちません。表紙の端に並べられた品目と対応がついていれば良かったのですが、対応していません。並べ方を少し工夫するだけなのですが。デザインはちょっと格好良いのですが、無駄です。
作り手がデザインする、それが一番です。ゆえに、作り手にお勧めします。
いや、眼鏡でしたから。
からっと明るい表情でぱんつ見せ放題のめがねっ娘だらけな本です。なんというか、ちと頭悪そうです。そういう意味では、メガネスキー向けではないと思います。
委員長。委員会。学校のそれはイヤイヤとやり甲斐の間にあって、それは子供が最初に経験する責任なのかも知れません。
かわええ。どいつもかわええ。でもありえねぇ。戯画化され過ぎて、旨みがない感じです。
斑目が愛しいです。いや、笹原も荻上も、朽木も愛しいのですが、斑目は別格でしょう。幸せになって欲しいけど、幸せにはなれない宿命なんだろうなぁ。オタだから。
アニメの出来がいいもんで、つい。こういうの買うまいと思っていたのになぁ。
短いコメディ連作ちょっとラブコメ風味、という良作です。一読して魅力はあまり感じなかったのですが、後で妙にハマります。キャラクターが多く、キャラ単体でなく関係や背景で魅力を構築しているためでしょう。
女の子は可愛く、そしてヤローも可愛いもんです。ストーリィでなくノリ優先の展開は背景を深読みさせ易く、簡単に妄想の温床となります。絵柄は漫画的表現が多く、ちょっと古臭くすらありますが、バランス良いです。
こがわみさきの新作は連載で、帯によるとコイバナ、の筈なのですが、なんか微妙なのばかりです。
おとぎの国のお姫様と呼ぶには等身大過ぎて、不思議ちゃんと思うには浮き過ぎていなくて、そんな少女と、どっこうどっこい似たような連中の、現実からほんのわずか遊離して、でも幻想にはほど遠い、本当に微妙、としか言い様のない雰囲気のある物語です。ノリ良いなぁ。
二冊同時、いや、単行本化という作業は判るのですが、うーん、溜まってたんだなぁ、と。
溜まっていた分はこっから駄々漏れになる筈です。今はまだ抑制があります。
というか、自分はまだウルフウッドが死んだ事が飲み込めていません。ウルフウッドは、ベルナルデリ保険協会の姉ちゃんズに代わって、いかなる環境でも主人公に随行可能なツッコミとして導入されたキャラとみなせる訳ですが、その理屈から行くと、多分、これから姉ちゃんズが大活躍する筈ですね。……そうなって初めて、ウルフウッドの死が飲み込めるようになるでしょう。
地獄とはすなわち血の中の狂気。深紅のビロード張りの、悪鬼の玉座。
相変わらず薄い七巻目ですが、もうここで人間の出番打ち止め、って内容です。血まみれ展開もようやく狂い咲き新章へ。