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中国のファミコンクローンハード -2007年3月26日(月)21時19分


秋葉原では500円くらいで、ファミコンのクローン機を買う事ができる。中をバラすと、カートリッジスロットの付いた基盤に、黒い光沢の無い半球状のチップがあることに気付く。カートリッジスロットからの配線は全てこの部品に結ばれ、更にここからビデオ出力とジョイステックポートに線が出ている。他の部品は、ビデオ信号生成用のものを除けば殆ど無い。

この部品の黒く盛り上がったエポキシのモールドをやすりで削っていくと、四角に並んだ金属光沢の点々が現れる。ボンディングワイヤだ。このモールドの下にはシリコンが裸のまま転がっており、ワイヤは基板にはんだ付けされている。要するにこのチップを作ったメーカは、基板にチップを載せモールドして、基板ごと出荷していたのだ。

このチップの素性を窺い知る事は難しい。しかし、あれだけ作っていれば素性もどこからか漏れてくるというものだ。


1980年代の、初期の台湾及び中国製クローン機は、このようなワンチップ専用デバイスを使わず、ファミコンの回路構成そのままに製造された。これらは主に教育ソフトを実行する学習用として作られ、一時期多くが製作されたが、一過性のブームとして終わった。しかしこの経験がその後の中国における組み込みマイコン利用の始まりに繋がったようだ。

例えばこの機種などは台湾UMC製の高速版6502(UM6527)やら周辺ICやら、要するにファミコンクローン製作キットを山ほど使っている。HA6527というロシア製互換品の載っているクローンも存在している。UMCはその後もファミコンクローン用チップの供給元として活躍することとなる。

ワンチップファミコンが出現するのは1994年、台湾UMC社が最初に実現したらしい。確かに探してみると、UM6561という名前が見つかる。80PinQFPパッケージだったようだ。時期的に見てこれが最初のワンチップファミコンだったらしい。1996年には中国でスペックシートが出回っている。つまり中国本土での生産はこの頃には可能になっていたのであろう。ロシアのクローン機でもUM6561が採用されたようだ。6578,6582も元はUMCの開発した石であるらしい。まさにUMCの黒歴史である。

UMC社は1995年に自社独自製品の製造を止めて、他社企業製品の製造を受託するファンウダリへと方針を転換した。


NOVATEK(聯詠科技 http://www.novatek.com.tw/)社製品の抹殺されたラインアップとしてNT6561,NT6578,NT6582といったワンチップファミコンの系列が存在する。同様にSino Wealth(http://www.dycmcu.com/sinowealth/)社にもSH6578という抹殺された製品があったらしい。NT6578とSH6578はコンパチであると思われる。これらの企業はUMCから技術供与を受けてワンチップファミコンを製造したとみられる。

確かにSino Wealth社のSH66/67/69XXシリーズのラインナップは怪しい。中国独自のSH6610C(もしくはNT6610C。NOVATEKとSino Wealthは相互にライセンスし合っているようだ)というコアを使った、便利そうな4bit組込みCPUだが、これは確かに抹殺されたSH65XXシリーズの存在を伺う事が出来る。

恐らく、主要なワンチップファミコンは皆このシリーズを使用していると思われる。うちNT6561は小霸王などの初期の代表的なクローンに使用され、380万個以上も生産されたという。価格は一個10元以下であるから、150円程度である。これにビデオコントローラと音源、VRAMもワンパッケージに積載されている。

ある程度のスペックが判っているのはこのNT6561である。NT6561は5V(4.7〜5.2V)で駆動し、80mAを消費する。ビデオコントローラはファミコンのものと違い、NTSC/PAL双方のビデオ信号を直接生成する。NTSCとPALの出力は、I/Oピンの一つをVCCで吊るかGNDに落とすかで決定される。メインクロックは26MHzとあるが、実際には21MHzで使用されたらしい。

ファミコンでは、CPUがカートリッジ内のROMにアクセスするバスと、グラフィックコントローラとVRAMに接続したバスの二系統のバスが、カートリッジスロットに接続している。従ってワンチップファミコンでは、一つのデバイスに2系統のバスが出入りする、珍妙な構図となる。内部ブロック図を参照されたし。

例えばここで会員になればデータシートをダウンロードできるようになるようだが、一体どうやったものか。

NT6561はメインRAMを積載していないから、外部にRAMが必要である。この製品で使用されているのがNT561だと思われる。ジョイパッド型Nin1クローン、SUPER JOYに使用されたのも同様であろう。NT6578ではこのRAMも混載され、更に独自のメモリマッパを搭載した。1MbyteのROMを内蔵したかもしれない。これでNin1ファミコンクローンの製作は極めて容易なものとなった訳だ。こいつら一体何作ってんだよ。

液晶付き携帯型ファミコンクローン、GameAxeに使用されたのはNT6582である。The Birth of the Game Axeによれが、GameAxeが開発されたのが1995年、液晶を安価なものに換えた次のバージョンが出たのが1997年、この頃入手できたのがNT6578もしくはUM6578であったらしい。記事中にあるNMOS 6582とはコモドールの音源チップであり、これは記事の間違いであろう。NT6578は100Pinデバイスで、GameAxeのPCBを見ると、NT6582は普通のPQFPパッケージらしい。

さて、手持ちの2004年とPCBにエッチングされた基板の石は一体何であろうか。あの特徴的な黒エポキシのぽってりモールドは、日本でワンチップファミコンが出回った頃からの定番であったが、どういう経緯で生まれたのかは不明である。


ちなみに教育用ファミコンクローンは現在でも堂々と生産、販売されている。クローンゲーム機は液晶を使用したものに主力は移行したようだ。ゲームボーイミクロのように見えて中身はファミコン、そんなお茶目なパチモンが出回っている訳だ。もしかすると将来、液晶ドライバを内蔵したワンチップファミコンを見かける羽目になるかも知れない。



ヤンゲルともう一つのソ連宇宙開発史#5 -2007年3月25日(日)22時28分


ヤンゲルは更に、極軌道に40トンを投入可能な超大型打ち上げ機、R-56を構想した。当時のコロリョフとチェロメイのソ連内での月競争を有害と見なしたヤンゲルは、代替案としてこれを提示したのだ。

R-56はまずR-16を束ねた、鉄道輸送可能な形式として検討された。次いでR-36をベースとした形式になり、最終的には後のZenitの原型となった形式を束ねたものとなった。バージョンによってR-56は全高65mから100mまで変化した。エンジンは基本的にはチェロメイのUR-500/プロトンと同一のものだった。しかし最終的にR-56の設計は束ねない単一構成に傾く事となる。これはウクライナの工場から黒海へと、更にヴォルガを遡上してカスプチン・ヤールまで船舶輸送可能なように検討された。

だが、代替案にしては、R-56は魅力に欠けるものだった。月を目指すのに2基が必要であったし、競争を三つ巴にすることは到底望ましいものでは無い。R-56はきっぱりと拒否されて、ペーパープランとして終わった。

R-36は1971年に近代化バージョンと入れ替えられた。グルシコの新エンジンは従来とは桁違いの高圧燃焼を可能とし、ようやくジンバル首振りを実用化していた。サイロからの打ち上げ方式は狂気の沙汰のようなコールドガス打ち上げとなった。サイロから空中にガス圧で放出されて、そこで一段目エンジンに点火するのだ。更にウクライナ製のオンボードコンピュータ搭載で高精度ディジタル誘導が可能となり、MIRV弾頭を搭載した。Tsyklonもこれに合わせてアップデートした。

ヤンゲルは1971年10月25日、60歳の誕生日に死んだ。その後ユージュノエ設計局はグルシコの宇宙開発支配体制の中で、Zenit打ち上げ機の開発製造を担当した。ソ連邦崩壊後はボーイングやエネルギヤと組んでシーロンチ社に出資、Zenitを打ち上げている。

R-12は2300基が製造され、1989年にINF軍縮により引退した。但し同年、イランにR-12の技術が売られたという噂があり、イランはこれを否定していない。R-16の引退が一番早く1974年である。R-14の移動型は1970年代に引退した。サイロ型は不明である。恐らく11K65Mコスモスの製造終了と期を同じくするだろう。

最後のR-36は第二次戦略核兵器削減条約に従い、2007年末に引退予定である。但し実際には価格破壊打ち上げ機"Dnepr"ロケットへの転換である。第二次戦略核兵器削減条約に不満を持つロシアとしては、ペイロードを弾頭に載せ代えるだけで再配備可能なDneprが落としどころなのだろう。Tsyklonの引退も近いと思われるが、アップデートの噂も存在する。

11K63コスモスは1977年に引退したが、しかし11K65Mコスモス打ち上げ機は今日も現役である。


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ヤンゲルに宇宙開発への夢や愛はほとんど感じられませんでした。宇宙機に興味を持っていないし。コロリョフが嫌う訳です。それでいてコロリョフらへの対抗心だけは一丁前にあるのが何とも。



ヤンゲルともう一つのソ連宇宙開発史#4 -2007年3月25日(日)00時50分


1961年10月、ヤンゲルらの宇宙計画は再出発した。1960年8月にR-12を使った宇宙ロケットの開発と10機の小型衛星の打ち上げが正式に決定していた。R-16の開発の遅れから、R-12を使う方向へと再度方向転換していたのだ。転換の理由は例によってエンジンである。グルシコの新エンジンRD-109/RD-119を二段目用として使う目処がついたからだ。

この機体は63S1と呼ばれた。射点はカスプチン・ヤールのR-12用サイロを流用することとなった。二段目をサイロの穴から突き出させた珍妙な構図で、ここから計40基が打ち上げられ、うち28基が成功した。

1961年10月27日、最初の打ち上げが行なわれた。搭載された衛星はDSと呼ばれた技術試験衛星で、ウクライナ製だった。R-12がウクライナ製だという事、ウクライナの強い開発支援があったことを考えると、ウクライナこそ世界で三番目の、衛星を打ち上げた宇宙開発国家だという見方もできるかもしれない。勿論当時のウクライナは主権の多くを持たず独立国家では無かった訳だが、宇宙開発の主体が国家のみであった時代が終わった現在、ウクライナの宇宙開発の歴史上の位置は再考されるべきかもしれない。

最初の衛星は機能不良であった。12月21日の二度目の打ち上げでは、二段目の燃焼時間が足りずに、上段は千島列島に落下した。

この二度の失敗を受けて、不具合調査が行なわれた。R-7の高コストと独占状態に対する危惧から、この打ち上げ機に失敗作という烙印が押される事は無かった。ヤンゲルには宇宙開発に対する情熱や意欲は無く、ただ軍に、コロリョフに代わる宇宙へのアクセスを提供しようとしていただけであり、それが軍に好印象を与えていた。様々な改善提案がなされたが、基本的には何も変わらなかった。

1962年3月16日、遂に打ち上げは成功した。315kgのDS衛星はCosmos1と命名された。以後長く続くコスモス衛星の最初のものである。

4月6日には次の衛星が打ち上げられた。今度はMS、科学衛星である。こうして1967年まで立て続けに打ち上げが行なわれた。しかし、世間では前年にコロリョフが人間を宇宙に送り出しており、また実用衛星モルニアの打ち上げも始まった状況の中、ヤンゲルらの衛星は注目される事も無かった。

ヤンゲルは1963年に科学アカデミー会員となった。63S1は更に性能を向上させた11K63にアップデートされ、打ち上げもサイロではなく専用射点を使うようになった。これがコスモス打ち上げ機の小さいほう、である。この新しいロケットに合わせて、新しい射点が建設された。プレセックである。

1961年10月のヤンゲルの宇宙開発再出発時に、R-14の宇宙ロケットバージョン、65S3も開発される事となった。これがいわゆるコスモス打ち上げ機の大きなほうである。上段エンジンはイサーエフの硝酸/UDMHエンジンが採用された。ヤンゲルもグルシコの珍妙な液酸UDMHエンジンに懲りたのかも知れない。

最初の打ち上げは1964年、バイコヌールで行なわれた。搭載されたのは50kgの軍用通信衛星STRELAで、同時に三機が打ち上げられ、それぞれCosmos38,39,40と命名された。以後65S3は軍用ミッションを精力的にこなしてゆく事になる。1966年には11K65へのアップデートが行なわれた。打ち上げ能力は低軌道へ1.4トンを投入できる、相当の性能のものとなった。以後1967年からはプレセック、1973年からはカスプチン・ヤールからも打ち上げられるようになった。

1965年、ヤンゲルは遂にトップの位置に立った。新大陸間弾道ミサイル開発競争で勝利したのだ。チェロメイのUR-200は、失脚したフルシチョフとのかつての政治的繋がりゆえに不採用となった。コロリョフの液酸ケロシンミサイルR-9は、高度な高速液体酸素充填システムにも関わらず、明らかにヤンゲルのアンブル貯蔵可能なR-36に使い勝手と信頼性の点で劣っていた。グルシコの新たな四酸化二窒素/UDMHエンジンRD-251は、最大25メガトンという破壊力を持つ熱核弾頭を運搬可能としていた。この年、SKB-586は正式にユージュノエ設計局となった。

R-36の二段目を宇宙機打ち上げに対応させたのがTsyklonである。1967年10月に打ち上げられた最初の機体は対衛星破壊システム、いわゆるキラー衛星だった。以後原子炉搭載海洋レーダー衛星ROSATの打ち上げなどに利用されてゆく。



ヤンゲルともう一つのソ連宇宙開発史#3 -2007年3月23日(金)23時42分


政治的、軍事的な要請から、R-16の開発は限りなく急かされていた。R-7は特殊な射点設備を必要とし値段も高かったので、当時ソ連が配備していた大陸間弾道弾はわずか5発のみという状況で、これは明らかにアメリカに対して劣勢を意味していた。これは後のキューバ危機の原因のひとつともなったのである。

特に優先度の高かったR-16の開発は、1960年半ばになってようやくコンポーネントが揃いはじめ、8月にはいわゆるBTF燃焼試験が行なえるようになっていた。9月には本体がバイコヌールに到着したが特に電気系統はまだバグだらけであった。10月20日まで電気系統は延々と弄りまわされて、そして打ち上げに問題無しとされた。そして当日、打ち上げ予定日である1960年10月24日がやってきた。

その日、バイコヌール射場のサイト41での打ち上げ準備は、あらゆる安全規則を破っていた。燃料の充填がはじまっても技術者たちはロケットの周りをうろうろしていたし、打ち上げの指揮官であるネデーリン元帥はロケットの20メートル手前という距離で椅子を用意させて座っていた。彼はその日フルシチョフから直接、打ち上げを急ぐように指示されていた。

やがて2段目の電気系統に問題が見つかり、推進剤を抜いてきちんと調べようという提案がされたのだが、ネデーリンはそれを即座に却下した。

ヤンゲルがタバコでも吸うべと安全境界の外に出た時、ロケットの2段目は突然動作を開始し、点火した。真下には推進剤の詰まった1段目がある訳で、結果は大爆発だった。

現場にいた殆どの人間が即死だったと思われる。死者122人、生き残った人間も有毒な推進剤を身体に浴びて火傷を負い、悲惨な状況だった。この事故の映像は記録されており見ることができるが、凄惨の一言である。ちなみに、旧ソ連の打ち上げ事故というとこの映像が使いまわされ、マスコミに勝手な死傷者事故が捏造されることが多い。

生存者は病院へと運ばれたが、生存者を苦しめているのは一体何の毒物なのかと医療関係者が聞いても、軍は答えなかった。それは軍事機密だったのである。


この大惨事によっても、ミサイル開発はわずかな遅滞を見せただけだった。事故の原因は無理なスケジュールにあるというヤンゲルの主張は通り、一年後の1961年10月にはR-16の打ち上げ試験が再開されている。

R-14のほうは実は1959年には最初の打ち上げ試験をやっている。例によってエンジンの煮詰めのせいで完成は1960年にずれ込んでいたが、R-14は既に完成済みだった。R-16の開発開始から2年遅い1958年から作り始めてこのスピードで完成させているのだから、フルシチョフがR-16の完成を急かしたのもある意味無理はないと言える。そもそもヤンゲルは安請け合いを連発していた。1960年にヤンゲルは、推進材を数年に渡りタンク内に貯蔵したままで、ポタン1つで発射可能なR-16の改良型、R-26の開発を約束していた。しかしR-16の開発が優先された結果、1962年になっても原寸電気試験モデルがあるだけという状態であり、結果としてR-26開発は中止された。

こういう状態でキューバ危機は勃発した。キューバには既にR-12は運び込まれ、展開されていたが、全米を射程に収めるR-14の配備は、アメリカ本土を核で脅す実効的な手段として、R-16の無い状態ではパワーバランス的に急務だった。トルコやドイツに配備された核ミサイルによって一方的に本土を射程に収められているソ連にとって、このパワーバランスの実現は強迫観念に近いものにまで成長していたのだ。

結果としてR-14もR-12も引き揚げざるを得なかった訳だが、この引き揚げが実現した背景には、R-16の開発がようやく完了し、配備が開始されたという事情があった訳だ。

R-16の詳細は、R-26から推察することができる。RD-218は4燃焼室構成で、推力方向変更は偏向板に頼っている。タンクはアルミ合金で、アイソグリッドなどの内部補強構造は無く、推進剤のスロッシング防止用と見られる板が、タンク内に垂直に取り付けられている。これが例えばチェロメイのUR-200になると、スクエアグリッド構造がタンク内壁に見られる訳だが、これをR-16の後進性と見るかコスト重視と見るかは、更に検討が必要だろう。



ヤンゲルともう一つのソ連宇宙開発史#2 -2007年3月22日(木)00時33分


コロリョフの衛星開発の動きに対抗して、ヤンゲルらも1956年頃から衛星打ち上げの可能性を検討していた。OKB-1の助力は期待できなかったが、衛星開発にはウクライナのユージュノエ(Южное "南"の意味)設計局が協力した。彼らの衛星はスプートニク3号のような”空飛ぶ実験室”ではなく、単一ミッションのみを行なうよう単純化されていた。衛星は標準化された、いわゆるバスを提供した。

しかし検討の結論は否定的なものだった。単段式R-12では軌道に衛星を投入できない。それは厳然とした事実であった。R-5でも再突入カプセルを搭載した観測ロケットのバリエーションを持っていたが、それでも軌道投入はできない。

二段目を追加する必要があった。しかし、ヤンゲルの手には使用可能な上段エンジンが無く、また誘導システムにも問題があった。想定された上段に積めるほど小型で軽い自律誘導システムが無かったのだ。R-11/R-11FMを使うという案は有ったのか、有ったとしても使えない事情があったのか、その辺りは不明である。恐らくOKB-1との絶縁状態は想像以上にこじれたものになっていたのであろう。アメリカのようにスピン安定化した上段を使うという手も有っただろうが、彼らは却下した。何故なら、ヤンゲルは既にR-7に匹敵するロケットの開発に既に取り掛かっていたからだ。


大陸間弾道弾に対しても、貯蔵可能推進剤を使用したタイプの開発が望まれていた。つまりR-7の代替である。1956年末、R-16の開発が正式に開始された。

大陸間弾道弾は単段式では実現不可能であった。コロリョフは早くから二段式の研究をしていた。R-5の上にR-11を乗せたものの検討もしている。これはぎょっとするほど北朝鮮のテポドン1に似ている。R-12の上にR-11を載せたほうが更に似るだろう。スペック的にはほぼ同じ筈である。

1950年代のソ連のロケットの信頼性は、単段で成功率80%、二段式で61%、三段式で46.2%と計算されていた。二段式には多くの問題がある。二段目の点火はその最たるものだ。分離後に点火する場合、自由落下状態でどうやってエンジンに点火するのか。ターボポンプにどうやって燃料を移送するのか。R-7では、地上で一段目と二段目を同時に点火するという方式で逃げた。

OKB-1とイサーエフは、月に探査機に送り込むために、真空無重量状態で動作する小型上段エンジンを開発した。イサーエフはタンク内にガスで膨らむゴム風船を仕込み、これで燃料を押し出した。彼は以後も宇宙機用エンジンを開発することとなる。

そして、有人宇宙船を軌道に投入するためには、自由落下状態で点火する高真空用三段目エンジンが必要だった。

グルシコはR-7の三段目のエンジンRD-108と、更に上段用の液酸ヒドラジン(UDMH)エンジン、RD-109を提案した。1958年という時期もあるだろうが、コロリョフは上段用としてのヒドラジンの使用には反対していない。しかし、RD-109は例によってまともに完成しなかった。使い物になったのは1962年、モデファイ版のRD-119によってである。結局このエンジンはコロリョフの採用の目を見なかった。コロリョフは結局液酸ケロシンの高真空用エンジンRD-0105を内製開発したのだ。

グルシコは1958年を契機として、貯蔵可能燃料ミサイル向けの硝酸/UDMHエンジンの開発に取り掛かることとなる。当たり前だがR-12で使っていたケロシンも常温貯蔵可能である。グルシコがヒドラジン系へと乗り換えたのは、ケロシン使用エンジンの大型化に限界を感じていたからである。後に超大型液酸ケロシンエンジンRD-170を作ることになるグルシコの言い訳には、傍目の我々からは説得力をまるで感じないのだが、本人はそうは思っていなかった。

コロリョフは液体酸素ではない非低温酸化剤、例えば硝酸の使用には反対していなかったが、有毒推進剤であるヒドラジンの使用については意見が全く違っていた。グルシコは次世代大型ロケットの一段目としてヒドラジン系エンジンを推奨するが、ここでコロリョフと意見の一致を見ることは無かった。

1958年は、射程4000キロの貯蔵可能燃料ミサイルR-14の開発が開始された年でもある。要するにR-12の射程は足りなかったのだ。また、R-12の打ち上げ準備は煩雑で、1時間かかっていた。とても即応性のあるミサイルとはいえなかった。

R-14はR-12よりひとまわり大型化されていた。また、R-16と同じように硝酸/UDMH系のエンジンを採用した。グルシコはヒドラジン系の採用によって硝酸ケロシン系のロケットよりも性能が出せると主張していた。グルシコはR-14用にRD-216を、R-16用にRD-218を供給した。更にR-16の二段目用にRD-219が開発された。

R-16の二段目点火は極めてアクロバチックな方法で解決された。二段目段間部に小さな固体モータを複数追加して、この噴射加速でRD-219のターボポンプへの燃料移送を可能としたのだ。



ヤンゲルともう一つのソ連宇宙開発史#1 -2007年3月20日(火)21時16分


ヤンゲル(М.К.Янгеля)は1911年にイルクーツクで生まれた。モスクワの大学を出るとすぐに彼は航空産業で働き始める。ヤンゲルはこの時期のコロリョフらのロケット開発の動きには全くの無関心だった。20才には共産党員になっている。彼は生涯秘密警察のお世話になることが無かった。これは後に他のソ連宇宙開発関係者に対する大きなアドバンテージとなった。

ヤンゲルはポリカルコフ設計局で貴重な経験を積む事となる。その中でも最も貴重なのは1938年の見学旅行であろう。ドイツ、フランス、そしてアメリカと各国の航空産業の現場を歴訪している。帰国後戦争が始まり、ポリカルコフで新型機の生産立ち上げに携わったが、1950年に開発製作所NII-88へと転職した。これからはロケットの時代だと考えたのである。彼はいきなり誘導機器部門の長として赴任した。ヤンゲルには誘導機器の知識など全く無かったにも関わらず、である。これは誰か有力者の強力な推薦があったものと思われる。

当時NII-88の所長はゴノー(Л.Р.Гонор)であったが、実質的な指導者はコロリョフであった。ゴノーとコロリョフは何度も衝突したが、基本的に険悪な関係ではなく、ゴノーはコロリョフの地位を認めていた。

ヤンゲルはペルーギンやチェルトクら誘導機器部門のメンバーと話し合った結果、機体開発へと移っていた。


1950年のロケット開発体制再編ののち、コロリョフは射程3000kmの中型弾道ミサイルR-5の開発にかかった。しかし、軍の要求は射程よりも即応性のあるミサイルに移っていた。R-5の打ち上げ準備には2時間かかったのだ。即応性のある貯蔵可能推進剤を使用したR-11は、ドイツA-4のコピーであるR-1,R-2の代替として求められ、NII-88内のコロリョフの設計局OKB-1は部下のマケーエフ(В.П.Макеев)に任せてこれを開発した。

コロリョフにやる気は無かったが、更に長射程の貯蔵可能推進剤ミサイルを望む声は確かに存在していた。これが表に出たきっかけはヤンゲルだった。

ヤンゲルは1952年にNII-88の所長に突如任命された。これはコロリョフの勢力拡大の動きに危惧を覚えた兵器相ウスチノフらによる人事だった。この人事はNII-88をずたずたに引き裂いた。コロリョフはヤンゲルと直接顔を合わせることは無く、間にミーシンかチェルトクが入るという状態が続いた。

ヤンゲルは1950年から、貯蔵可能燃料を使用したR-5と言うべきタイプの研究開発をしていた。それら成果は全てコロリョフによって却下されていたのだが、1953年、ヤンゲルは公の場にそれを持ち出した。所長のやることをコロリョフが阻める訳も無い。ヤンゲルはR-11の技術を使った、R-5の性能を持つミサイルの開発を提案したのだ。これは正しく軍が望むものだった。

R-1,R-2を製造していたウクライナの工場SKB-586が製造と開発の後ろ盾となり、ヤンゲルはコロリョフの下を離れて自前の設計局を開設することになる。ヤンゲルは既にOKB-1から半ば離れていたマケーエフと会談して、互いに独立の方針を固めた。

R-11の貯蔵可能燃料使用エンジンを開発したイサーエフ(А.М.Исаев)の助けは得られなかった。イサーエフはコロリョフ側についていた。マケーエフもコロリョフ側と言っていい。ヤンゲルのミサイルR-12のエンジン開発担当はグルシコとなった。

このクーデターが起きたのは、コロリョフがR-7と衛星開発を本格化させた年でもある。翌1954年には衛星計画が科学アカデミーで承認されている。コロリョフのOKB-1は1000人を超える大所帯であり、コロリョフの忙しさは、R-5開発の山場を迎えて想像もつかないレベルだった筈だ。

ただ、ヤンゲルの独立とR-12ミサイルの開発開始は、R-7開発開始の直前である。そのお陰で、ヤンゲルのミサイル、そしてロケット開発はその後奇妙なねじれを生じる事となる。

R-12の開発は、SKB-586、そしてウクライナの総力をあげた取り組みとなった。1955年に正式に開発を承認されたR-12は、射程2000キロ、R-5の射程の2/3という目標を掲げていた。しかしこの控え目に見積もった筈の目標すら達成は怪しかった。エンジンの性能が出ないのだ。

開発はエンジン開発の遅延のせいで、どこまでもズルズルと伸びる事になる。グルシコの約束した新エンジンRD-211の性能は散々なものだった。グルシコは燃焼振動の問題を解決できなかったのだ。そのためR-7用エンジンRD-107の成果をこちらにも持ち込んだ。4燃焼室1ターボポンプのRD-214である。RD-212,213はその間の開発型機種だ。更にそのうち燃焼振動の問題を、イサーエフがR-11FMの開発過程で有る程度解決してしまう。インジェクタバッフルの発明である。

R-12の機体そのものはアルミ合金製で、酸化材タンクからのパイプは燃料タンクを貫通していた。誘導システムはR-5核搭載型と同じ自律慣性誘導型である。誘導システムにウクライナ製品を採用するのはずっと後になってから、コンピュータを搭載するのは1971年のR-36Mからである。R-12は、サイロを使用した最初のソ連製ミサイルだった。


R-12の一号機は1957年6月にカスプチン・ヤールで成功裡に打ち上げられた。翌年12月まで計25基が打ち上げられ、R-12の本格生産は始まった。R-12はR-5と運用設備の互換性を持っていた。即ちコロリョフのR-5からの置き換えが狙いである。即応性の高いR-12は軍から歓迎された。更には当時蜜月状態だった中国へ売却までしている。これはコロリョフに対するヤンゲルの勝利だろうか?

しかし、この間に世界は変わっていた。1957年10月、スプートニク1号の打ち上げである。



秋月電子通商八潮店 -2007年3月19日(月)21時59分


行ってきました。TX八潮駅から歩いてちょい。確かに倉庫です。もうちょい看板などがあったほうが、店を探して歩く際に不安が減って良いでしょう。車で来る人が多いようです。駐車場は狭く、満杯でした。

商品陳列は通販番号順で、内容は仕切り正面にちっちゃく書いてあるのを判別しないといけません。秋葉原店より広く、秋葉原では見た覚えの無い品も結構有りましたから、ひととおりチェックするだけでも大変です。

今回買ったのは、950円のCMOSカメラ(通販番号M-01489)と、FT2232Lなる石(通販番号I-01602)。前者は5Vを供給するだけで、1Vp-pのカラーコンポジット信号が出力されるというもの。使い道によっては色々遊べそうですが、出力がディジタルで無いので、マシンビジョンには向かないのが何とも。ただ、無理やりマイコンでビデオキャプチャしてやろうか、という検討をちょっとしています。LM1881も買っておくべきだったか。

FT2232Lについては、FT245RLが随分と簡単に使えたので、もしバス幅を倍に出来たらと買ってみたのですが、まだスペックシートを読んでいる段階です。FT245RLといえば、秋月で売っているディジタル出力付きのカメラから、1/4分周したクロックを使ってFT245RLにデータを渡すという方法を思いつきました。うまく行けば、1/2の確率で、全ての画素についての輝度データを取得できます。つまりモノクロデータならディジタルでUSBに食わせる事も可能かも。


八潮店だからといって特別なものが売っている訳ではありませんが、秋葉原店では不可能な、豊富な商品をゆっくりと吟味する余裕は基調です。Cマウントレンズ、秋葉原では何処に置いてたんだ?とか、ネットラジオキットなんてあったのか、なんて驚きもありました。ただやっぱ、八潮というのはちょっと不便です。


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次はソ連宇宙開発の隠れた、酷く人気の無い立役者の一人、ヤンゲルを取り上げます。



スカッドと呼ばれるミサイルたち#5 -2007年3月13日(火)00時26分


さて、R-11/R-17の正しい性能、パラメータについて述べたい。

R-11に関しては、エネルギヤ社のパンフに答え合わせがあった。それによると正しいのはEのサイトの内容だ。

全長10424mm、機体径880mm、満載重量5350kg、射程270km、CPEは奥に1.5km、横に750mとなっている。しかしロケット野郎に必要なのは別のパラメータだ。

エンジン比推力219秒、推進剤重量3705kg、機体重量が1645kg、うちペイロード重量が690kgだから、純粋な機体重量は955kgだ。ペイロードを積まなかった場合、構造重量比は0.20、ペイロードを積んだ状態で0.31となる。ツィオルコフスキーの式から、ペイロード無しでデルタVは3.4km/sと算出できる。宇宙まで半分、というところだろうか。


R-17に関しては、ここここの数値を信用する事にした。

全長11164mm、機体径880mm、満載重量5862kg、射程300km、CPE450m。そして比推力はR-11と同じ219秒、推進剤重量3786kg、機体重量が2076kg、うちペイロード重量が989kgとして、ペイロードを積まない場合の構造重量比は0.22、デルタVは3.2km/s、R-11と殆ど変わらない。要するに当たり前だが、宇宙用では無いのだ。

こいつらは弾頭を地上の別の場所に運搬するための道具であり、比推力よりも推力のほうが重要視される代物である。


さて、シミュレーションの考え方だが、基本は単純なものである。

まずエンジンが推力を作る。推力をその時々のミサイル重量で割れば加速度が出る。加速度を積算すると速度が、速度を積算すると距離が出る。

ミサイルは推力方向を変える事ができる。その結果加速度は垂直方向と水平方向のそれに分解が可能となる。速度、距離の積算を水平と垂直のそれぞれで行なえば良い。但し垂直方向の力は重力加速度との合成になる。最後に、ミサイルが高度ゼロ位置を割り込むまでに増えた水平増分が射程である。

エンジンは打ち上げ後一定時間しか動作しない。その間推進剤を消費し続けるため、ミサイルは次第に軽くなる。

ここまでで必要なパラメータを整理すると、以下のようになる。

:ミサイルの初期重量

:エンジン推力

:推進剤の減少率

:エンジン燃焼時間

:機体の姿勢変化率

とりあえずこれだけあれば計算は可能だ。

 
高度がゼロになるまで繰り返し
	もし現在時刻が燃焼終了時間前なら
		加速は推進剤減少率と推力の積を現在の機体重量で割った値
		機体重量を推進剤を消費した分減らす
	後なら
		加速はゼロ
	垂直方向の速度に垂直方向の加速と重力加速度の積を足す
	水平方向の速度に水平方向の加速を足す
	高度に垂直方向の速度による距離増分を足す
	射程に水平方向の速度による距離増分を足す
繰り返し
  

ただ、これだけでは誤差が2割程度出る。誤差の大半は下記のような要素からなる。

:空気抵抗

:地球の丸み

:エンジン推力と気圧の関係


空気抵抗はマッハ4付近で導出の仕方を変えなければならない。マッハ数はその飛翔高度の温度と速度から導き出せる。マッハ4以下では、CD比を用いた良く見る計算を用い、それ以上ではニュートン流とみなして計算する。

地球の丸みは、打ち上げ地点をゼロ点とした絶対座標の中で取り扱う。高度は、機体の現在位置から割り出す二次的な数値となる。あと、重力方向の補正をしたほうが良い。

周辺気圧によって決定される真の推力は、特性排気速度とノズルの設計によって決まる。排気ガスのエネルギーのうちどの程度が、周辺気圧との押し合いで失われるのか、ノズル開口径とノズル端での排気ガス圧力、そして周辺気圧で決定される。


あとは計算精度の問題だが、台形公式を使うまでも無く、時間刻みを細かくしてやれば事実上問題無い筈だ。どのみち本物のミサイルの精度のほうが遥かに悪い。

ここに、使用したRubyスクリプトを置いておく。中身が正確かどうかは全く保証しない。


計算して面白いのは、どれもあまり高くは飛ばない事だ。高度80キロくらいまでしか到達しない。あと、射程以外のスペックから計算した射程がどれも良過ぎるのがわからない。つまりこのスクリプトは信用ならない。原因は空力っぽいのだが……


二段式にしたい場合、一段目の燃焼終了時に、missileクラスの中身を書き換えてしまえば実現できる。


今回は以下のような資料を参考とした。


"History Of Liquid Propellant Rocket Engines"

"Sputnik and the Soviet Space Challenge"

"Stalins V-2"

"Rocket and Space Corporation Energia"

スクリプトの計算式の大部分は「ロケットエンジン」鈴木弘一著 森北出版株式会社 ISBN4-627-69041-Xを参考とした。


ウェブ上の資料に関しては、まずEncyclopedia Astronauticaを毎度ながら第一に挙げねばならないだろう。

Venik's Aviationも参考にしたが、Encyclopedia Astronauticaにある内容とほぼ同じだった。

R11/R17に関しては、様々なサイトが様々なことを書いている。

http://www.navweaps.com/Weapons/WMRUS_R-11FM.htm

http://www.janes.com/security/international_security/news/misc/sws_scud010426.shtml

http://www.fas.org/nuke/guide/russia/theater/r-11.htm

http://www.buran.ru/htm/gud%2008.htm

http://www.rustrana.ru/article.php?nid=8830&sq=19,27,64,84,855&crypt=

http://epizodsspace.testpilot.ru/bibl/vetrov/korolev-delo/05-02.html

http://kapyar.ru/index.php?pg=245

http://rbase.new-factoria.ru/search/outinfo.php?8k14/8k14.shtml

http://space.ionichost.com/index.phtml?type=20&id=142&PHPSESSID=46034b3063ba03312232e2d3b60459df

http://softland.com.pl/aerojac/aaa/r11m/r11m.html

イランの弾道ミサイルに関してはhttp://www.fas.org/news/iran/1995/iran-950611.htmを参考とした。

R-11/R-17の構造に関しては、ノーボスチのイメージギャラリーを参考とした。R-17の推進剤にUDMHが使われている可能性は、ここの写真を根拠に否定する事とした。

ペーネミュンデにはR-11のエンジンS2.253が展示されているようである。

ヤンゲルの伝記"Конструктор"はごく小分量ながら公開されている。

"Р-12 «Сандаловое дерево»"はR-12に関する本だが、多少ではあるが公開されている。

そして、チェルトクの回顧録がいつのまにかNASAによって英訳されていた。現在第二部まで公開されている。第一級の資料である。必読。第三、第四部の翻訳と公開も待ち遠しい。

"Rockets and People Volume I" pdf1 pdf2 pdf3

"Rockets and People Volume II" pdf




スカッドと呼ばれるミサイルたち#4 -2007年3月11日(日)23時23分


潜水艦からミサイルを発射するというアイディアは、元々はコロリョフのものだったらしい。このアイディアを支持したのはTSKB-16のイサーニン(Н.Н.Исанин)であった。イサーニンは設計局SKB-385のマケーエフと共に開発を行なう事となる。

R-11FMはR-11より1m近く全長が短くなっていた。これは潜水艦搭載のためである。また、潜水艦発射にあたって誘導系は一新されたらしい。これもペルーギンの開発だが、OKB-1でのR-5の開発過程で1955年にはソ連の誘導システムは一新されていたのだ。この新誘導システムの開発には、新規開発の誘導理論と、開発されたばかりのソ連国産コンピュータBESM及びSTRELAが使用されている。

R-11FMは975kgの弾頭を搭載して150km飛ぶことができた。1954年に開発を始め、その年の内に試験飛行を始めたR-11FMは、翌年9月、実際に潜水艦からミサイルを打ち上げる事に成功した。R-11FMは海軍上層部に受け入れられたが、但し現場では酷評された。何せ水上発射式である。射程150キロで水上発射式となると、発射は自殺行為と言える。電波誘導でなかったのがせめてもの幸いであろう。

R-11FM用に改良されたS2.253Aエンジンでは、エンジンのインジェクタ表面に燃焼振動対策として抑制板が取り付けられている。これはアメリカで同様の対策が行なわれるものに対して10年近く先行していた。

対してグルシコは燃焼振動の問題を解決できず、多燃焼室方式を採用した。大陸間弾道ミサイルR-7のエンジン、RD-107はそうして実現した訳だ。


R-11は確かにR-1の代替としての性能は満たしていたが、950kg弾頭、つまり核弾頭を搭載しての射程は充分とは言い難いものだった。そのために機体を大型化し、射程を300キロにまで延ばしたR-17が1958年より開発された。R-17は単なるR-11の機体伸張版ではなかった。

R-17のエンジンの名称は不明である。ただ、スペックについては幾らか知られており、推力131キロニュートン、推進剤は酸化剤に赤煙硝酸(AK27I 硝酸73%+四酸化二窒素27%)、燃料にケロシン(TM-185 ケロシン80%+ガソリン20%)を使用している。20%のガソリンはハイオクだそうだ。要するに推進剤の変更は燃焼安定性の向上が主目的であろう。一部ではケロシンではなくUDMHであるという説も存在しているが、間違いなくケロシン系である。UDMHだとタンクに凍結対策が必要になる。あと余談だが、TM-185の"185"はもしかして分子量を指しているのではあるまいか。

推進剤の組成が変わったのにも関わらず、比推力はさほど変わっていない。もしTM-185の分子量が本当に185なら、同じターボポンプ、同規模のエンジンを使っていても、推力が数パーセント向上した筈である。確証は無いものの、ターボポンプの駆動方式は過酸化水素によるものでなく、推進剤の一部を小さな燃焼室で燃やして駆動ガスを得る、いわゆるガスジェネレータ方式となったようである。この改良により、R-11には95キログラムも積まれていた過酸化水素が不要になり、性能の向上に一役買った筈である。

R-17は1970年代に入ると諸国に輸出されるようになる。Scud-BやらCやらDやらと区別するようになるのは、この辺りに理由がある。第4次中東戦争、イラン・イラク戦争、アフガン紛争と大量使用されたが、やがてイラクやイラン、エジプト、北朝鮮、パキスタンといった諸国で独自にコピー生産され、改良型が作られるようになった。


R-17のコピー生産と改良は、大きく分けて2つの系統が存在する。イラク起源と北朝鮮起源だ。エジプトのコピー生産の試みが最も古いが状況が不明で、おそらくは失敗したものとみられる。一説によればこれが北朝鮮系の源流である。

イラクはイラン・イラク戦争において1985年以降190発以上のR-17をイラン攻撃に使用した。都市を直接攻撃したのである。しかし射程300kmのR-17ではイラン首都テヘランに届かず、そのために射程を延ばした改良型、アル・フセインを開発した。先の190発のR-17も、大部分はコピー生産品であろう。

アル・フセインはただ単純にR-17を1m長さを延ばし、弾頭を軽くしただけの代物である。しかしこれで1988年の春にはテヘラン攻撃が可能となり、その夏の停戦を有利に迎える事が可能となった。

イランもこれに対して弾道ミサイルで対抗しようとした。まずリビアから、次にシリアからR-17の輸入に成功し、北朝鮮から技術導入して独自生産を行なう手筈を整えた。しかしこの時の独自生産の試みは頓挫したらしい。最終的にイランは110発以上のR-17をイラクに対して使用し、そこで戦争は終わった。

イラクは1990年にクゥエートに侵攻し、湾岸戦争が勃発した。この時イスラエルとサウジアラビアの諸拠点攻撃に70発以上のアル・フセインが使用された。イラクは更に1m機体長を延長したアル・アッバスを開発したが、これは使用されること無く終わった。


北朝鮮の弾道ミサイル開発については詳細な考察もあるようだが、ここでは概略だけを述べる。

北朝鮮は1984年には最初のR-17コピー、ファソン(火星)の試射に成功した。イラクと同じ頃に独自生産に成功した訳だ。北朝鮮は更に大型化したノドンを1990年に開発した。ノドン型は米国の命名で、北朝鮮ではモクソン(木星)と呼ばれているらしい。ノドンは単なるストレッチではなく、全体を1.4倍に拡大したような機体である。即ちエンジンも独自に大型化した訳で、これは難易度が高かった筈である。増えた推力分、ターボポンプも大型化しなければいけなかった筈だが、遠心力を動作原理とするターボポンプは単純に大型化できない。機体構造もそれなりに変えないといけない筈だ。別物と言って良い。

規模の近いR-12は、グルシコ設計の4燃焼室エンジンであった。グルシコは当時単一燃焼室の大型エンジンを開発できなかったのだ。ただこれで北朝鮮のエンジン技術者はグルシコ以上の才能が有った、とは一概に言えない。この開発にはイサーエフ設計局の関与があった模様である。

北朝鮮の生産したミサイルは各国に輸出され、その技術はイランとパキスタンに移転された。イランはこれにより念願の独自生産技術を獲得した。オリジナルのノドン試射は1990、92,93年にそれぞれ一回づつと極めて少なく、しかも1992年の打ち上げには失敗している。初期のノドンは現在のそれとは大幅に設計が違うという説もある。しかしイランのシャハブ3、パキスタンのガウリの試射回数はそれぞれ7から8回に及んでおり、安定した性能を獲得したと言って良いだろう。なおイラン、パキスタンのこれらの機体が北朝鮮からの輸入かコピー生産かは不明である。イランのシャハブ4はR-12のコピーという噂も存在するが、そもそもそんな機体が存在するのかも疑わしい。

2段化した機体テポドン、北朝鮮名白頭山(ペクツゥサン)に関しては打ち上げ試験回数がお話にならないほど少なく、そもそもこう呼ばれている機体が一貫した代物であるかすら怪しい。が、将来詳細が明らかになった時点で、衛星打ち上げの試行と合わせて歴史の中で評価されてゆくだろう。

兵器としてのノドン型は、1トンの重さの例えば核を600〜800km程度は飛ばすことができる。通常弾頭の弾道ミサイルにはほとんど抑止力は無いが、核を搭載した場合は別である。もし1トン程度の搭載核を実用化できた場合、日本の一部と韓国の全域をノドン型はカバーすることができる。三沢や嘉手納のような米軍拠点に届かないため、軍事的には核ですらほぼ無意味だが、政治的には意味を持つだろう。但し、明らかに弾道ミサイルと核の脅威に晒されている筈の韓国が何も気にしていない様を見ると、政治的意味も気分次第なのかも知れない。



スカッドと呼ばれるミサイルたち#3 -2007年3月9日(金)23時31分


1949年8月29日、ソ連最初の原爆実験が成功し、ソ連のロケット開発は再度見直しを図られることとなった。核搭載長距離弾道ミサイルは単なる概念から明確な目標へと浮上したが、射程600kmのR-2がようやく配備可能になったばかりで、肝心の長距離弾道ミサイル開発は足踏み状態にあった。

ベリヤの権力は増大する一方であり、研究機関の締め付けは厳しくなった。1950年に入って、チホンラヴォフらの活動を支援してきた科学者や他の機関の活動が制限を受けるようになる。やがてNII-88はリストラの上で再編され、ゴノーはその職を追われた。そうして、NII-88の内部組織としてOKB-1が生まれたのである。結果としてOKB-1の創設はコロリョフに自由裁量の幅を与えた。

コロリョフはミサイル開発に新たな3つの目標を掲げた。

1:射程3000kmの単段式弾道ミサイル

2:貯蔵可能燃料を使ったミサイル

3:射程8000km、大陸間弾道ミサイル

最初の目標はR-3だが、平行して別の解も探す事になった。三番目の目標は核開発の影響を受けたものだが、二番目は目新しい。これはイサーエフとの共同作業の結果生まれたアイディアだと思われる。グルシコのエンジン開発の遅れがこの二人を接近させた事は想像に難くない。この結果生まれたのがR-11であった。

R-11は1951年から53年の間に生まれたと思われる。R-11は、R-5ミサイル開発の副産物であった。

R-5は、開発の難航するR-3に代わって、現実的な目標として設定された、射程1200kmの核搭載弾道ミサイルである。R-5には、R-3の開発過程で生まれた技術が惜しげも無く投入された。R-5は、ヤンゲル(М.К.Янгель)のデザインによる、アルミ合金製の鉛筆のような直線的な外観と、サーボ反応速度の改善によって大きさを大幅に減じた安定羽根、再突入熱シールドを持つ分離式弾頭などを持っていた。また配備された機体からは省かれたが、ペルーギンによるソ連独自の誘導システムも試験された。このミサイルは、グルシコのRD-103、A-4のエンジンの改良型が使われていた他は、ほぼソ連独自の技術でできていた。R-5の開発承認に伴って、R-3の開発はキャンセルされた。


このR-5の技術を用いて、R-11はデザインされた。R-11(8K11)は、貯蔵可能燃料を使ったR-1/R-2の代替機として、R-5と同時に1951年10月20日にその開発は承認された。従って要求性能はA-4/R-1と同じであったが、R-11は蒸発し易く製造設備から作りたてを運ぶ必要のある液体酸素を必要とせず、発射準備も簡素化される。

R-11は、長さはA-4/R-1の75パーセントほどの10.7メートル、重さは40パーセントほどの5.3トンで射程180キロメートル、弾頭は60パーセントほど増えた950キログラムを搭載可能である。機体はアルミニウム合金製で、タンク外皮のチューブで構造を支えている。後端部のみがセミモノコック構造となっているようだ。酸化剤からのチューブは燃料タンクの脇を迂回してエンジンへと伸びている。

誘導システムはこの時点ではまだ無線誘導である。射程の180kmとはR-1/R-2互換という要求仕様を満たしていない値であるが、これは950kg弾頭を搭載した場合の値であり、R-1と同じ550kgの弾頭を搭載した場合、射程はR-1同等の260kmまで伸びる。弾頭は分離しない。

 R-11の機体径はWasserfallと同じ88cmであったが、それはつまり、Wasserfallコピー(R-101)開発に使用された冶具を流用したという事であろう。つまりイサーエフらの開発ラインで作られたのだ。

推進剤は酸化剤に赤煙硝酸(AK20I 硝酸80%+四酸化二窒素20%)、燃料にケロシンを採用し、燃焼室はプレート型インジェクタを採用している。ターボポンプは過酸化水素を使った触媒1液式のガス発生器で駆動されていた。1945年にRNIIで開発されたターボポンプ技術は、A-4のターボポンプ技術の導入によって実用段階に達していた。ターボポンプの駆動はA-4と同じ過酸化水素駆動だったが、ターボポンプ本体はシンプルな別物である。

このエンジン、S2.253は推力93.3キロニュートン、比推力は真空で251秒、海面で219秒という性能を持っていた。推進剤の変更により自己着火性は無くなったが、Wasserfallのエンジンの推定比推力は190秒辺り、機体の構造重量比はおよそ倍であるから、R-11の性能は格段の進歩である。

R-5開発で忙しかったコロリョフに代わって、マケーエフが開発を担当する事になった。この頃になるとコロリョフは犬をロケットで打ち上げるようになっていた。これは勿論将来の有人宇宙飛行に備えたものである。生命維持システムや高度なテレメトリ、信頼性の高いパラシュートなどが開発された。イサーエフもこの頃はモスクワ防空システム用のミサイル開発で忙しかった筈である。


1952年4月、宇宙を目指して活発に活動するコロリョフの勢力拡大の動きに危惧を覚えたウスチノフらによって、NII-88の所長にヤンゲルが指名された。

ヤンゲルは1950年に推薦によって、NII-88の誘導機器部門の長として赴任してきた。しかし彼は誘導機器の知識など皆無だった。やがてヤンゲルは機体開発のほうで自己の才能を発揮する事となる。ヤンゲルは党に忠実で、そしてコロリョフは元囚人だった。

この人事は直ちに酷い亀裂をNII-88内部にもたらす事となる。このせいでR-11開発は遅滞をきたしたものと思われる。コロリョフのヤンゲル憎しの感情はやがて有毒推進剤への反対という、長くこじれる対立へと発展してゆく事となる。

この頃のコロリョフはラムジェットエンジンを持つ超音速巡航ミサイルに入れ込んでいた。チェルトクらOKB-1のメンバーは、星を参照して機体を誘導するスタートラッカのアイディアを発案し、実現可能であることを証明していた。コロリョフの提案した機体EKRでは、一段目にR-11のS2.253を使うことにしていた。同時に、大陸間弾道ミサイルの設計も始まり、必要なエンジン出力はグルシコをたじろかせていた。彼は開発を拒否したが、しかし大型エンジンは大陸間弾道ミサイルの実現に必須である。やむなくグルシコは新エンジンRD-105とRD-106の設計を始めた。新エンジンはイサーエフの燃焼室構造を採用していた。

1953年2月、ヤンゲルは貯蔵可能燃料を使った中距離弾道ミサイルを政府に提案した。これはコロリョフに拒絶され続けていた提案だった。この提案は正式に開発が承認され、ヤンゲルは自前の設計局OKB-586と共にNII-88を離れる事となる。同時にマケーエフもコロリョフの元を離れ、ウラルのSKB-385でR-11の開発を行なう事となった。ヤンゲルと違い、マケーエフはコロリョフとその後も良好な関係を続けた。

これら大規模な再編の結果として、OKB-1はNII-88から完全に独立する事となった。

同年3月、スターリンが死ぬ。同月のR-5の最初の打ち上げは失敗だったが、打ち上げ失敗はその年の計15回の打ち上げ中2回だけだった。スターリンの死後、コロリョフは政府に対して宇宙開発をその究極の目標とすることを隠さなくなる。彼は一貫して宇宙開発を主張し続けるが、実現するのはまだしばらく後のことである。

R-11も4月にはカスプチン・ヤールで試験打ち上げを開始した。



スカッドと呼ばれるミサイルたち#2 -2007年3月9日(金)00時35分


コロリョフ率いるソ連チームは、その後R-1を大型化し射程を倍にしたR-2を開発したが、平行して同時に、グレルトップらドイツ人技術陣は、革新的なアイディアを盛り込んだロケットG-1(もしくはR-10)を研究していた。両者とも分離式弾頭を採用していたが、G-1はタンク外壁にミサイル構造体の役割を兼ねさせる、更に進歩的なものだった。

R-2はグルシコによって改良されたA-4のエンジンRD-100を用いていた。RD-100はオリジナルと比べると燃焼室圧力が上がり、インジェクタ形状などに改良の跡がみられる。ターポポンプを駆動する過酸化水素用の触媒も一新された。が、全般にコピーの域を脱していない。ペーネミュンデで検討されていた改良案が下敷きにあったのだ。

生産されたR-2は、R-1配備部隊のそれと交換された。R-2はR-1と打ち上げ設備に互換性があるよう設計されていた。G-1に対してR-2が採用されたのは、結局のところ開発と生産の明確な見込みがあるかという一点においてであった。

R-1/R-2は幾つかの点でオリジナルと違っていた。最大の相違点は誘導方式だ。搭載されたドイツ人設計の新誘導システムはロケットの飛行安定性のみに寄与し、ミサイルの飛翔経路は地上からの電波で誘導されたのだ。これは命中精度の向上のためだったが、後に開発される機種でも、エンジン出力向上に伴う振動の問題から、10年近くこの方式が採用されることになる。

次のステップ、R-3は、1947年にはコロリョフによって検討が始まっていたらしい。コロリョフのレポートは、大西洋を越えた攻撃手段獲得というスターリンの目的に合致していた。ちなみにその頃のスターリンの最大の懸案事項は原爆の開発で、ソ連最初の原子炉F1は1946年に稼動を開始し、プルトニウム生産炉A1は建造中である。ゼンガーの対蹠地爆撃機に関しては、ケルディシュの否定的なレポートが出ていた。こういう状況の中、1948年にR-3の開発は正式に開始された。

目標は射程3000kmという桁違いのものとなった。暫くするとグレルトップらにも研究課題として同様の目標数値が与えられた。

R-3は全長33メートルの単段式で、グルシコのRD-110ケロシン/液体酸素エンジンを採用していた。このエンジンにはグルシコの独創がある程度見られるが、実際のところ極めて保守的な設計だった。何せ見た目は全くA-4のエンジンそのままなのだ。グルシコのエンジンは、1951年のED-140エンジンによってようやくA-4の模倣の域を脱することとなる。

R-3の構造は軽量なアルミ合金で、タンクが構造材の役割を兼ねていた。見た目は羽根の無い太ったダーツのような形状である。

1949年、コロリョフのR-3とグレルトップのG-4(R-14)の二つの提案は比較された。グレルトップのG-4提案は極めて優れたものだった。アルコール/液体酸素エンジンの排気を利用してガスタービンを駆動することが試みられ、エンジンはジンバル制御となっていた。機体は空力的に安定な円錐形状となり、安定羽根を不要とした。グレルトップ提案は高く評価された。エンジンは特に多くの試験が行なわれ、このエンジンKD-50は幾つかの点でグルシコのエンジンに大きな影響を与えた。

G-4にはR-7の一段目の特徴の多くが明らかに見られる。落書きレベルのスケッチでは複燃焼室、但し3燃焼室を持つものも存在していた。しかしチェルトクは、コロリョフはその後グレルトップらの技術を使わなかったと言っている。むしろ後にチェロメイが燃焼ガスによるタンク加圧等のアイディアを借用したという。

グレルトップらドイツ人技術陣はその後、軍事技術から遠ざけられた冷却期間を置いて、7年の抑留を終えて東ドイツに帰国した。

R-3開発の最大の問題はエンジンだった。グルシコのRD-110開発は遅れまくっていた。そもそものグルシコの設計は保守的に過ぎた。オリジナルのA-4のエンジンは、液酸ケロシンの高効率燃焼による高圧に耐える事ができなかった。最終的に、グルシコはエンジン技術者イサーエフの技術を借りてこの問題を解決した。


イサーエフ(А.М.Исаев)は、ソ連最初のロケットグライダーBI-1開発から関わっているベテランである。ちなみにBI-1のBIは開発者二人の頭文字を取っている。BIのIのほうがイサーエフだ。この機体のエンジンの推進剤は硝酸と灯油であった。R-11の推進剤も同じである事を考えれば、BI-1はR-11の祖先の一つであるとも言える。

イサーエフは後にS-75(SA-2)対空ミサイルや変態SLBM R-29のエンジンを開発した人物である。ヴォストーク宇宙船の軌道離脱エンジンや初期の衛星や月探査機で使われた無重量環境用再着火可能エンジンを開発もしている。彼の開発した、初期のソユーズの主推進系KTDU-35は、ターボポンプの使用された最初の無重量環境用エンジンである。イサーエフの良く知られた発明には、エンジン燃焼室の再生冷却ジャケットや、インジェクタバッフルが含まれている。彼は当初、ドイツが開発した地対空ミサイル、Wasserfallをコピーしょうとしていた。

Wasserfallは全長およそ7m、全重3.5トンの地対空ミサイルで、地上のオペレータの操縦によって誘導された。4943年からペーネミュンデでC-2の名称で開発は始まり、初期型W-I、後期型W-5、資材節約のための縮小型W-10が開発された。

Wasserfallは濃硝酸90%と硫酸10%の混合による発煙硝酸を酸化剤、ビニルイソブチルエーテルを燃料とした、自己着火性推進剤を採用した画期的なもので、準備無しに発射可能なそれは正に求めるものだった。

但し、Wasserfallは25発撃って10発失敗という成績の上、最大射程も26キロメートルとふるわなかった。推進剤のエンジンへの移送に、気蓄タンクに蓄えた高圧窒素ガスで押し出す、ガス押し式を採用していた。そのため機体が重く、機体規模に対して性能が振るわなかったのだ。結局Wasserfallは量産されることは無かった。その前に戦争は終わったのだ。

ソ連のWasserfallコピーの要求は極めて高かった。アメリカのB-17やB-29を撃墜する手段が早急に必要とされていたのだ。戦後アメリカと緊張状態に入ったソ連にとって、日本とドイツを屈服させたアメリカの戦略爆撃は最大の脅威だった。

R-101ミサイルはそうして生まれたが、そもそものWasserfallの完成度が低く、期待された性能を発揮する事無く、配備には至らなかった。対してアメリカは同じ頃Wasserfallをコピーし、こちらは配備している。

イサーエフとその部下は、1948年にNII-88に合流した。地対空ミサイルの必要性は、朝鮮戦争が始まると再び優先度が高くなった。今度はレーダーと連動した自動追尾システム、構造重量比を改善した新ミサイルS-25(SA-1)によって構成されるモスクワ防空システムとして完成する訳だが、それはまた別の話である。


グルシコが導入したのはエンジン燃焼室の再生冷却ジャケットだった。燃焼室内壁と外壁を波板で接続した構造により、グルシコのED-140エンジンはようやく圧力に耐えられるようになる。しかしこれはつまり、RD-110は使えない、新しいエンジン開発の必要があるという事を意味していた。そして更に、グルシコは燃焼振動の問題に直面する事になる。結論から言えば、この問題も後にイサーエフが解決する。

その一方でコロリョフはR-3をベースにした多段式構成の検討を始めていた。1949年にチホンラヴォフはR-3を三機束ねた二段式構成で、衛星を軌道に投入できることをコロリョフに示した。同じR-3を横に3つ並べて、両端の2機が燃え尽きたら、中央の1機を切り離して二段目として更に飛ぶのだ。

彼らの研究は、1950年に学会発表された。その発表の終わりで、チホンラヴォフは有人軌道投入の話題を取り上げた。聴衆の大半は冷笑的で、少数は敵対的ですらあった。ミーシンですら懐疑的な意見を投げかけている。しかしコロリョフはチホンラヴォフの意見を一貫して支持し続けた。



スカッドと呼ばれるミサイルたち#1 -2007年3月8日(木)01時37分


旧ソ連のロケット開発史は、様々な流れが平行しながら絡み合う複雑な経緯を持つ。なかでも、ミサイルの開発史は極めて大きな比重を持つ訳だが、例えばR-11/R-17、いわゆるスカッドミサイルのような著名なミサイルでも、その詳細は不明瞭な部分が大きい。

例えば、幾つかのウェブサイトで公開されている"R-11のスペック"のうち、全長、打ち上げ時重量、射程の3つを比較しただけでも、これだけのバラつきが存在している。


_全長(m)重量(kg)射程(km)
A10.675337260
B10.74400180
C10.256300130
D10.035200270
E10.425350270


推進剤をUDMH/赤煙硝酸としているBのようなサイトは問題外といっても良いのだが、全長のような検証の容易なデータですらこれほどのバラつきを見せているのは問題であろう。今回は、R-11及びR-17の諸元を有る程度きっちりと推察し、同時に単純なミサイルの飛行シミュレーションを論じる。しかしその前に、R-11及びR-17について、説明をしたい。


NATO名"Scud"とは、ソ連における短距離弾道ミサイルR-11を指す。"Scud-B"はその後継型R-17である。NATO名にはその他"Scud-C""Scud-D"があるが、双方ともR-17のプチ派生型であり、更にR-11には潜水艦発射型の正式な派生型、R-11FMが存在する。

R-11の源流をA-4(V-2)とするのは全くの間違いである。また、R-11はドイツの対空ミサイルWasserfallをベースにしているという説もあるが、これもある意味正しいが、基本的には間違いである。

R-11は、ドイツのロケット技術を吸収し、独自の道を模索し始めたソ連技術陣、それもコロリョフ(С.П.Королев)とイサーエフ(А.М.Исаев)という非凡な技術者の、短い間の協同活動によって誕生し、コロリョフの部下であったマケーエフ(В.П.Макеев)によって完成をみた。R-11はドイツ技術のコピーを脱したソ連最初のミサイルだったのである。


まず、ソ連のロケット技術に対するドイツ技術の関与の範囲を明確にしたい。

ソ連は1947年にドイツのA-4のコピーに成功し、これをR-1として数百基を生産し、1950年から配備した。これを早いと見るか遅いと見るかは、当時のソ連の工業力と、スターリンの催促の強さを同時に勘案しなければならない。とにかくこれは急き立てられた実現だった。

コロリョフらソ連技術陣は終戦直後1年から1年半に渡ってドイツ国内のソ連占領地においてドイツのロケット技術を調査した。コロリョフは特に、A-4のコピーが単なるカーボンコピーに留まらず、広い範囲の知識と技術の集積、人員と施設の下で行なわれるよう警告している。

ソ連の正式なA-4のコピー命令は1946年5月に出され、秋にはグレルトップらドイツ人技術者たちがソ連へと強制的に連行された。彼らは当初、研究開発機関NII-88の敷地内に隔離され、後にモスクワ西方の湖中の島に移されて、技術協力を強制されていた。

ドイツ人技術者たちはR-1の打ち上げ試験の段階に達してようやく、この開発に直接立ち会うことになった。ソ連側はR-1開発の現場から彼らをほとんど絶縁していたのだ。これはドイツ技術陣を系統だったミサイル開発から隔離することによって、将来における情報の漏洩と、彼らのミサイル開発力をそれ以上向上させることを防ぐ狙いもあった。そして1947年のR-1試験打ち上げ以降、ドイツ技術陣に求めるものは主に将来プランとアイディアになっていった。

ドイツ技術陣のアウトプットは、基本的にはコロリョフの開発内容との比較に用いられた。つまりツッコミ用である。軍はコロリョフらの手綱を取るための手段として、ドイツ技術陣を使っていたのだ。

事実コロリョフは既に静かに暴走を開始していた。コロリョフは1948年にはR-1Aという科学実験用の派生型を開発していた。この開発は分離弾頭の開発を隠れ蓑にして行なわれ、パラシュートによって高度100kmから回収可能なペイロードユニットを持っていた。コロリョフはこれを1949年、科学アカデミーに手段として提示、歓迎を持って迎えられていた。これが軍の不興を買わない訳が無い。


この頃のソ連側の構成を概観すると、まずトップに兵器相ウスチノフ(Д.Ф.Устинов)、軍のほうは砲科元帥ヤコブレフ(Н.Д.Яковлев)、ヴォロノフ(Н.Н.Воронов)、後にネデーリン(М.Неделин)、彼等が代表していた。隣接して悪名高き秘密警察のトップ、ベリヤが機密全般を担当している。ベリヤの向う側には核開発とクルチャトフ、そしてチェロメイ(В.Н.Челомей)もその辺りに居たりする。チェロメイはその頃V-1のコピーをやっていて、以後海軍向けに巡航ミサイルを開発する。彼が宇宙に目を向けるのは1950年代も終わりになってからだ。

実際のロケット開発の主体はNII-88で、他にもNII-1などの機関が存在していたが、1957年にNII-88に統合されている。終戦直後のNII-88は単なる工場跡地に過ぎなかったが、以後重要な研究開発拠点となる。

この時期のNII-88の所長はゴノー(Л.Р.Гонор)、彼は所員にすこぶる評判が悪かった。彼の下にコロリョフが来る訳だが、当然そりが合わない。組織的にはコロリョフと同格の位置にエンジン屋のグルシコ(В.П.Глушко)と、宇宙機屋のチホンラヴォフ(М.К.Тихонравов)、古株の誘導屋ペルーギン(Н.А.Пилюгин)らがいる。更に、コロリョフの腹心のミーシン(В.П.Мишин)、制御屋のチェルトク(Б.Е.Черток)といった所が当時の主だった技術者の代表格である。

実際にはその行動力と影響力において、コロリョフこそが実質上のボスと目されていた。そしてウスチノフらはコロリョフの権力が無制限に拡大する事を恐れていた。



インドの宇宙開発史#3 -2006年11月19日(日)22時11分


ISROは次に開発するロケットを、極軌道衛星用の打ち上げ機、PSLVと、静止衛星打ち上げ用のGSLVの二種とすることに定めた。最初の目標はPSLVである。

PSLVは直径2.8メートルの大型固体エンジンを1段目中央に置いて、周囲に6本、SLV-3の一段目を束ね、二段目にヒドラジン系液体エンジン、三段目がまた直径2メートルの大型固体エンジン、四段目が独自開発のヒドラジン系エンジン、というハイブリッドな構成だった。二段目の液体エンジンはフランスのヴァイキング4エンジンのライセンス生産品である。

四段目は、ISROがヴァイキングエンジンの導入に失敗した場合の保険として国産開発していたものであった。これは詳細が明らかではないが、ガス押し式のヒドラジン2液エンジンらしい。PSLVは極軌道に800キロの打ち上げ能力を持っている。全固体ではないが、それに近い、固体ロケットとしては最大級の打ち上げ機である。

にしても、下から固体、液体、固体、液体、というちぐはぐな構成は珍妙と言うしかない。

PSLVは1993年の最初の打ち上げこそ失敗したものの、以降7度の打ち上げを全て成功させている。

GSLVは、PSLVの一段目ストラップオンブースターを液体系に変更し、三段目を液酸液水エンジンRD-56Mにしたものである。一段目ストラップオンブースターのエンジンはヴァイキング2、三段目のRD-56Mとは、旧ソ連のN-1の上段で使われたKVD-1Mエンジンをカタログ上で名前変更してインドに売りつけたものである。N-1の上段で使われたということはつまり、フライト実績が無いということだが、しかしインドは思い切って導入を決断した。

GSLVは静止軌道に2.5トンの打ち上げ能力を持つ。これは宇宙開発先進国の大型ロケットに並ぶ実力である。一段目コアが相変わらず固体モータであることに注意したい。GSLVは、2001年に初打ち上げに成功して以来、計3回の打ち上げに成功していたが、最近2006年7月に打ち上げに失敗している。

インドの打ち上げ機開発の歴史は、もし日本の宇宙研が唯一日本における宇宙開発を先導していた場合、なったであろう姿を髣髴とさせる。


インド宇宙開発の目的の一つは、静止通信衛星による国土全体への通信サービスの提供であった。そのために1981年より大型静止衛星を購入し、海外で打ち上げるようになったが、同時に国内においてもISROによるライセンス生産を開始した。Insat-2A以降のいわゆるI-2Kバスは、フォード(現ロラール)の衛星バスのインドへの技術移転の成果である。これによりインドの衛星開発能力は飛躍的に向上した。

インドの宇宙機開発は、ローヒニーシリーズの後、パドルを展開し太陽指向スピンをするSROSS (Streched Rohini Satellite Series)と呼ばれる一連の地球観測衛星を開発した。ただし、打ち上げ機のASLVの連続の打ち上げ失敗で、軌道に投入されたのはうち一機のみとなった。

国産三軸衛星IRSシリーズは1993年の打ち上げ失敗の後、1994年に初めて軌道に投入された。IRSバスは800キログラム以下、2枚の展開式太陽電池パドルを持つ。このバスは10機近くが作られ、うち7機が地球観測衛星として運用された。

インド最初の静止気象衛星Kalpana1は、2003年にPSLVで打ち上げられた。重量1トンの衛星のうち半分以上が推進剤だった。要するにPSLVの五段目である。この衛星はCFRPを多用するなど、様々なインド独自技術の技術実証の場となった。

重量1.5トンの静止衛星GSATシリーズはI-2Kバスであるが、GSLVの能力により更に高度なミッション機器を搭載することが可能となっている。

インドの科学衛星は、まだ独立した衛星を持つに至っていない。ペイロードとしては、1996年のIRS-P3へのX線観測装置の搭載が最初のものである。しかし、インドは近いうちに独立した科学衛星を幾つか打ち上げる計画を持っている。うち最も野心的な計画は、月探査をおこなうチャンドラヤン-1である。この探査機は極めて小型かつ高機能で、月周回軌道に投入されることになる。

インドの有人宇宙開発は、1984年にラケッシュ・シャルマ(Rakesh Sharma)がソ連のソユーズT-11で打ち上げられ、サリュート7に一週間滞在したのが最初となる。しかしインドは以降組織化された宇宙飛行士養成プログラムを持っていない。

インドは有人機を打ち上げようと思えば、打ち上げる事が出来る能力を持つ。また、宇宙機技術も高いものを持つ。最近の独自有人宇宙計画の発表は、中国との関係性などとは関係なく、可能性を評価した試みであるとみて良いだろう。恐らくは当面の目標であった無人月探査の目処が立ち、次の目標を定めたものと思われる(旧ソ連がこのパターンだった)。実際、それは比較的安価に、倍くらいには膨れる可能性はあるが、インドの試算どおりに可能であると私は評価している。



インドの宇宙開発史#2 -2006年11月18日(土)17時39分


話を少し戻す。1970年代冒頭、ソ連の協力で衛星開発技術を得た彼らの次の目標は、当然、独自手段による衛星打ち上げであった。

1974年4月、新しいRH-560ロケットは高度280キロにまで到達した。RH-560は二段式固体ロケットで、最大到達高度は400キロにまで伸びていた。しかし、次のロケット、SLV-3の構成要素は、RHシリーズとは全て別の、新規開発品ばかりであった。

インドは最初の衛星打ち上げロケットを、アメリカのスカウトロケットに極めて似せて設計した。SLV-3の各種寸法は、スカウトのそれをメトリックで丸めた値にほぼ一致する。SLV-3の設計はアブドゥル・カラームによるもので、彼は1963年から64年にかけてアメリカに滞在し、スカウトをつぶさに観察している。彼の帰国後の1965年、インドは原子力委員会のトップ、つまり当時のインド宇宙開発のトップであるバーバ名義で、NASAに真正面からスカウトの資料を要請した。NASAはそれに応じて資料を渡しており、SLV-3はこのときの資料に基づいて設計されたと思われる。

但し、SLV-3はスカウトのコピーではない。そもそもスカウトはアメリカの既製各種固体ロケット、ミサイルの継ぎ接ぎである。構成部品はインド独自のものだった。但し、打ち上げ施設等の周辺設備に関しては大幅に参考にした筈である。また、飛行パラメータ情報なども参考になった筈だ。

SLV-3の、3の意味は不明である。ただ、一段目をSLV-1、二段目をSLV-3、三段目をSLV-3とする記述も見受けられるので、日本のミューシリーズに似た命名法なのかも知れない。但し、SLV-3の構成は、スカウトベースである限り固体四段式であることは当初から明らかであった筈だ。

アブドゥル・カラーム(Abul Pakir Jainulabdeen Abdul Kalam)は、インド宇宙開発における二人目の、そして最大の立役者である。

カラームは、失敗に終わった国産ホバークラフト開発の仕事のあとSSTCに入り、衛星プロジェクトに参加後、SLV-3の開発のプロジェクトリーダーとなった。

1979年、最初の宇宙への挑戦、SLV-3 一号機の打ち上げは、二段目の不具合により失敗した。インドの独自衛星打ち上げは、翌年の二度目の挑戦によって成功した。ペイロードは40キログラムの小型衛星ローヒニー、アリヤバータの下三分の一を切り取って、全体的に小さくしたような格好の衛星である。これは全周に張られた太陽電池とオムニアンテナを持つ、極めて堅実な設計だった。翌年同型の衛星ローヒニー2が打ち上げられるが、これには固体撮像カメラが搭載されていた。1983年に打ち上げられたローヒニー3は可視と近赤外の二つのカメラを持ち、地球観測衛星として運用された。

1981年、ESAのアリアン1 三号機のサブペイロードとして、TVとラジオのトランスポンダ、回転パドルと固体推進系を持つ350キログラムの静止衛星APPLEが打ち上げられた。APPLEの2枚のパドルのうち1枚が展開しない不具合に見舞われたが運用は成功し、インドは貴重な経験を積む事ができた。

SLV-3の能力向上型として、1987年に、低軌道に150キロの打ち上げ能力を持つASLVが開発された。これは一段目を三本、ストラップオンブースターの形で束ねたSLV-3である。しかしこの打ち上げは、4度打ち上げてうち3回が失敗というものだった。


インドの液体エンジンの開発は1980年代に入ってようやく本格的に開始された。これはSLV-3の成功の先、更に強力な打ち上げ手段を持つことを考えた場合、この先はやはり液体エンジンだという判断からなされたものだった。

液体エンジン開発を行なった主体は、軍事研究開発機関DRDOであった。1982年、カラームは古巣のDRDOに所長として戻り、弾道ミサイル開発を主導した。

インド最初の大型液体燃料ミサイル、プリトビ(地球)のエンジンは、ソ連の地対空ミサイルS-75(NATO名"ガイドライン")のエンジンを二つ束ねたものであった。抑制赤煙硝酸(INFNA)を酸化剤、ジメチルアニリンとトリエチルアミンの混合物を燃料とした、自己着火性のある常温貯蔵可能な燃料を使用していた。

全長8.5メートル、直径90センチの単段式、射程は150キロ、後に250キロに伸びた。これは弾頭の小型化によるもので、基本的なスペックに変化があった訳では無い。誘導システムはインド独自のストラップダウン慣性誘導方式で、待機冗長構成の2つの計算機がミサイルを目標まで誘導した。この技術は西ドイツの技術支援によるものである。西ドイツは勿論、弾道ミサイルではなく平和目的のロケット誘導技術の支援のつもりだったが、その最初の成果はプリトビだった。プリトビは1988年に初飛行を果たした。

中距離弾道ミサイル、アグニの開発も同時に進んでいた。アグニはSLV-3の一段目を流用し、プリトビを二段目に使ったもので、射程700キロ、後に2800キロまで射程を延ばすが、開発は難航しているようである。

カラームは1992年にインド政府の主席科学顧問となる。2002年、政治的背景の無い国家的英雄ということで第11代インド大統領に推薦、選出された。ちなみにインド大統領は国家元首であるが、権限の無い名誉職である。



インドの宇宙開発史#1 -2006年11月17日(金)02時14分


インドの宇宙開発史は、IGYに呼応した地球物理学者ヴィグラム・サラバイ(Vikram Ambalal Sarabhai)の活動によって始まった。

サラバイはいわばインドの糸川英夫というべき人物である。彼はアーメダバードの裕福な名家に生まれ、宇宙線の研究によってケンブリッジで博士号を取得した。サラバイ家というと、ル・コルビュジエ設計のサラバイ邸が有名であるが、独立前からサラバイ家は紡績業で財を成し、文化面でも多くの人材を輩出した。インドのメディチ家と称される事もある。

ヒマラヤ山脈でのフィールドワークの後、サラバイはスプートニクの衝撃によって宇宙を目指す事となる。1962年、インドは宇宙探査国家委員会を設立し、サラバイは議長に就任した。彼はインド核物理学の父バーバの支持のもとに、原子力省の管轄下に宇宙科学技術センター(SSTC)を設立した。SSTCはインド南端近いトンバに射点を建設し、1963年11月21日、ここでアメリカ製Nike-Apacheロケットが打ち上げられた。

Nike-Apcaheはコンポジット推進剤化したナイキ地対空ミサイルに固体の二段目を追加した、全固体二段式ロケットで、高度200キロに到達する性能を持っていた。ただ、この打ち上げ主体はNASAである。以後、この射点はソ連、フランスおよびイギリスに利用が解放された。つまり、インドは打ち上げ主体では無かったのだ。

当時のインドはまだ貧困のさなかにあった。宇宙開発などまだ遠い夢物語であるのが現状だったのだが、しかし、国内で打ち上げられるロケットたちは、確実に国民と政治家に、その存在をアピールした。サラバイはこういう方法で、巧みにインドに宇宙開発の火を点したのだ。


インド自身の宇宙開発は、極めて地道に出発した。インドが独自開発したペイロードは1965年、フランスのCentaure固体単段ロケットに初めて搭載された。

1967年、インドが独自に開発した固体ロケット、RH-75"ローヒニー"(ROHINI)が打ち上げられた。

ローヒニーはヒアデス星団のインド名であると同時に、ヒンドゥー神話の月神の妻27柱の一人をも示す。この名前は以後、インド最初の独自打ち上げ衛星シリーズなどで多用されることとなる。

RH-75は長さ1.5メートル、直径7.5センチの一段式で、およそ高度10キロメートルまでの到達能力を持っていた。RHの後ろの番号は、ロケットの直径を表している。高度10キロといえばカンサットの打ち上げ高度、要するにモデルロケット規模なのだが、このニュースは大いに国内にアピールした。RH-75は以降一年間に9基が打ち上げられた。

これは米ソ宇宙開発競争華やかりし頃の話である。1969年、遂に原子力省の管轄から外れ、独立した強力な宇宙開発機関、インド宇宙研究機関(ISRO)が設立された。これも全てサラバイの尽力による地道な打ち上げ等の活動範囲拡大のおけげであろう。1972年にはその上に宇宙省が設立されている。

ISRO本部はバンガロールに置かれ、インド東海岸のスリハリコタに新たな射点が建設された。1971年には到達高度を倍にしたRH-125を皮切りに、同年更にRH-300が高度100キロにまで達した。そして同時に、インド製人工衛星の開発も始められた。

ソ連の協力のもと開発された、最初のインド製衛星アリヤバータ(6世紀インドの数学者)は、1975年にソ連のR-14コスモスロケットを使って打ち上げられた。アリヤバータは斜方立方8面体の形状の全ての面に太陽電池を貼った、360キログラムの高層大気観測衛星である。

当時、1971年からインドとアメリカの関係は冷え込み、代わってソ連との関係が緊密化していた。この時期はインド経済、政治共に低迷した時期であったが、インドは独自核保有へと突き進む。ただ、インドの宇宙開発は以降低迷した時期を迎えることになる。

サラバイ自身は核兵器開発にもコミットする民族主義者だったが、アメリカとの関係は純粋に平和利用に限られたものだった。ISROは一貫して平和目的による宇宙開発を指向している。

では軍事目的はというと、1958年に設立された国防研究開発機構(DRDO)が担う事となった。ISROがずっと固体でやっていたのに対して、DRDOの弾道ミサイル開発は最初から液体ロケットというのがまた面白い。

弾道ミサイル開発の開始は以外に遅く、DRDO開発のミサイルは1988年に初飛行した、射程150キロのプリトビ単段液体ミサイルが最初のものである。以後DRDOは更に射程を延ばしたアグニシリーズを開発しているが、開発はうまく進んでいないようである。

ISROも失敗する事はあるが、ISROはDRDOと比較すると極めてオープンであると評されている。また、人材育成の面でも、例えば現大統領アブドゥル・カラームは、アリヤバータの開発、更には独自手段による初の衛星打ち上げで主導的な役割を果たした技術者である。このような組織風土を作ったのは、やはりサラバイであったらしい。

サラバイは放送衛星の可能性を極めて高く評価し、インド全域に知識を放送する教育チャンネル構想を、アメリカと共に推進していた。しかしこれも実現は遅れこととなる。静止放送衛星INSATの実験は、1975年から1977年にかけて行なわれた。

しかしサラバイは惜しくも1971年に死ぬ。サラバイは音楽や絵画、建築にも才能を発揮し、晩年は管理工学に興味を持ったらしい。国際的には原子力と核兵器の分野で知られた。ただ彼はスキャンダルで失脚することもなく、後輩から名誉職とはいえ大統領を出した訳で、その辺りは糸川英夫との大きな差であろう。



PIC18F2550でUSB -2006年9月14日(木)21時03分


秋月がPIC18F2450/2550の取り扱いを始めた。これはUSB自作史における決定的なターニングポイントとなるであろう。

PIC18F2450/2550は、PIC16F873/876のような28ピンデバイス近似な、28ピンDIPのワンチップマイコンである。近年のPIC同様、内蔵オシレータを持っているが、USBを使うなら外付けを使う事になる。が、セラロックで充分。こいつはPLL内蔵で最高48MHzで動作するのだ。

PIC18Fシリーズは、従来の16Fシリーズとはかなり違う。メモリ割付が完全に変更されていて、あの山ほど有った特殊レジスタが、メモリ空間の片隅に連続して割付けられるようになった。すると、当然RAMは連続してアクセスできる訳だ。

アドレッシングも強化された。相対アドレッシングはサポートしていないが、間接アドレッシングは使えるレベルまで強化された。また命令にアクセスバンク指示のフラグを立てれば、どこからでも特殊レジスタが全てアクセスできるようになる。

命令体系は互換を保って拡張され、割り込みも2レベルだが優先度付きになった。特殊レジスタ名も変わらない。ジャンプ命令も、あの苛つくbtfss/btfsc命令を使っても良いが、普通のジャンプ命令も備えるようになった。多少泥臭い拡張だが、AVRマイコンと比較可能な水準に達していると思う。というか、もはや16Fシリーズを使うことも有るまい。PIC16F88、ふぉーえばー。(杉田智和の声で)


ただ、もはやおニューのジャンプ命令を使うこともあるまい。何故なら、Cコンパイラを使おうと思うからだ。

PICでCというと、以前から商用のものが幾つも出ているが、最近ではMicrochip謹製のC18体験版が定番らしい。しかし私はそこをあえて、オープンソースコンパイラ、SDCCを使おうと思う。

SDCCは8051やZ80などの小さな8bitマイコン用のCコンパイラである。EZ-USBを使おうとした人間なら、一度は試した事があるのではないだろうか。PICのサポートは以前から存在したが、完成度は低いと噂されていた。しかし、PIC18Fシリーズではどうだろうか。


以下にインストール手順を解説する。

SDCCでPICマイコン向けの開発を行うためには、gccでいうbinutilsに相当する、gputilsが必要となる。まずこれを作らなくてはならない。

http://gputils.sourceforge.net/からソースをダウンロードする。

>tar -zxvf gputils-0.13.4.tar.gz

>cd gputils-0.13.4

>./configure -prefix=/usr/cross

>make

>make install


次にSDCCだが、http://sdcc.sourceforge.net/で各プラットフォーム向けバイナリとソースを配布しているが、ここではCygwin使用を前提とする。

ここから最新の安定版パッケージをダウンロードしてくる。私の場合、sdcc-src-2.6.0.tar.gzだった。ダウンロードが終わったら、Cygwinの/usr/srcに展開する。

>tar -zxvf sdcc-src-2.6.0.tar.gz

展開が終わったらコンパイルだ。インストール先も一緒に指定する。場合によっては、gpasmやgplinkなどのあるパスを追加しなければならない。

>cd sdcc

>export PATH=$PATH:/usr/cross/bin

>./configure -prefix=/usr/cross

ここで、/usr/src/sdcc/device/lib/pic16の、makefile.commonの中を編集したほうが良いようだ。

どうもCFLAGSオプションが無視されているらしい。横着をしよう。


#CC = $(top_builddir)../../../bin/sdcc --asm=gpasm

CC = $(top_builddir)../../../bin/sdcc --asm=gpasm -mpic16 -p18f$(ARCH)


>make

>make install


 RCDライタとWinPicで書き込めることを確認した。詳しくはヘルプファイルを参照されたし。オンボードライティングしてみた(試作基板に他のIC無し)が問題は無さそうだ。まぁ、ICD2クローンなどに手を出すのが安全側なのであろうが……


さて、USB自作史について、簡単に説明しよう。日本においてはそれはMorphy USB-IOから始まると言っても過言ではあるまい。これに先行する例としては、USBN2902などを使った例などが見られたが、Morphy USB-IOは単純なDIPデバイス1個きりという構成で、しかもHIDデバイスとして認識され、特別なデバイスドライバのインストールを必要としない特徴によって、USB自作デバイスの概念を大きく変えた。日本のオープンハード界に未だ癒えぬ傷跡を残したMorphy-One関連の、唯一つのまともなアウトプットであろう。自分は2000年の冬コミでバージョン3を買った。(今見るとこりゃ駄目なアートワークだなぁ。ピン間配線なんかしなくても……)手元にあるこの構成に、ようやく今辿り付いた気がする。


(メモ:Morphy USB-IOのハードウエア設計そのものはオリジナルではなく、どこかのオープンな設計を参考としたらしい。ただ、設計と言えるような構成ではないので、オリジナリティがどうのこうのという話は無意味であろう。CY7C63001類似デバイスを用いた、近似のハードウェア構成のものが、2000年6月号のトラ技で紹介されているが、これは別にデバイスドライバのインストールを必要とするもので、別物と見るべきだろう)


残念ながら使用されていたデバイスCY7C63001は入手が難しく、多くの自作者がEZ-USBなどに向かった。かくいう私もその一人である。しかし、EZ-USBことAN-2131SCがディスコンとなり、後継であるEZ-USB FX2LPに向かうか、AVRでソフトウェア実現ってのに乗るか、それともUSBシリアル変換でお茶を濁すか、と思案していた時に、PIC18F2450/2550の扱いが始まったのである。

秋月の通販なら、コネクタ、C基板、セラロック、コンデンサに抵抗、全てが容易に揃う。


さて、PIC18F2550も、プログラムが無ければUSBデバイスとして振舞うことは無い。できればHIDデバイスとして振舞わせたい。EZ-USBでそのあたりは既に成功しているので、高レベル動作に関してはさっくりと移植できるのではないか、という希望を持っている。

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同人誌「宇宙の傑作機 No,10 アポロ誘導コンピュータ」くだん書房さんにて販売及び通販の取り扱いをしていただいています。



ソ連時代の著作に対する著作権保護の現状 -2006年8月4日(金)19時12分


ソ連は共産主義国家だったから、著作権も特許も個人所有のものは無かった、とみなすのは、基本的には誤りである。例えば61年法のうち、著作権に関する記述(英訳)を読むと、著作権は、ソ連で発表されたものは市民権の有無によらず著者と相続人が所有し、原則として著者の生存期間、つまり死後0年としている。

ただ、ソ連の例えば文芸作品の著作権は大抵の場合、作家同盟などによって購入され、移動したものと考えられる。つまり国家所有である。国家所有のものは保護期間の規定が無いため、事実上永久に存続する。これは公有、パブリックドメインみたいなもので、正直ソ連はこの辺り適当である。あと1961年以後のどこかで、死後保護期間は15年、更には25年(20年という話もある)になったらしい。ソ連は1973年5月27日に万国著作権条約に加盟している。これ以前に発表された作品には万国著作権条約の効力は及ばない、筈だった。

現在ロシアの法では著作権保護は権利者の死後50年存続する。特例として、著作者が復員軍人だった場合、リハビリ期間を勘案して4年の著作権保護期間の延長を認める場合がある。

ロシアは1995年にベルヌ条約に加盟し、これは遡及して効力を発する。但し、1993年1月1日時点で25年の保護期間が終了している著作物については、遡及されない。


つまり、今現在、近代ソ連の著作物の相当範囲が著作権の保護下にあると考えていいだろう。戦時加算は無いから、1968年以前に死んだ人物、例えば1966年1月14日に死んだコロリョフの著作権は、日本においても保護は切れていると考えられる。

また、ベルヌ条約加盟以前に公有とされている著作権は、ベルヌ条約の保護対象外とされているが、異論もあるらしい。まぁ、作家同盟などに移動させられていた著作権の扱いは問題だろう。

写真はどうだろうか。自動カメラの撮影には著作権は無いと考えられ、無名者または団体名義の著作権は公表後50年保護されると考えられる。ロシアの場合、国家などの団体名義で著作権が所有されている場合が殆どであるため、前述条件を適用して、1968年以前に団体刊行物で公表された写真に関しては、著作権の保護が切れていると考えて問題無いのではなかろうか。

自動カメラに、衛星や惑星探査機の撮影した画像が入るかは考え物だが、著作権が発生すると考えるほうがおかしい気がする。意匠をこらした撮影を意図したカメラなら話は別だろうが、アングルやライティングにどのような意匠も及ぼし得ない撮影状況ならば、著作権は発生しないと考えるべきだろう。

自動カメラに、射点カメラが入るかどうか、これはアングルに工夫が認められないこともないため、著作権が発生する場合がある。冷戦後公表されたものに関しては、著作権による保護が存在すると考えたほうが良いかも知れない。

1968年以後に公表された著作物は、2018年以降に、少しづつ保護が切れてゆくこととなる。宇宙開発関連だと、1968年というのは極めて微妙な時期であり、例えばN-1打ち上げ機の写真を自分のサイトに貼りたい場合は、じりじりしながら2020年辺りまで待たなければならないだろう。場合によっては2041年ということも在りうる。また、ロシアにおいても著作権保護期間が死後70年にまで延長される可能性がある。というか高い。注意が必要である。

ソ連政府の刊行物はパブリックドメインである、という話もある、これが本当なら、かなりの資料がパブリックドメインになるが、ソ連政府の著作権は今誰が所有しているのか、ロシアと考えて良いのだろうか。ウクライナやカザフスタンはどうなるのだろうか。また、過去の政府組織の多くが現在民間企業である。それらの著作権はどうなるのだろうか。特許などは基本的には譲渡されたと考えるべきだろうし、著作権もそれに準じるだろう。


ソ連時代、1973年5月27日以前に発表された作品は全てパブリックドメインである、という考え方は今でも根強いようだが、これに素直に乗っかるのは問題だろう。但し、裁判沙汰になる可能性は現実極めて低く、また裁判に勝てる可能性もそれなりにある。現状ロシアにおける著作権の侵害は激しく、特にソ連時代は1973年以前に発表された外国作品もパブリックドメインとして扱ってきた経緯があり、前述の"ベルヌ条約加盟以前に公有とされている著作権は、ベルヌ条約の保護対象外"宣言などは大問題なのだ。要するにロシアにおける著作権管理は未だ混乱しており、裁判などで幾つもある穴を突かれると、彼ら自身がまず著作権保護の定義をやり直す必要が出てくる訳だ。特にロシアの著作権保護はディジタルコンテンツ保護関連でひと波乱あるだろう。ともかく、一度パブリックドメインになったものに再び保護を付与する事は難しい。

宇宙開発関係の画像で混乱を招きそうなのが、米NASAのGRIN収録の、一連のソ連関係画像だろう。許諾を取ったとしても、そっから先、NASAの基準で配布して良い物でも無いだろう。あれもNASAの画像等データ使用規約に従うと考えるべきだろうか。というか、あれが認められるなら、遡った元画像たちもNASAのお墨付きでパブリックドメインだと判断してしまって良いのだろうか。中には1970年代の、ソ連国内でも秘密にされていたであろう写真も混じっているのだ。

旧ソ連で1973年5月27日以前に発表された作品を全てパブリックドメインと看做しても、NASAの解釈に準じるだけだと考えれば、許容されるグレーゾーンなのかも知れない。


以上、

http://www.littera.waseda.ac.jp/littera/trc/sympo/trc_vol3_2.pdf

http://commons.wikimedia.org/wiki/Template_talk:PD-Soviet

などを参考にしました。


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ソ連宇宙開発関連の画像使用に関して、問題が無い線引きをはっきりさせておきたかったので。



宇宙の傑作機 No,10 -2006年8月2日(水)20時48分


コミックマーケット70(有明・東京国際展示場)8月12日(土)西れ-8a『風虎通信』にて「宇宙の傑作機 No,10 アポロ誘導コンピュータ」を頒布いたします。


内容は、アポロ計画において、アポロ司令船と月着陸船に搭載されたコンピュータ、アポロ誘導コンピュータに関するものとなっています。開発前史、アーキテクチャの変遷、実装不具合、ソフトウェアインタフェイスの仕様、運用状況、更にはディジタルフライバイワイヤ技術への貢献、そして以降の宇宙用コンピュータ開発の流れを概観します。

本書は、宇宙開発に興味のある者のみならず、コンピュータ史に興味を持つ者、そして何より、現役の組込みコンピュータ技術者に訴求する内容になったと思います。

アポロ誘導コンピュータは、初期のコンピュータとしては例外的に資料が多く公開されており、アーキテクチャの詳細から開発の流れまで、仔細に追う事ができました。最初期の組込みコンピュータである本機は、様々な技術の源流となりました。それら源流を追う事で、様々な技術の”何故?”を知る事ができます。

世界一詳しい本、という訳にはいきませんが、とにかくガッチンガッチンに内容を詰め込んでみました。はい。

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アーキテクチャ、仕様環境共に違い過ぎるので、前述誌には書かなかったものの、ネットを巡ると、ファミコンを基準にして性能を判断する記述が多いため、ここでちょっと言及します。


アポロ誘導コンピュータとファミコン、どちらの性能がより高いか?


アポロ誘導コンピュータでグラフィカルなゲームをすることは出来ないし、ファミコンの2kのRAMでは、恐らく月計画で要求されるようなプログラムを走らせる事は難しい。従って、評価する基準は存在し得ない。小さなベンチマークであるDhryStoneが走るかといえば、アポロ誘導コンピュータではまず走らないし、そもそも2.5キロバイト以上のRAMが必要なのでファミコンで動かす事は難しい。

しかし、ファミコンの性能は大体0.002〜0.003 Dhrystone MIPS程度と推測されている。アポロ誘導コンピュータの計算速度は均すと大体1命令辺り40マイクロ秒、0.025MIPSとなるが、これはDhrystone値では無いので単純比較はできない。MIPS値で比較するには、語長を初めとしてアーキテクチャが違い過ぎる。

ファミコンの駆動周波数は1.79MHz、アポロ誘導コンピュータは1.024MHz、ファミコンの6502互換CPUは、命令一つを2〜7クロックで処理するのに対し、アポロ誘導コンピュータでは12〜72クロックを必要とした。つまり、MIPS値はファミコンの方が遥かに高くなる筈だ。

但し、アポロ誘導コンピュータは15ビットの演算を一度に行なえるのに対し、ファミコンは8ビットつづ二度に分けて、しかも間に計算結果のメモリへの退避と繰り上がり/繰り下がりの処理を挟まなければならない。

掛け算になるとこれは大変な事になる。15ビット数同士の掛け算の場合、ファミコンはアポロ誘導コンピュータの128倍以上の処理を必要とする。処理時間に直すと6倍から8倍程度だが、これが更に姿勢制御用の三軸29ビット分の行列演算となると、ファミコンはもはや使い物にならない。


それでは、という事で、実アプリケーションを対象として評価を試みてみよう。

アポロ誘導コンピュータでゲームをしようとすれば、標準インタフェイスであるDSKYの3行5文字の10進数字ディスプレイを使う事となる。グラフィカルなゲームは難しいだろう。入力には操縦桿が使える。やろうと思えばジャイロと加速度センサも使えるが、これは手に持って振り回すには、ちょっと重すぎる。


ファミコンを宇宙船制御に使う方にはまだ可能性がある。10キロバイトのVRAMが、面倒な手順が必要ながら読み書き可能であり、ROMカートリッジ上のメモリマッパを介して、割り込みを含むI/Oの拡張が行なえるならば、アポロ誘導コンピュータ同等機能を実装する事が可能だろう。実際にはI/Oの大半はパルストランスで絶縁されたパルス信号で、ROMカートリッジ上にインタフェイス回路とパルスカウンタを組み込む必要がある。

ハードウェアと比較すると、ソフトウェア的な比較は簡単である。スタックポインタと各種アドレッシングモード、整理された命令体系を持つ6502互換CPUを使ったファミコンの方が、語長の不利や、VRAMアクセスの不利を踏まえても、アポロ誘導コンピュータより遥かに有利である。また開発環境も整備されており、月計画用ソフトウェアを開発したとしても、それは容易であろう。ただ、姿勢制御演算の計算速度はアポロ誘導コンピュータよりも遥かに遅くなる。実際のところ、速度的に使えない可能性が高い。

そしてもう一つの問題は、ファミコンが宇宙で使えるかという点である。耐放射線性はデバイスやロットによって違ってくるが、半導体メモリが放射線に対して脆弱であるのは間違いない。また、国産ファミコンで使用されたCPU RP2A03はNMOSプロセスであり、SEU、SEL共に弱い事が予想される。ただ、月計画では宇宙飛行士が居るため、暴走したとしてもリセットをかける事が出来る。これはアポロ誘導コンピュータでも同様である。しかし、あまり頻繁に暴走するようだと使えない。


正直言って、大きな数の掛け算だらけである姿勢制御演算では、アポロ誘導コンピュータのほうが、ファミコンより性能が高いだろう。



ソヴィエト・ロシアのアマチュア無線衛星#2 -2006年7月22日(土)01時05分


次にアマチュア無線衛星が打ち上げられたのは1987年になる。盛んであった学生衛星開発はすっかり下火になり、この中断の間に予定されていたRS-9の打ち上げもキャンセルされている。新たに打ち上げられたのはRS-10とRS-11、しかしこれはソ連の第二世代型測地航法衛星Tsikadaシリーズ、プレセックからほとんど極軌道に打ち上げられた820キログラムの衛星Cosmos1861の中の、サブコンポーネントの一つに過ぎなかった。

Tsikada衛星は1976年から20機が打ち上げられた。これは複数衛星の出すVHF信号のドップラーシフトを利用して現在位置を割り出す、およそ高度1000キロを飛ぶ10機の衛星で構成されるシステムだった。このシステムは運用後期から民間でも利用可能となった。主な利用者は漁師や船員で、恐らく彼らの利便のためにアマチュア無線のトランスポンダが搭載されたものと思われる。このトランスポンダはKaluga電気機械工場で開発されたものである。

使用されたアマチュア無線帯域は、言うまでも無く世界のアマチュア無線愛好家全てに共有されている。この衛星の出力は強力で、容易に捕捉可能なものだった。しかも動作は安定しており、ロボット応答機能も搭載されていた。この衛星は世界中のアマチュア無線愛好家の中で極めて人気の高いものとなった。

宇宙ステーション・ミールにアマチュア無線局が開局したのは1988年である。

RS-12とRS-13の打ち上げはソ連崩壊後の年になる。RS-13は現在でも運用されるロシアのアマチュア無線衛星の代表格である。これもRS-10/RS-11と同じように、Tsikada衛星Cosmos2123のサブペイロードであった。


これと同じ頃、ソ連/ロシアでもアマチュア無線家主導の、アマチュア無線衛星の計画がようやく立ち上がっていた。1989年、ソ連においてようやくパケット通信が解禁されると、モスクワとベラルーシの有志たちは、東ドイツ、後にドイツの有志らと共同で、新しい通信システムの開発に取り掛かった。彼らがAMSAT-USSR、後のAMSAT-RUSSIAの基礎となったのである。彼らの開発したRUDAKディジタル通信システムはRS-13に搭載されたが、これはうまく動作しなかった。

続いて、全く新しい衛星RS-14が企画された。この衛星は、新しい世代の衛星として、Radiosputnik-M1とも呼ばれた。これは独立した衛星であり、ディジタルトランスポンダとAX.25(X.25規格のアマチュア無線版)規格対応メールボックスを搭載していた。この衛星は1991年1月に打ち上げられ、RS14、またはAO-21と呼ばれた。


1994年になるとミールにアメリカ人のアマチュア無線機材が運び込まれ、使用された。その後特筆すべき実験として、低速スキャンビデオ画像のアマチュアパケット通信による伝送が広く行なわれた。


RS-15はサンクトペテルブルグのMozhaisky軍学校の教育の一環として学生によって作られた。この衛星は70キログラムの小型衛星で、更にRS-16もRS-15と共通の構体であったが、GPSレシーバやGLONASSレシーバなどを搭載していた。重量は87キログラム、1997年にスタールト打ち上げ機の最初のペイロードとして打ち上げられた。


RS-17はSputnik-1を記念して作られた、1/3スケールの衛星で、1997年にミールから放出された。同時に予備機も宇宙に挙がっていたが、この機体はロシア側からの提案で、フランスのアマチュア無線家たちによって新造された機体と交換され、放出された。そしてこれがRS-18となった。二機ともオリジナルと同様に機体温度をしめすビーコンのテレメトリを持っていたが、RS-18は更に、録音された音声を再生送信する機能を持っていた。


RS-19は、正確にはアマチュア無線衛星では無かった。この機体はロシア側の依頼によって、フランスのアマチュア無線家たちによって作られた、もう一台のRS-18、同型機である。依頼したのはモスクワの管制オフィス、要するにTsUPらしい。

しかし、ロシア側はこれをスイスの時計メーカー、スウォッチ社との商業的コラボ企画に勝手に使うつもりでいたのである。スウォッチの所謂"Swatch Internet Time"に同期してビーコンと様々な言語によるメッセージを送信し、更に"Beatnik"なる愛称も決まっていた。しかし、当然だがアマチュア無線帯域を商業用途に使う事はできない。各方面のアマチュア無線家の抗議により、結局スウォッチ社は企画を断念し、RS-19はミールまで運ばれたが、その送信機はオフ状態で船外に放出された。

この辺りはThe Many Little Beeps Heard 'Round the Worldに比較的詳しい記述がある。


RS-20はMozhaisky軍学校と、クラスノヤルスクのReshetnev記念応用機械工学NPOによって製作された、90kgの衛星である。RS-20は2002年11月に打ち上げられた。RS-22もMozhaisky軍学校製で、これは2004年9月に打ち上げられた。

RS-21はオーストラリアとロシアの小中学生の国際宇宙教育プログラムの中で作られた。シドニーとオブニンスクの子供達が作った20キログラムの衛星はKolibri-2000と名付けられた。RS-21は正式名という事になっている。この衛星は2002年3月に、ISSを離脱したProgress M-17から放出され、一ヶ月半の間テレメトリを送信した。

この辺り、RS-20,21,22のテレメトリ形式は同一で、周波数も似通っている。


Suitsat-1は国際的な枠組みで作られ、AO-54の名称を得たが、その構体はロシア製Orlan-M船外宇宙服である。船外宇宙服には使用回数制限があり、使えなくなった宇宙服にケンウッド製無線機とPICマイコンを使ったコントローラ、低速スキャンビデオ画像カメラが搭載された。Suitsat-1は2006年2月にISSから放出されたが、送信出力が計画値より極めて弱く、満足に運用できないまま二週間後に寿命を迎えた。不具合の原因は送信機周辺にあると見られている。

詳しい情報、経緯などは宇宙服衛星SuitSat-1を受信してみよう!などが参考になる。

また、比較的詳しい説明がこちらにある。更に詳しくは下のリンクなどを参考されたい。

THIS IS SUITSAT-1 RS0RS!!



ソヴィエト・ロシアのアマチュア無線衛星#1 -2006年7月8日(土)07時16分


世界最初のアマチュア無線衛星OSCAR-Iは、米空軍のソーアジェナロケットにつけるバラストの代わりに、カリフォルニアのアマチュア無線家の作った、VHFのモールスビーコンを出す発信機を取り付けただけのものであったが、それは宇宙が国家機関ではない、アマチュアのレベルに降りてきた最初のチャンスであった。1961年のことである。

以後アマチュア無線衛星は次々に発展を遂げてゆく。翌年のOSCAR-IIは、断熱を改良した上、内部温度をモールスのテレメトリとして送信した。1965年のOSCAR-IIIは軍用気象衛星のピギーバックとして、遂に独立した衛星となり、トランポンダを積んで、アマチュア無線家たちの通信を中継した。同年のOSCAR-IVは遠地点29120kmの楕円軌道に投入され、長距離の通信を可能とした。ソ連のアマチュア無線家との通信を可能としたのもこの衛星である。

オーストラリアの無線家たちが作ったOSCAR-5にはコマンドデコーダが搭載されていた。また永久磁石による磁気スタビライザで、衛星のスピン速度を減速することも試みられた。打ち上げは1970年にずれ込み、この間のごたごたの調整のために法人組織AMSATが確立された。

やがて彼らの目標はフェーズIIと呼ばれる次の段階へと移っていった。1972年に打ち上げられたフェーズII衛星OSCAR-6は、太陽電池で電力をまかない、他の衛星へとメッセージを中継する機能を持っていた。この重量16キログラムの衛星は5年近くも運用された。

1978年に打ち上げられたOSCAR-8は、RCA社製CDP1801マイクロプロセッサによるコンピュータを搭載した。これは同時に、マイクロプロセッサを搭載した最初の衛星となったのだ。


ソ連のアマチュア無線衛星は違うプロセスで生まれた。教育プロジェクト、将来の宇宙産業を担う人材の育成のために生まれたのである。モスクワ電力工学研究所(МЭИ)において1971年に始まったプロジェクトは、1973年には実際に党に草案を提出する段階まで進んだ。

モスクワ電力工学研究所は工科大学併設の研究所で、制御工学、特にソ連における初期のコンピュータ開発で重要な役割を果たした機関である。ソ連コンピュータの父レベデフはここでコンピュータの基本概念をまとめ、後にコンピュータBESMの組み立てにここの学生たちを参加させている。

しかしこの最初の試みは失敗した。Radio(Радио)誌編集部の助力にも関わらず、打ち上げ計画を掌握している軍事産業委員会(ВПК)はこの計画を評価しなかった。1975年にようやくプロジェクトは動き出すが、これはアカデミー会員になっていたOKB-1のミーシンと、大祖国戦争のエースパイロット、ポクルイシュキン(Покрышкин.А.И)の支持によるものだった。

ソ連邦陸空海軍義勇協力会(ДОСААФ)が窓口となり、Radio誌の協力の下に、1976年に制作は始まった。実際の制作は高校生たちが行なったらしい。

というのも、大学生のほうは、その後1981年から打ち上げられたIskra衛星の開発製造に参加しているからである。これにはモスクワ電力工学研究所の工科大学の学生が参加している。

他の学生参加の衛星開発の例としては、1989年に打ち上げられたPion-1,2衛星の開発への、サマラ航空宇宙大学の学生の参加が挙げられる。こちらは高層大気の観測を目的としていたが、真の目的は教育と技術者育成であろう。

アマチュア無線衛星(Радио Спутник)RS-1とRS-2は1978年に、極軌道気象衛星Cosmos1045のピギーバックとして打ち上げられた。両機とも、重量40キログラムの気密された銀亜鉛バッテリー動力の機体で、VHF帯のトランスポンダを搭載していた。そしておよそひと月の寿命を全うした。


Iskra衛星の最初の機体は、1981年に極軌道気象衛星メテオール1-13のピギーバックとして打ち上げられた。重量は24キログラム、これもまた気密構造だったが、円筒形状の表面には太陽電池が貼られていた。衛星構体そのものはRS-1/2と共通だった可能性がある。また、コイル状に巻いて格納された展開式のアンテナを持ち、永久磁石による磁気スタビライザも搭載されていた。

Iskraのトランスポンダは21MHzのアップリンクと28Mhzのダウンリンクをサービスし、そのうえ29Mhzのモールスによるテレメトリも降ろしていた。地上からのコマンドにも応答していたようである。コンピュータを搭載していたとするドキュメントもあるが、それはちょっと考えにくい。しかしモスクワ電力工学研究所にはインテリジェントな宇宙用制御装置を作る能力があったことが知られてる。

Iskraは打ち上げ13週後に再突入して、その生涯を終えることとなった。


同じ年に、アマチュア無線衛星RS-3,4,5,6,7,8の計6機が、同時に打ち上げられた。今回はピギーバックではなかった。これらの製作にはモスクワ大学アマチュア無線クラブが関わったらしいが、同時にこの衛星たちはIskraベースの機体だったらしい。

RS-3,RS-4は技術評価が目的の衛星で、コマンド応答とテレメトリを降ろすだけだったが、RS-5,RS-7にはロボット応答機能を持ち、特定の呼びかけをすると、それに対して特定のメッセージを返した。つまりこれはロボットが応答する無線局であり、交信者にはCQDカードが発行された。

RS-6,RS-8はRS-5.RS-7の予備だったらしい。この二機は世界中のアマチュア無線愛好家の要請にも関わらず、公開運用には至らなかった。人員や設備、お金など運用リソースが限られていたのかもしれない。

この6機の衛星の開発、制作には多くの学生が関わった筈である。衛星は太陽電池を持ち、モールスコードのテレメトリを降ろし、1988年まで運用された。

 

1982年、Iskra-2衛星がソユーズ宇宙船で宇宙ステーションSalyut-7へと運ばれた。Iskra-2はそこで船外活動で軌道投入されたのである。この様子はモスクワ放送で生中継された。

Iskra-2は航空大学の学生によって作られた。宇宙ステーションの軌道はかなり低い。二ヶ月後にIskra-2は再突入してその生涯を終えた。同じ年の暮れに、Iskra-3がSalyu-t-7に持ち込まれ、放出されたが、こちらはひと月後に再突入した。

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「宇宙の傑作機 No.10 アポロ誘導コンピュータ」どうやら出せそうです。



第一次バッジシステム -2006年5月29日(月)23時37分


バッジ(BADGE:Base Air Defense Ground Environment)システムとは、1969年に運用を開始した、日本の半自動防空システムである。これは半自動航空警戒管制組織とも呼ばれる。

バッジは元々、米国のSAGEを手本として導入が考えられた。対象は航空機で、弾道ミサイル等は対象に入っていない。また、そもそも対処できなかった。

第一次BADGEは1962年に採用装備計画を開始した。システムはアメリカのシステムが採用された。当初から国産システム開発の考えが無かったのは、日本の高度軍事システムの特徴でもある。当初GE、リットン、ヒューズの三社が提案を行なったが、1963年、最も安かったヒューズ社提案が採用された。

主契約先は日本アビオニクス社だったが、当然背後は丸ごとヒューズ社である。しかし開発は遅れに遅れ、開発費用は当時の価格で130億円から250億円まで増大し、運用開始時点で機能の1/3しか実現できていないという体たらくだった。


システムは日本各地に点在する数箇所(函館ミグ亡命以降は、早期警戒機からの入力を含む)の、三菱製国産三次元レーダからのテレメトリを、府中の航空自衛隊航空総隊司令部に設置されたヒューズ社製H-330Bミニコンピュータで処理し、地対空ミサイル部隊または要撃戦闘機に直接マイクロ波(OH)のデータリンクで指示するものだった。

H-330Bはヒューズの初期のトランジスタ(真空管の可能性もあるが、まさか……)コンピュータH-330の、恐らくは日本向けバージョンで、16キロバイトのメモリを持っていた。このメモリというのはコアメモリであろう。時期的には磁気ドラムも考えられるが、それでは使い物にならない。

また、恐らくシステム構築開始直後にもう一台、H-3324というコンピュータを追加している。仕様は不明だが、これが冗長用だとすれば、この機種は恐らくH-330Bとほぼ互換の機種で、時期的にみてICを使ったものでは無いだろう。性能的にはPDP-8の足元にも及ばなかった筈だ。

ヒューズ社のミニコンは殆ど売れず、しかし特殊用途ということで細々とサービスを続けていたようである。これらは稼動開始時には既に化石同然の代物であり、そして、空自はこのシステムを1989年まで使用していたのである。


ソフトウェアはヒューズ社製で運用を開始し、その後空自内にソフトウェア開発部隊が創設されたが、国産ソフトウェアを使用したかどうかは不明である。

システムはほぼ標準的なTSSオンラインシステムで、ディジタルメッセージへの自動応答などの機能を含んだ。コンピュータはミニコン二台なので、待機冗長を組んでいたとみるのが妥当だろう。但し、そうなるとシステム構築初期には冗長系は無かった訳だ。表示システム周りは比較的早めの1966年には完成していたようである。

こちらのサイトに当時のハードウェアの写真がある。


ヒューズエアクラフトは当時、"自由主義世界"の防空システムの90%に関与していると謳っていたが、これは即ち、それらがアメリカ主導の対ソ連システムであることを端的に語っている。まぁ冷戦下の話なので仕方が無いといえばそうなのだが、類似システムであるNATOのNADGEは、ヒューズら数社によるコンソーシアムによって1957年から構築を始めて、1962年に最初のシステム運用に至った。更にシステムは1963年から1965年の間に改修されている。

要するにBADGEには先行事例が、ヒューズエアクラフトには経験がそれぞれあった訳だが、それでもグダグダになったのは面白い。


時折バッジシステムこそ日本最初の大規模オンラインシステムだとする主張が見られる事があるが、国鉄のMARS-1が1960年、みどりの窓口運用開始が1965年であり、全くの的外れである。逆に、第一次バッジシステムの存在は、日本のコンピュータ産業史からは全く黙殺された(例:"日本のコンピュータ発達史" 情報処理学会 オーム社 ISBN4-74-07864-7)状態となっているのが事実である。実際のところ、日本のコンピュータ産業に対する影響は実質無かったものと思われる。

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Interface付録のほうは、現在電波時計製作で挫折中。いや、40kHz程度、ダイレクトにA/D変換でサンプリング出来そうだし、と思いついたのは良かったのですが、同調させた筈のアンテナから増幅してやると、50Hz交流の波形しか取り出せなくて……



アメリカにおける宇宙用コンピュータ開発史#3 -2006年5月18日(木)21時54分


アポロ月着陸船には二種類のコンピュータが搭載されていた。主誘導制御システム(Primary Guidance, Navigation and Control System:PGNCS)はよく知られたアポロ誘導コンピュータAGCと同一アーキテクチャの機械だが、もう一つのコンピュータは有名ではない。

ミッション中断時誘導装置(AGS)は、月着陸船のAGCがおかしくなった時に、ミッションを中断して宇宙飛行士たちを救うための予備装置として、月着陸船に備えられた。

これはTRW社によって造られた18bitコンピュータ、Marco4418と慣性誘導装置の組み合わせで、ただ単に着陸船を月周回軌道に乗せるためだけに特化した装置だった。司令船とのドッキングに関しては、司令船側に任せることになっていた。

Marco4418は2キロワードのROMとRAMを持ち、重量15キログラム、15リットルの容積と90ワットの電力を消費した。メモリ空間は12ビット4キロワードで、下位にRAM、上位にROMという構成だった。I/Oは専用のI/O空間にマップされていた。汎用と算術補助、インデックスの3種のレジスタもメモリにマップされていない。命令は5ビットで、アドレスやデータ即値と一緒に、二度の8ビットアクセスでラッチされた。残りの1ビットはインデックスビットと言い、インデックスレジスタの内容でアドレスフィールドの内容を修飾するのに用いられた。

命令は27種類で、どれも10マイクロ秒から70マイクロ秒で処理された。データは2の補数固定小数点表現だった。DSKYに相当するユーザインタフェイスDEDAは、DSKYに似ていたが更にシンプルになっていた。

慣性誘導装置はストラップダウン方式で、PGNCSのものと違い、ジャイロ本体は慣性系に対して静止していない。この方式は精度が出し難いが構成が簡単になる。

ソフトウェア開発では高級言語は用いられずアセンブラが使われたが、開発プロセスはAGCに比べて大幅に洗練されていたようである。特にテストプロセスには進歩のあとが見られる。

AGSは"Backup Guidance System"略してBUGSと称される事もあったが、使用されたごく僅かな機会では、その役割を立派に果たしている。アポロ10号ミッション時、着陸船上昇段分離時にAGSが使われたが、この時は呼び出したプログラムが目的の三軸安定用ではなく、間違えて司令船追尾用を使用してしまった為に着陸船の姿勢は大揺れした。しかしこれはプログラム的には正しい動作である。

アポロ11号ミッションでは、月面から上昇してきた着陸船上昇段のAGCはジンバルロックを起こしてしまい、操縦していたアームストロングは姿勢制御をAGSに切り替えて事なきを得ている。

これらが、AGSがミッションで使用された数少ない例である。結果としてAGSは本来の役割を果たす事は無かった。宇宙飛行士によっては、いざとなればAGSを月面降下用に利用できると、その方法を知っていると主張する者もいたが、そんなことが可能かどうかは疑問である。

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「宇宙の傑作機 アポロ誘導コンピュータ」原稿ですが、順調に煮詰まっています。

アポロ誘導コンピュータは駄っ作機じゃよ!AGCは設計の腐ったPICマイコンじゃよ!クロック2MhzでRAM4kのPICマイコン、RAMが増えても全然嬉しくないのも全く同じ。FPGA化しようとしてVHDL書いてたけど、訳判らない命令多過ぎじゃよ!



Interface誌2006年6月号付録#2 -2006年5月11日(木)23時11分


さて、例の付録で何を作っていたかというと、ソフトウェアCRTC、ビデオ出力をプログラムで作ろうという奴である。詳しくは平松氏のソフトCRTC for SH7046の記事などを参考にしていただきたい。

実際、上記ページの内容は大いに参考にさせていただいた。というか、基本的な仕組みは丸パクリである。違う点といえばgcc適合、モノクロ2値(128×192)、それと出力回路くらい。


ソフトウェアCRTCは来月のInterface誌の記事にありそうなのだが、外付け回路の規模が極小で済むので、手慣らしにはうってつけである。

ここに自前ソース一式を置いておく。ソースの内容で変な部分があれば、それは多分変なので気にせず弄っていただきたい。LCD-7100Vのコンポジット入力では水平同期が取れない(本当に75Ω終端か?50Ωくらいじゃないのか?)が、他のモニタでは問題なく……映った。自分のモニタで問題があるという場合は出力回路を弄ったほうが良いだろう。



ティーポット考 -2006年5月5日(金)03時43分


こないだ愛用のティーポットを割ってしまい、代わりの品を探していたのだが、考えてみれば、割れない奴があるならそれに越した事は無い。容量も大きなほうが良い。そうなるとつまり、ステンレス魔法瓶をティーポットとして使えないか、という話になる。

以前使用していたティーポットには、V字型の底をした樹脂フィルタが一緒に付いてきた。紅茶は勿論、コーヒーにも使えたそれは便利で、私は気分によってコーヒーを飲んだり紅茶を飲んだり、要するにそういう利便性は次世代ティーポットにも引き継ぎたい。

となると、問題は市販の魔法瓶と樹脂フィルタとの適合性という事になる。

組み合わせを幾つか試した結果、象印のステンレス魔法瓶SH-FA10-XJに行き着いた。瓶の口が広く、口径6.5cmとパッケージに書いてあったので選んだのだが、瓶の中せんが嵌る部分の段差がセレックの樹脂フィルタV-0にぴったり。V-2フィルタも一応嵌るので、コーヒーを淹れるのにも使えるだろう。比較的安価だったのも助かる。

早速紅茶を淹れてみたのだが、1リットルがいつまでも熱いってのは素晴らしい。蹴飛ばしても安心。栓はクリックで完全に封止されるのでこぼす事も無し。仕事場でも使おうか。


風情が無い?いやどうせ、カップもステンレス製、宇宙研土産のマグだし。これからはステンレスマグにあわせたチョイスというのもあっていいのでは無かろうか。



Interface誌2006年6月号付録#1 -2006年4月28日(金)22時01分


Interface誌2006年6月号には、SH-2マイコン(SH7144F)が付録として付いてくる。付録というには極端にパワフルな代物だ。SH-2というとセガサターンに二個積まれたアレである。48MHzで駆動するSH-2は、同じクロックのH8の一桁上のパフォーマンスを叩き出す。

SH7144Fは、256キロバイトのフラッシュROMと8キロバイトのRAMを内蔵しており、しかもシリアルポートからROMが焼ける。ボードには3.3VのレギュレータとRS-232Cドライバ、12Mhzの水晶発振子が積んであり、コネクタの追加だけで動かす事が出来る筈だ。

……という訳で早速動かしてみた。電源を供給して、基板に表面実装されたLEDが点滅するのが確認できる。SH7144Fには4ポートのシリアルインタフェイス、8チャンネル10ビットのA/Dコンバータ、何に使うのかまだ把握していない多量のタイマ等持っており、未だにH8を使っている人には是非とも乗り換えをオススメしたいデバイスである。


さて、本題は雑誌付録CD-ROMに付いてくる純正開発環境HEWを使わずに、gccで開発するための手引きである。以降は既にターゲットsh-hitachi-elfでクロスコンパイラを作成済みの方の為の内容である。

ここにちょろっと作成したプログラムのソース一式を置いている。デバイスへのプログラムのロードには付録CD-ROM中のフラッシュライタが今のところ必要である。動かしてみると、LEDがせわしなく点滅し、シリアルポートから"ok"とだけ出力される。

ソースを見れば判るが、中身は適当、片手間のでっちあげである。それでもまぁ、Cで書いたものが動くところまで行けるので、色々やってみて欲しい。



ソ連における水が生きている事に関する研究について -2006年4月1日(土)00時11分


水が言葉や文字を解し、反応する事は現在においては周知の事柄とされるが、ソ連においても、このような水の高度情緒反応は古くから注目され、これを応用しようと様々な研究がなされた。

水が高度な抽象概念に対応することから、脳内において水が情緒や高度抽象概念を生み出しているとしたのはA.A.ゼフで、1950年代後半、これは当時のサイバネティクス弾圧の時流に乗って、一時期は定説とされた。学校教育でも同様の教育が行われ、各地で”実験”が行われた。

水を詰めた瓶に、Буржуа("ブルジョア")と書いた紙を張るとその水は速やかに腐敗し、Пролетариат("プロレタリア階級")やКоммунистический("共産主義者")と書いた紙を張ると、いつまでも飲用に適した状態を保つばかりか、かすかな芳香を漂わせるようにすらなる、という実験結果が各地で報告された。

これら実験の成果を受けて、遺伝学者B.B.レフは水の進化促進実験を行った。彼は基礎的な概念から出発し、究極的に共産主義に至る概念体系に正しい応答を示す水を選抜しては共産主義的刺激を繰り返し与えた。

こうやって誕生した水は、穀類の収穫を数倍するのみならず、大型蒸気タービンの効率を理論値近くまで引き上げ、飲んだ人間の自主的勤労を促進するとされた。しかし得られた水の量が少なかったため、社会的インパクトを与えることは無かった。ただ、この成果そのものは当時のソ連遺伝学の最高権威であるルイセンコにも高く評価され、後にバイカル湖水の全面的共産化実験につながっていくこととなる。この実験は1970年代終わりに成果を得る事無く打ち切られた。B.B.レフ曰く、バイカル湖の水は全て最初から死んでいた、死んだものが生き返ることが無いのは自明であると述べている。

水の高度情緒反応を機械読み出し可能として、人工知能システムに応用しようとしたのはC.C.ネフで、1984年のことになる。水は電気的には全く様子が変わらない様に見え、変化の判定には猜疑心の薄い人間が必須であるという仮説さえ提案された。読み出しに人間が必要なら人工知能システムの意味は無い。しかし、結晶時の様相で読み出しが可能になるという可能性が突破口となった。

当時、ソ連の早期警戒システムは深刻な警報ミスを経験した直後で、高度な判断を自動化しようという方向性が模索されていた。そのため研究資金は潤沢だったが、研究は機密とされた。当時のソ連の光電センサの性能は低く、ノイズが多かったが、最終的にはそれっぽいアウトプットを得られるようになったようである。

しかし、このシステムの実用化は見送られた。水の共産主義化が不足していた為であると云われている。要するに、この水、審美的見地から人類皆殺しを決意したらしいのだ。

これ以降、ソ連における水の高度情緒反応の研究は途絶える事となる。

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云うまでもありませんが上記、嘘です。日付参照のこと。

"ソ連におけるゲーム脳研究"も捨て難かった(テトリスで資本主義諸国の青少年のお脳をパーに!)けど、アホっぽさでこちらを。



世界最初のマイクロプロセッサ異説 -2006年3月30日(木)21時54分


世界最初のマイクロプロセッサというと、日本においてはi4004がそれであったという認識が一般的であるが、これには異論が存在する。

1970年に作られたマイコンチップセット、MP944がそれである。

MP944は米海軍の戦闘機F-14Aの動翼制御のために開発された、MOSプロセスで製造された6種のチップセットである。その中には専用のRAMとROMも含まれる。これらチップを計28個組み合わせて一台のコンピュータが作られた。うち19個がROM、3個がRAMである。

語長は20ビット、クロックは375KHz、ROMは2432ワード、RAMはわずか48ワードという構成のこのマイコンはグラマン傘下のGarrett AiResearch社で1968年から開発を開始し、1970年に完成したが、軍事機密であるこの存在は、1997年まで明かされることは無かった。

但し、Computer Design magazine誌1971年1月に発表された記事"Architecture Of A Microprocessor"の中で、MP944と思しきプロセッサの構成が述べられている。


詳細は以下のサイトへ。

"The F-14A Central Air Data Computer Microprocessor"




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