航天機構
履歴
what's new
水城
self introduction
読書
bookreview
宇宙
space development
化猫
"GEOBREEDERS"
雑記
text
他薦
link
Send mail to:mizuki@msd.biglobe.ne.jp

lifelog

not diary, not blog

-過去ログ-



韓国の宇宙開発史#11 -2012年10月28日(日)22時54分


 韓国のロケット開発は、有り物の固体ロケットを継ぎ接ぎしたKSR-IおよびIIの世代から、12.5トン級の大推力液体エンジンを用いたKSR-IIIの世代へと、唐突に推移した。

 12.5トンエンジンの開発過程には謎が多い。韓国航空宇宙学会の論文にKSR-IIIの名前が現れるのは1999年が最初である。液体エンジンに関しては衝突型インジェクタの初期の研究成果発表がいくつか見られる。2000年はインジェクタと、あと燃焼室の数値解析が現れる。2001年になるとKSR-IIIの機体要素についての発表がいくつか見られる。2002年はKSR-III特集号の有様を呈するが、液体エンジンに関しては最後まで単体燃焼試験に基づく発表は見られなかった。

KARIは燃焼試験設備として恐らく案興試験場にPTA-IとPTA-IIの二種の設備を建設した。PTA-Iは推進剤の代わりに水を流す水流し試験のための設備、PTA-IIはエンジンからタンク、そしてジンバリングまでロケット全系を試験可能なBTF燃焼試験設備である[40]。一番肝心な中間段階、普通の燃焼試験設備、普通のテストスタンドの存在がさっくり抜けている。

 その抜けた部分の、12.5トンエンジン単体の燃焼試験はロシアで行われたが、その時期は不明である。PTA-IIでの燃焼試験では燃焼不安定を経験したものの、制御シーケンスの見直しで解決したという。燃焼不安定の問題は普通単体燃焼試験の段階で対処すべき問題だ。その後この燃焼試験設備はどうなってしまったのだろうか。多少の改修で他のエンジンの燃焼試験にも使えた筈だが、KARIにはそういう使い方は念頭に無いようだ。というか水流し試験専用の設備というのがまずよく解らない。水流し試験はどこでもよくやる基礎的な試験で、燃焼試験設備をそのまま使えば済む。特殊な設備は不要だ。不要な設備の存在と、必要な設備の不在は、おそらく通常の開発プロセスが存在しなかったことを物語っている。


 1994年の手のひらサイズのヒドラジン一液式エンジンから、1997年の12.5トン推力液酸ケロシンエンジン開発開始、そして2002年のフライトバージョンへの技術の跳躍は、通常の技術開発では普通ありえない奇跡である。通常それは予算が潤沢でも15年以上かかる工程だ。そしてその工程には様々な中間段階の試行錯誤がなければならない。

 しかもその奇跡を成し遂げた独自開発路線はあっさりと放棄されてしまう。その後の30トン推力エンジンの開発の迷走も謎と言うしかない。一体どうやって12.5トン推力の飛行可能なエンジンを作ることが出来たのか。それ以前の試験用エンジンはどうだったのか。その開発体制はどこから来てどこへ消えてしまったのか?


 筆者は最近「LEO ON THE CHEAP」という本と出合うことができた。1994年にアメリカで書かれた本で、今はパブリックドメインである[41]。本書は1990年代のあだ花となった民間ロケット開発の理論的指導書だったらしい。本書ではガス押し、ジンバル保持の液酸ケロシンエンジンを用いた小型の打ち上げ機のコストがきわめて安価であることを強調している。

 本書で取り上げられた例の一つがPacAstro社のPA-2打ち上げ機だ。先に挙げた例に忠実な構成で、一段目エンジンには120000lbf(約52トン)推力のPA-E120Kエンジンが用いられる。[42]

 PacAstro社のロケットは、Gary Hudsonが設立したPacific American Launch Systems社の"Liberty"シリーズ打ち上げ機計画に源流を持つ。80年代にPacific American Launch Systems社は低コスト打ち上げ機の提案をし、これは11トンを低軌道に2500万ドルで打ち上げると宣伝していた。この会社は元々はSSTO機開発のために設立されたもので、Gary HudsonのSSTO案はDC-Xの原型である。低コスト打ち上げ機の提案でSDIO(戦略防衛構想機関)からいくらかの資金を得た彼らは、Liberty使い捨て機の実機の開発を始めた。しかし、エンジンを含む一段目を一機制作したところで資金が尽きた。DARPAがオービタルサイエンスのペガサス打ち上げ機の資金援助を始めたことでLibertyへの資金協力が打ち切られたのだ。Pacific American Launch Systems社は1991年にその事業をPacAstro社に売り渡した。Pacific American Launch Systems社そのものは現在も存続しているようだ。

 Gary Hudsonはその後ロトンに関わったりした後T/Space社を設立し、今度は打ち上げ機を選ばない有人機および軌道輸送船開発に関わっている。


 Libertyの一段目エンジンLiberty 1-Aはガス押し液酸ケロシンの55klbf(24.5トン)[43]もしくは75klbf(34トン)[44]推力のエンジンだった。燃焼試験はしたようだが比推力は157秒と低かった。このエンジンは炭素繊維巻き付け燃焼室の元祖的存在である。

 PacAstro社はLiberty 1-Aの技術的基礎を元に、新たにエンジンを再開発したようである。初期の5klbf(2.5トン)推力エンジンではアブレーション冷却を採用していたようだが、燃焼試験で10秒も持たなかった[45]。PA-Eシリーズエンジンは再生冷却とフィルム冷却の併用構成で、先に開発した15000lbf推力のPA-E15Kエンジンの開発成功に続いて、30000lbf(約13トン)推力のPA-E30Kエンジンの開発を開始したところで開発は打ち切られた。PA-E120Kエンジンは「LEO ON THE CHEAP」の挿絵から、PA-E30Kエンジンの4基クラスタであると思われる。

 1997年、打ち上げ機PA-2は、サブオービタルデモンストレータPA-X、PA-E30Kエンジンと共に開発中止となった。SBIRプログラム補助金がフェーズIIで終わったのと、600万ドルの打ち上げコストでは商業的に成功の見込みがないと判断されたためである。

 PacAstro社はAeroAstro社から1989年に打ち上げ機の開発のために分社した企業である。AeroAstroは小型衛星の開発製造で宇宙開発に参加し、オービタルサイエンスと同様に打ち上げ機開発にも手を伸ばしたが、結局オービタルサイエンスほどの成功を収められなかった。PacAstro社は1997年の手痛い後退のあと、打ち上げ機開発からビジネスの方向を転換した。2004年に構造屋のAspect Engineering社と合併し、2005年にハリケーンカトリーナの被害でオフィスを失った後、2006年にGloyer-Taylor Laboratoriesと社名を変えた。現在はテネシー大学に隣接した川べりの美しいオフィスで、汚れ仕事の無いビジネスを展開している[46]


 1997年というのは、韓国が12.5トンエンジンの開発を開始した年でもある。KSR-IIIとそのエンジンLRE-15の特徴はPA-XとPA-E30Kのそれに多く一致する。衝突型インジェクタ、ガス押し、液酸ケロシン、エンジンジンバリング、PA-E30Kエンジンの推力、冷却方式、そして燃焼室に炭素繊維シートを巻いたエンジン外観。インジェクタフランジの周りにフィルム冷却のための配管が巡っているのは極めて特徴的だ。KSR-IIIは、まるで当時のアメリカの民間宇宙開発の現場からワープしてきたかのようだ。

 これら特徴は同時期の民間開発ロケットとそのエンジンに共通して見られる技術的特長(SpaceXのマーリンエンジンも初期型は炭素繊維巻き付け燃焼室だった)だが、冷却方式の一致はこのエンジンくらいである。例えばScorpiusの2.2トン推力Liberty液酸ケロシンエンジンは、ガス押しで炭素繊維巻き付け燃焼室だがアブレーション冷却を採用している[47]。AirLaunchのVaPak液酸プロパンエンジンもアブレーション冷却である。XCORの液酸ケロシンエンジンはスイス製の再生冷却方式だ[48]。普通はアブレーションか再生冷却のどちらかになる。フィルム冷却は最近でもエンジン再使用を狙ったエンジンなどでは採用例があるが、再生冷却とフィルム冷却の併用というのは極めて珍しい。


 韓国は1997年になって「LEO ON THE CHEAP」に感銘を受けてロケット開発を始めたのだろうか?しかし1997年というのはその夢が醒めた後である。まるで魔法が解けた後に襤褸を着てお城の舞踏会に乗り込むような話だ。

 人材流出のほうがずっとあり得るシナリオだ。PacAstroはその後液酸ケロシンエンジンの分野からはすっかり手を引いてしまう。しかし先進的なCFRP構造機体のほうは開発を継続しているところから見て、エンジン開発を担当していた人材がいなくなったのではないかと考えることができるだろう。しかし、人材流出の証拠は存在しない。KSR-III関連の論文には韓国人の名前しか見えない。

 結局、直接の証拠の全く無い話で申し訳ない。12.5トンエンジンの開発過程の混乱を考えると、事実が明らかになればそれは非常に興味深い物語であるに違いない。


[40] The acoustic coupled instability at the propulsion test facility

for KSR-III rocket

http://210.101.116.28/W_ftp41/14110998_pv.pdf

[41] "LEO on the Cheap" Lt. Col. John R. London III

http://www.dunnspace.com/leo_on_the_cheap.htm

[42] PacAstro LV

http://www.b14643.de/Spacerockets_2/United_States_7/PacAstro_LV/Description/Frame.htm

http://www.b14643.de/Spacerockets_2/United_States_7/PacAstro_LV/Gallery/PacAstro.htm

http://www.gtlcompany.com/propulsion

[43] Liberty space launch vehicle rocket

http://www.astronautix.com/lvs/liberty.htm

[44] Re: Tank Mass for Pressure Fed Vehicles

http://yarchive.net/space/rocket/pressure_fed.html

[45] Compositex, Inc Photo Gallery

http://home.comcast.net/~compositex/photos.htm

[46] Gloyer-Taylor Laboratories LLC

http://www.gtlcompany.com/index.cfm

[47] Microcosm Sprite

http://www.b14643.de/Spacerockets_2/United_States_2/Scorpius/Description/Frame.htm

[48] SPL Swiss Propulsion Laboratory, Our Products and Services

http://www.spl.ch/products/index.html



韓国の宇宙開発史#10 -2012年10月23日(火)22時32分


 韓国航空大学ハイブリッドロケット推進研究室ではハイブリッドロケットの開発が行なわれている。韓国航空大学は2001年11月にはパラフィンとガス酸素の組み合わせで1トン推力のエンジン燃焼試験に成功し[20]、これを事業化するために(株)スペースリサーチ社が作られた。スペースリサーチ社はこのエンジンを用いた観測用ロケットを販売していたが、売れなかったためか2003年には携帯バーナの販売に進路を変更した[21]。この観測ロケットが実際に打ち上げられた形跡はない。現在スペースリサーチ社のウェブサイトは存在しておらず、おそらく会社は消滅したものと思われる。

 この1トンエンジンの燃焼試験は大学のグラウンドと思われる場所で行われていた。その後テストスタンドの位置は転々としながら2010年に川の近くの畑の中に、テニスコートより狭い程度の土地を得て移転した[22]。現在はポリエチレンと一酸化二窒素の組み合わせで100〜500kgf級のエンジンを試験している。

 大学は将来的には1トン推力エンジンで高度20キロに達するロケットを実現し、更に高度60キロに達するロケットの開発を構想している[23]。しかし、1トン推力エンジンを用いた打ち上げ機は2010年度にも最初の打ち上げを行う予定だったが、まだ果たされていない。

 韓国航空大学にはロケット研究会も存在している。1994年に設立されたこの会は積極的にロケットの打ち上げを行っている[24]。2005年8月の15kgf級ハイブリッドロケットの最初の打ち上げは近所の河川敷のような場所で行われたが、すぐそばの田んぼへ一直線に飛んでいく結果に終わった[25]。9月の打ち上げでは見事成功したが、相変わらず打ち上げ場所の選定は恐ろしいとしか言いようが無い。

 2010年9月の50kgh級ハイブリッドロケットの打ち上げでは打ち上げ場所を変えたようだが[26]、高度が出ないままパラシュート展開にも失敗して地面にめり込んだ。11月の打ち上げでは高度450メートルに達したがパラシュートは開かなかった。


 ディジタルアーティスト、ソンホズン(송호준)はキューブサットを開発、製作し、打ち上げる予定だ。彼のキューブサットは六面のうちの一面に4ワットの白色LEDを4つ搭載し、地上に向けてモールスの点滅でメッセージを送るとしている。

 ソンホズンは2005〜2006年にKAISTメディアラボに在籍した[27]後、アーティストとして活動を開始した。初期はDJシーンに近づいたり[28]メディアアートに手を染めた[29]が、2007年頃からキューブサットに興味を持ち始め、2009年にプロジェクトを発表した。

 ソンホズンはKAISTで電子工学の修士課程を出た後SATRECの研究員となったと主張しているが正直極めて怪しい。"1999年に海外でスノーボードシーンで活躍するアーティスト達を通して芸術の大衆性に対する考えを持った"のでは無かったのか。

 プロジェクトはOpen Source Satellite Initiative Blog(OSSI)と呼ばれているが、オープンソースの要素はどこにも見当たらない。大体ソースとはこの場合一体何なのか不明である。オープンハードでもないのだ。

 そもそもこのキューブサットは成立性が極めて怪しい。アイディアは面白い。LEDの指向性は高いから、うまく地上を向けば点滅を地上で観測できる可能性は高い。もし衛星重量が10キログラムもあれば、スピン衛星にして地球辺縁検出でばっちりLEDを地球に向ける設計が出来るだろう。地球に向いたタイミングでLEDを光らせればいいのだ。しかしこれはノーマルなキューブサットで、三軸姿勢制御はおろか、スピンすら無理なのだ。衛星がどういう姿勢状態になるかは全くわからない。こういう状態でLEDがうまく地上を向く望みはまず無い。LEDの配置された面が太陽に向く時、このキューブサットは発電できない。衛星の姿勢を検出する手段も持ち合わせていないものと思われるが、もし発電量を地上でテレメトリとして見たならば、LEDが太陽に向いている時だけは、これを発電量の低下というカタチで検出できるだろう。電力を大食いするLEDがあるためLEDの運用は慎重にならざるを得ない。いや、いくら慎重になっても望みの成果は得られない筈だ。熱設計も不安だ。LEDが16ワットの熱を持つ時、その熱は小さなアルミ筐体以外のどこにも行き場は無い。キューブサットは大抵熱設計を舐めているが、それは熱伝導性のいいアルミフレームによるところが大きい。しかし熱収支のバランスはどんなサイズの衛星にも共通の問題である。物理法則はキューブサットを相手にするときだけ曲げられたりはしない。

 この衛星は福岡工業大学のFITSAT-1と同じ問題を抱えている[30]。FITSAT-1は磁気ダンパを持っていて、それでLEDを地表に向けようとしているが、しかし磁気ダンパで動かせるのが南北方向の1軸だけで、地表にLEDを向けるには2軸の制御が必要だという事が失念されている。ソンホズンのキューブサットにも磁気ダンパの記載があるが、姿勢制御の方法について考えていないように思える。

 彼は2009年には衛星を完成させ、フランスの会社と契約したので2010年度上半期にはロシアのロケットで打ち上げられると言っていた[31]。が、いつの間にかそういう話は消えて、新たに2011年春になって、フランスの会社と契約したので2012年5月にロシアのロケットで打ち上げられることが決まったと発表した。しかしこれは2012年4月には8月に[32]、7月末には打ち上げは12月末になっている[33]。打ち上げの費用は1億ウォンで引き受けてもらえたと彼は話している。これら費用は寄付やTシャツの売り上げ、点滅メッセージの送信権などによってまかなった。2009年には衛星からの温度テレメトリの数字で当選者を決めるくじを発行すると言っている[34]。また、Tシャツの売り上げは実に3億500万ウォンに上がったと彼は話している。

 実際のところ、2011年7月の段階では衛星を完成させるどころか、市販のキューブサットキット構体にLEDが貼り付けてあるだけの、太陽電池も貼っていない試作機しか彼の手元には無かった。環境試験も手付かずで、サイトのブログに貼られた図からすると、この時点でどうもこれからどうしようか考えている段階だと思われた[35]。これがSATRECの水準だとしたら恐ろしい話だが、恐らくそうでは無いだろう。

 2012年7月には衛星に太陽電池が貼られ、LEDは現実的な大きさになり、構体は全くの別物に、そしてアマチュア無線用の展開機構付きオムニアンテナが見えるようになった[36]。おそらく外部の人間による支援が入ったのではないだろうか。貼ってある太陽電池はウェハーの端の余り物に見える。キューブサットで良く見られる太陽電池セルは大体一枚6万円、5面に二枚づつ貼って60万円だが、それはこれまで彼が主張してきた開発コストの15倍の値段である。別に余り物でもいいのだが、太陽電池の貼り付けと端子タブへの配線溶接は高度技能である。このセルではそもそも配線が困難だ。公開された写真はなるほど凄いとしか言いようがない[37]。太陽電池を貼ったパネルは配線をエッチングしたプリント基板だ。つまりガラス繊維基層エポキシ、太陽電池のカバーガラスと熱膨張係数が近く、しかもセルが小さいので、接着が多少おかしくても割れにくいだろう。基板は手製エッチングか基板CAM削り出しのように見える。

 衛星には1軸のMEMSジャイロが載るようだが用途が不明である。アマチュア無線についても理解がおかしい節がある[38]。彼の衛星OSSI-1の打ち上げは現在2013年4月に予定されている[39]。彼の衛星は正直、発端は詐欺にどこまでも近いものだった。しかし実際に打ち上げられるところまで持って行ったのは大いに賞賛すべきだ。ただ、どんなメディアアートだろうと、この衛星のミッション成立は難しいだろう。


[20] Hybrid Rocket Test - 1 tonf ( Korea Aerospace Univ. & NEX )

http://www.youtube.com/watch?v=6Ab3Ej5_8iY&feature=related

[21] 산학연 컨소시엄 현장을 가다

http://www.ekgib.com/news/articleView.html?idxno=129396

[22] 2010 May. Hybrid Rocket Test Fire(distant view) - 1000 kgf thrust

http://www.youtube.com/watch?v=67Lj4PZWYnc

[23] 한국항공대학교 하이브리드 로켓추진연구실에 오신것을 환영합니다

http://hrpl.re.kr/page_view.php?num=hrpl2_1

[24] 한국항공대학교 로케트연구회

http://rocketboy.tistory.com/24

[25] 항공대 하이브리드 첫 로켓

http://rocketboy.tistory.com/23

[26] 하이브리드 로켓 - 항공대 로켓추진연구실(hybrid rocket - korea aerospace university)

http://www.youtube.com/watch?v=rx1WHopArSo

[27] KAIST Digital Media Lab Blog

http://medialab.re.kr/blog/archive/200510?page=3

[28] [보도자료] 파티2007에서 만날 라이브영상

http://test.nabi.or.kr/site/project/2007/party2007/3st/05_press_read.asp?bbs_kubun=press_kor&act=view&bbs_idx=5614&cp=1&srchfld=&srchval=

[29] 상상력과 과학기술이 어우러져 빚은「DOUBLE CLICK!」展

http://www.artmuseums.kr/admin/?corea=sub5_2&page=6&page_div=1&no=2

[30] FITSAT-1 (NIWAKA)

http://www.fit.ac.jp/~tanaka/fitsat.shtml

[31] 인공위성 대중화 나선 청년 과학도

http://lg-sl.net/HappySNC/SncIQ/PopUpPrint.jsp?reg_no=IQEX2009120021¤tRecordNo=-7&pageprint=EXP

[32] 한국 최초 개인인공위성발사!!!...디지털 예술작가?! 송호준님

http://cafe458.daum.net/_c21_/bbs_search_read?grpid=1PlPl&fldid=5mt4&contentval=0000Czzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz&nenc=&fenc=&q=&nil_profile=cafetop&nil_menu=sch_updw

[33] 미 NASA는 송호준의 '청계천' 위성 벤치마킹 해야

http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?linkid=57&newssetid=551&articleid=20120727104412716g7

[34] 〈스포츠경향〉[이 사람]“별들에게 물어봐, 아니 이젠 내 인공위성을 불러봐”

http://media.daum.net/culture/food/view.html?cateid=1003&newsid=20110704203511704&fid=20110704203607925&lid=20110704203313294

[35] Open Source Satellite Initiative Blog

http://opensat.cc/blog/uncategorized/ossi-thermal-vac-test-chamber/

[36] Open Source Satellite Initiative

http://opensat.cc/download/OSSICubesat2012Pub.pdf

한국인이 집에서 만든 개인 인공위성, 12월 우주로 발사

http://reuters.donga.com/bbs/main.php?tcode=10105&no=20742

[37] OSSI Modules

http://opensat.cc/blog/uncategorized/ossi-modules/

[38] 꿈을 담은 정육면체 '오픈소스 인공위성'

http://www.bloter.net/archives/61196

[39] Plan of Russian space launches (part 2)

http://forum.nasaspaceflight.com/index.php?topic=26990.msg967454#msg967454



韓国の宇宙開発史#9 -2012年10月21日(日)21時38分


 KSLV-1"羅老"の最初の打ち上げは、韓国製フェアリングの分離不良によって失敗に終わった。フェアリング開頭の様子を撮影したモニタの動画は、二号機打ち上げ直前の5月末に公開された[1]。ここまで公開を引きのばした理由は不明である。

 KSLV-1二号機の打ち上げは当初2010年6月9日に予定されていた。6月5日に、プロジェクトに関わっていたロシア人プログラマが釜山の地下鉄構内でナイフを腹に刺し自殺を図ったが、幸いにも生命を取り留めた。原因は不明である。

 9日当日の打ち上げ予定3時間前、突如射点のリモコン放水器が動作し、消火剤が噴出しはじめ、現場の手動でようやくこの噴射は停止した。消火剤を噴出したのは米Elkhart Brass社の電動リモコン放水器[2]三基のうちの一基で、消火剤は水に5パーセントの化学溶液を混ぜたものである。放水器は実績のある製品であり、現場施工は韓国側だった。動作の原因は配線不良によるものと発表がなされた。消火設備の動作試験、リハーサルが行われていなかったことが伺える。

 前日の事故がもたらした影響はなかったと結論して翌日、予定時間に二号機は打ち上げられたが、137秒後にテレメトリは途絶え、打ち上げは失敗した。搭載カメラ、恐らくフェアリング内部にあったものだと思われるが、これが爆発閃光を捕らえているらしく、テレメトリで画像を取得しているらしいのだが[3]、公開されていない。

 直後から失敗の原因について韓露間で責任のなすりつけあいが始まった。ロシア人たちは当日にはもう二段目の早期分離を疑っていた。当日のうちにクルニチェフはテレメトリの解析結果として一段目の動作には問題は無く、二段目が原因であると声明した[4]。だがKARIは一貫して一段目の爆発という表現をとり続け、一段目飛翔中の事故だから、ロシア側に責任があるという態度をとった。韓国側がロシア側に失敗の原因を求め続けるのは当然三号機の打ち上げをタダで実現するためである。同時に韓国側は、失敗の原因如何に関わらず三号機の打ち上げは行われると主張し始めた[5]。韓国側は三度目の打ち上げが行わなかった場合、契約金の5%にあたる1000万ドルを払わないと主張した[6]

 8月の3回目の事故原因調査委員会の結論についてKARIと韓国の教育科学技術部はクルニチェフと3回目の打ち上げを行うことに合意したと発表し、クルニチェフ側は即座にそんな合意事実はないと反論した[7]。事故の原因については韓国側は、何が対象であるか不明だが圧力が下がった、振動を検出したという表現を使い、関係者は一段目エンジンが燃焼振動で爆発したのではないかなどといった声明を出し続けた[8]

 例えば9月にKARIは、ロシア制作の分離ボルト8本のうち1本が誤動作し、これによって起きた放電が機体に穴をあけ、これで爆発が起きたとコンピュータシミュレーションで特定され、結論が付いたと発表した[9]が、意味不明としか言いようがない。そう言う種類の結論を出せるコンピュータシミュレーションなど存在する筈も無いので、恐らくSoyuz TMA-12の帰還時の事故に関連して、分離ボルトが怪しいのではないかと言いたかっただけだと思われる。韓国の教育科学技術部はこれに対して、可能な原因の一つではあるが結論が出たわけではないし、分離ボルトについて当事者ではないKARIが何らかの結論出すというのはおかしい、失敗の原因は韓露双方の同意のとれたものが公式だと牽制した[10]

 テレメトリは取得された筈だが、一段目のテレメトリは二段目を経由して韓国側のダウンリンク局へと降ろしたと考えられる。一段目がローコスト化を目指すアンガラURMであることを考えると、高度な制御系は全て二段目に存在していた筈だ。一段目は打ち上げ137秒後もしばらく正常動作していたと思われるため、137秒で途絶したテレメトリの元機器は二段目にあったと考えるのが自然だろう。テレメトリを見れば一目瞭然だった筈の失敗原因について、一年近くも揉めたのは工学プロジェクトとしては異例中の異例である。

 韓国側のマスコミは失敗の原因について、例えば"羅老号の墜落原因が圧力センサと加速度計の特異動作であることが明らかになった"[11]等と頓珍漢な報道をし続けた。圧力センサがどういう振る舞いをしようと事故は起こせないだろう。


 第三者が判断する材料はKBSが地上から撮影し放送した映像がほぼ唯一のものである[12]。解釈は様々だが、見たところ起きたことは明らかだと思われる。

 映像では、まず最初の爆発のあと、エンジンは停止動作に入り、同時に液体酸素がパージされている。このパージされた液体酸素の広がりは爆発の付随現象とよく解釈されるが、ロケットのアボートシーケンスそのものの動作だ。酸化剤さえ逃がしてしまえば、爆発の危険はほぼ無くなる。エンジンはやがて完全に停止し、ジンバル制御された噴射による動的安定を失った機体は姿勢を崩し始める。つまるところ一段目アボートシーケンスは最後まで正常動作している。

 異常が始まって数秒後に機体から離れたところで爆発が起こる。機体はその後細長い形状を保ったまま墜落を始めているから、一段目構造は重大な破壊を受けておらず、この爆発は二段目であると解釈するしかない。つまり二段目はそれ以前に分離している。この分離のタイミングは不明であるが、最初の爆発がそれであるとも解釈できる。

 正常な二段目分離シーケンスは、主誘導系が二段目にある以上二段目から命令発行される筈だ。火工品への配線も二段目で完結している筈である。二号機が失われた原因は明らかに二段目の早期分離だ。問題は二段目のどの機器が早期分離の誤命令を発行したかである。ロシアの技術指導で制作された二段目には、ロシアのロケットでいうところの АПО(緊急破壊装置)が、韓国製のそれが有る筈だ。

 2010年10月、韓国側はクルニチェフと三号機の打ち上げを韓国側の追加負担なしで行うことに合意したと発表した[13]。これに対してクルニチェフ側の発表は無かった。毎月のように韓国が繰り返しているような発表だったが、直後の11月にKARIは三号機搭載衛星について会合を持った[14]

 以前より三号機向けの衛星の開発検討がされていた筈であるが、KAISTは、STSAT-2A/B相当の機体は部品等の調達の問題があって新規制作には2年〜3年かかり、しかし2005年に制作した設計検証用の衛星モデルを10か月でフライトモデルにする事が可能だと回答した。KARIは山盛りの科学ミッションを計画し、同時に2010年11月より10キログラムの搭載ペイロードを募集した[15]。開発期間は5ヶ月、つまりそれは無理な話なので、実際には新規機器はごく簡単なものしか搭載されない。KARIはこの衛星をテストペイロードだと表現しているが、三号機で突如テストペイロードというのもおかしな話だ。

 この衛星はSTSAT-2系の構体ではなく六角柱の構体と展開式パドルを持つ三軸衛星である[16]。構体と太陽電池以外は新造された。衛星の初期案はパドルを持っていないから、パドルは恐らくミッションとして国産ホィールの搭載を決めた時点で追加されたと思われる。トッププレートに太陽電池を貼っていないのはパドル追加前からである。ミッション機器の目玉はフェトム秒レーザ発振器だが、これは要するにクロック生成器の一種であるこれへの放射線による影響を調べ、宇宙実績を積ませるためのものだ。

 実際にはKAIST/SATRECは別に新しい科学衛星STSAT-3を既に開発済みである。これはホールスラスタや高解像度近赤外線センサなどを搭載し、国産技術での体系的衛星開発を目指した野心的な機体で、バスはSTSAT-2系を少し太らせたような形状で、重量は150kgとも170kgともいわれている。外観写真は公開されていない。この衛星はロシアのドニエプル打ち上げ機で2011年11月に打ち上げられる予定だったがロシア都合により2012年12月に延期され、更に2013年にまで打ち上げが延期された。重量は違うものの衛星は存在した訳で、これを三号機に搭載しようという話にならなかったのは何故か、憶測する余地はあるだろう。


 韓国側は分離火工品の動作が二号機一段目の影響で起きたという、かなり無理のある可能性を一年近く主張し続けたが、ロシア側は一貫して二段目の動作、二段目による早期分離に失敗の原因があると主張し続けた。しかし、2011年2月、二号機の失敗の原因に関わらず、クルニチェフは三回目の打ち上げに同意した。韓国側は2011年6月、一年かかってようやく二段目の早期分離が失敗の直接原因であると認めた[17]

 韓国側は、三号機には緊急破壊装置を搭載しないと発表した[18]。これでもし三号機が変な方向に飛んで行ったとしても、それを止める手段は存在しない。まだ電力供給システムに変更が加えられ、装置の絶縁が徹底されることとなった。ちなみに、二号機では供給電圧が低く変更され、関係者らしいロシア人はこれを改悪だったと述べている[19]

 三号機の打ち上げは2012年の10月26日に行われると現在アナウンスされている。


[1] 나로호 페어링 미분리 영상

http://www.youtube.com/watch?v=P-B4iwWala0

[2] Catalog-Sidewinder Electric

http://www.elkhartbrass.com/files/aa/downloads/catalog/catalog-f2-05-07.pdf

[3] 나로호, 2차 발사 '실패'…"비행 중 폭발 추정"

http://news.sbs.co.kr/section_news/news_read.jsp?news_id=N1000757009

[4] KSLV-1 могла взорваться из-за преждевременного запуска 2-й ступени

http://ria.ru/world/20100610/244757877.html

[5] 나로호 3차발사 예정대로 추진

http://news.donga.com/Society/3/03/20100617/29169474/1&top=1

[6] 러 나로호 3차발사 거부하면 1000만달러 지급 않을 수도

http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20100617017016

[7] 발사하긴 하나.. 나로호 3차 발사 놓고 한-러 '갈등'

http://biz.heraldm.com/common/Detail.jsp?newsMLId=20100825000250

한-러, 나로호 3차 발사 '입장차'

http://sports.chosun.com/news/news.htm?name=/news/life/201008/20100826/a8z70041.htm

Third Meeting of Commission on June 10 Launch of KSLV-1

http://www.khrunichev.ru/main.php?id=1&nid=594

[8] 나로호 추락’ 1단발사체 때문

http://www.cctoday.co.kr/news/articleView.html?idxno=558601

나로호 추진기관 이상 없지만 온도ㆍ압력센서등 특이값 계측

http://www.dt.co.kr/contents.html?article_no=2010062502011057731003

[9] “나로호 폭발, 러시아 제작 분리볼트가 결정적 원인”

http://biz.heraldm.com/common/Detail.jsp?newsMLId=20100920000085

[10] 교과부 "나로호 실패원인 규명 진행 중"

http://biz.heraldm.com/common/Detail.jsp?newsMLId=20100920000445

[11] 항공우주연구원 "나로호 추락 압력센서 등 특이작동"

http://biz.heraldm.com/common/Detail.jsp?newsMLId=20100624000694

[12] Video of South Korean rocket's last moments before crash

http://www.youtube.com/watch?v=gqHSp9hDyWE

http://www.youtube.com/watch?v=HzBoPtMmSlc

http://content.foto.mail.ru/mail/shubinpavel/81/s-261.JPG

[13] 이주호 장관 "한국 추가 부담없이 나로호 3차 발사"

http://www.hellodd.com/Kr/DD_News/Article_View.asp?Mark=32597

[14] 나로호 3차발사 탑재위성, 시간 들여 제대로 해야

http://www.hellodd.com/Kr/DD_News/Article_View.asp?mark=32717

[15] 3차 나로호에 실릴 인공위성 공개 (공개)

http://science.dongascience.com/articleviews/article-view?acIdx=10254&acCode=4&year=2011&month=10&page=1

[16] 순수-토종기술-나로과학위성-우주비상-준비-끝-0823

http://kiststory.tistory.com/entry/%EC%88%9C%EC%88%98-%ED%86%A0%EC%A2%85%EA%B8%B0%EC%88%A0-%EB%82%98%EB%A1%9C%EA%B3%BC%ED%95%99%EC%9C%84%EC%84%B1-%EC%9A%B0%EC%A3%BC%EB%B9%84%EC%83%81-%EC%A4%80%EB%B9%84-%EB%81%9D-0823

[17] Three possible causes pinned down for Naro rocket launch failure

http://www.koreaherald.com/national/Detail.jsp?newsMLId=20110609000924

[18] Россия и Южная Корея начали работу над третьей корейской ракетой Наро-1

http://cybersecurity.ru/space/140361.html

[19] STSAT 2B = KSLV1 (Naro 1) - 10.06.10 12:01 ЛМВ - Naro-авария

http://www.novosti-kosmonavtiki.ru/phpBB2/viewtopic.php?p=627833#627833


--------------------------------------------------------------------------

三号機打ち上げ後にしようかとも思っていたけど、まだ色々あるんじゃなかろうかという気もする訳です。



アルゼンチンの宇宙開発史#3 -2012年7月22日(日)17時19分


 アルゼンチンはブラジルと違い、1998年のアメリカによるISS参加への誘いを拒否した。従って宇宙飛行士も現在存在していない。

 CONAEは2000年代に入って液体推進剤による独自打ち上げ機の開発構想を検討するようになっていた。当時の打ち上げ機Tronador IIの打ち上げ予定は2012年12月である[11]。

 アルゼンチンの液体エンジン開発は前記の通り1947年まで遡る。推力335kg、比推力174秒のガス押し硝酸アニリン二液式エンジンのAN-1は無人の航空機発射型巡航ミサイルのエンジンとして開発された[12]。エンジン重量は15kg、自発着火性のある推進剤は窒素ガスで加圧された。インジェクタはほぼプレート、燃焼室は円筒形状で初期の燃焼室内壁はポートランドセメントにアスベストを30%混合したものだったが、後に再生冷却構造に改良された。このエンジンを搭載した無人機は慣性誘導装置で誘導され、ペイロード36kgを積んで射程10kmを達成する筈だった。この開発の開始理由も終了の訳も不明だが、二次大戦終了直後のドイツからの移住者からの多くの技術移転があったものと思われる。ただ、硝酸とアニリンの組み合わせはアメリカ系だ。

 2007年6月、ブエノスアイレスの南西700キロのプエルト·ベルグラノ海軍基地から、硝酸アニリン二液ガス押しのTronador Iが打ち上げられた[13]。開発は2001年から始まり、開発スケジュールによれば2003年にはエンジン開発は終了している筈であったが、550kgf推力のフライトエンジンの燃焼試験は2004年5月に始まっている[14]。推進剤の組み合わせは半世紀前のものと同一だが、関連の有無は不明である。Tronador Iは全長3.4m全重60kg、推進剤タンクは同心円状に二重のチューブの入れ子になっていた。エンジン燃焼時間は10秒、4kgのペイロードを搭載可能だったが、打ち上げ時の到達高度は知られていない。

 2008年、エンジン推力を1.5tonに増して大型化したTronador Ibisがプエルト·ベルグラノ海軍基地から打ち上げられた。到達高度は13kmだった。

 CONAEはブラジルのVS-30プロジェクトに参加し、搭載ペイロードを開発した。目的は慣性誘導系の開発である。2010年12月にアルゼンチ製ペイロードを搭載したVS-30は打ち上げられた。


 2010年8月、CONAEは液体推進剤ロケットによる衛星打ち上げ計画を正式に発表した。スケジュールでは最初の打ち上げは2014年となっている[15]。

 CONAEは推進剤として硝酸とアニリンの組み合わせから、四酸化二窒素とヒドラジンの組み合わせに切り替えた。新しいロケットT-4000はガス押しで4tonの推力を持っていた。しかし2011年12月の最初の打ち上げで点火に失敗し、そしてT-4000は遠隔地から安全にその有毒な推進剤を排出する手段を持っていなかった。結局ヘリから銃撃してタンクを破壊して、ようやくロケットに安全に近づけるようなった[15]。

 空軍は2009年から固体ロケットの開発を再開した。Gradicomは径32cmの固体単段ロケットで、すぐに上段を追加したGradicom-IIがリリースされた。Gradicom-IIは全長7.6m全重1ton、高度120kmに到達する能力を持っていた。

 FAS-1500はCastorの近代化版というべき機体で、恐らくはGradicomの組み合わせによって構成されている。全重は2ton、ペイロード200kgを高度350kmに飛ばすことができる。これら機体はChamical空軍基地の敷地内で打ち上げられている。

 アルゼンチンが2014年末に最初の打ち上げを行うとしている液体推進剤打ち上げ機Tronador IIは、250kgの衛星を高度600kmの極軌道に投入する能力を持つとされている。三段式(もしかすると四段式かもしれない)で全重60ton、全高27m、一段目径は2.5m、二段目より上は径1.5mとなる[16]。一段目推力は90ton、二段目30ton、三段目4ton、エンジンの詳細は不明であるが、T-4000のエンジンが三段目エンジンに相当するのだと思われる。

 CONAEでは2008年に衛星打ち上げ機を、50kgの打ち上げ能力を持つT1.4から400kgの打ち上げ能力のT2.3まで4種類案を出し、うちT2.2に相当するものを採用したようである[17]。二段目はエンジン2基クラスタのようで、とするとこのエンジンの推力は15ton、一段目はこのエンジンの6基クラスタとなる。どうもこのエンジンは全てガス押し式のようで、とすると四段式の可能性が高くなる。推進剤は政府の調達要求の分析から四酸化二窒素とヒドラジンの組み合わせだろうと考えられている[18]。これは自発着火性があるので空中点火の不安も少ない。ロケットのコストはエンジンに集約されるので、たとえ四段式でもガス押し式というのはコスト的にも正しいのかも知れない。少なくとも開発コストと開発期間の意味では明らかに正しい。但し上記の打ち上げ機の組み合わせを検討したCONAEの資料では同時に、将来システムでは酸化剤をリチウム添加フッ素、燃料をアンモニアの、"比推力520秒の画期的な推進剤FLIAM"の採用を謳っていて、突っ込みどころ満載で頭を抱えてしまう。

 この開発スケジュールは明らかにブラジルを意識しており、このスケジュールが正しければアルゼンチンはブラジルより早く独力打ち上げ能力を持つ宇宙開発国家になるのかも知れない。とはいえ射点もまだ定かではなく、あると仮定した15tonエンジンの開発状況も、空中点火の検証予定も陰も形も無い状況では、2014年打ち上げというスケジュールは怪しいといわざるを得ない。またCONAEの予算規模は2010年で2億8500万ペソ、1600万ドル相当とかなり小さい。

 CONAEは打ち上げ機を実現するためには、あと少なくとも15tonエンジンをフライアブルにし、空中点火と慣性誘導を実証する機体を飛ばさなければいけない。更に高空模擬燃焼試験を行うかどうか決めなければならない。射点は大西洋に面した海岸が検討されている。実際には軌道はまだ遠い。ただ、アルゼンチンの経済状況がこのまま順調に推移するなら、アルゼンチンはそのうち必ず軌道到達を果たすだろう。


-------------------------------------------------------------------


 アルゼンチンの宇宙開発で興味深いのは、経済規模に似合わない野心と実績、そしてブラジルとの関係性です。アルゼンチンはロケットの誘導系の試験をブラジルのロケットを使って行いました。また地球観測衛星の試験をブラジルの施設を用いて行いました。このような相互交流は両国の緊張緩和にとって極めて重要な役割を持っています。両国は平和の配当を極めて大事に守ろうとしています。


[11] Proyecto TRONADOR - Cohete espacial

http://www.zonamilitar.com.ar/foros/threads/proyecto-tronador-cohete-espacial.14493/


[12] El primer cohete Argentino con combustible líquido

http://www.jpcoheteria.com.ar/TabanoAN1WEB.pdf


[13] Proyecto TRONADOR

http://www.rocket.com.ar/biblioteca/databases/download/Proyecto_Tronador.pdf


[14] Tronador I test vehicle

http://www.oldrocketforum.com/showthread.php?t=8768


[15] Argentina's SLV development

http://forum.nasaspaceflight.com/index.php?topic=26645.0;all

Tronador II - аргентинский громовержец

http://novosti-kosmonavtiki.ru/phpBB2/viewtopic.php?p=803140&sid=249accbf201e42f6480f5435e8367035


[16] Plan Espacial Nacional

http://www.mincyt.gob.ar/multimedia/archivo/archivos/Ing._Fernando_Isas-CONAE.pdf


[17] Acceso al Espacio Una necesidad Nacional

http://www.apsme.org.ar/02-09-conferencia-varotto.pdf


[18] Proyecto TRONADOR - Cohete espacial

http://www.zonamilitar.com.ar/foros/threads/proyecto-tronador-cohete-espacial.14493/page-54



アルゼンチンの宇宙開発史#2 -2012年7月20日(金)22時51分


 1978年、アルゼンチンは固体弾道ミサイルCodorの開発を始めた。ビデラ軍事政権は同時期に核開発15年計画を承認し、ウラニウム濃縮の技術開発を秘密裏に進めていた。アルゼンチンが核兵器の運搬手段として弾道ミサイルを念頭においていたことは間違いないだろう。Condor-1は径80cm、全長8mの単段固体弾道ミサイルで、空力翼を制御することによる姿勢制御を持っていた。最初の打ち上げが1985年に予定されていたが、この打ち上げは無くなった[7]。経済状況の悪化とマルビナス戦争(フォークランド紛争)の敗北のせいであるが、民政下においても開発は継続された。

 二段式のCondor-2が計画されたが、まずサブスケールモデルのCondor I-A"Alacrán"が開発された。Alacránは径56cm、全長6.5m、250kgのペイロードを115km飛ばすことができた。Alacránは1988年以来数度試射され、これをベースとしてアルゼンチンはイラクとエジプトに技術を売った。そしてCodor-2はこれらの国々との共同開発となった。Condor-2は全長16mの二段式で、5mの一段目はガスジェットをノズル排気と平行に噴くことによって姿勢制御をおこなった。二段目はCondor-1より延長され安定翼制御と三重冗長化された誘導計算機による慣性誘導系を持っていた。Condor-1はこの二段目の試験機として1989年3月にパタゴニア上空を504km飛んで目標に到達した。Condor-2の射程は900km程度、マルビナス(フォークランド)諸島全域を射程に収めるものになる筈だった。

 しかし弾道ミサイルを巡る情勢はアルゼンチンの内外で既に変化していた。核開発はブラジルとの二国間核査察を経て、両国で兵器核開発を禁止するトラテロルコ条約の完全履行へと移行していた。弾道ミサイルはペイロードを失ったのだ。


 アルゼンチンはCondor-2ベースの衛星打ち上げ機開発計画を持っていたとされるが、それはただの検討レベルの話で、その機体はさらに大型の径1mの新規開発モータを必要としていた[7]。250kgの衛星を軌道投入可能な全長17mの四段全固体ロケットは全くのペーパープランの域を出るものではなかった。


 1991年5月、宇宙活動委員会(Comisión Nacional de Actividades Espaciales:CONAE)が非軍事民生の宇宙開発機関としてCNIEを改組して発足した。これは恐らく将来に予定された弾道ミサイル開発停止に際して、弾道ミサイル技術の受け皿となることを意図して生まれたものだと思われるが、発足後直ぐにCONAEによる衛星開発が始まっている。これは背景としてもう一つ、宇宙開発に関する関心の高まりがあったものと思われる。前年の1990年1月にアマチュア無線団体AMSAT-argentinaによるアマチュア無線衛星Lusatがアリアン4で打ち上げられている。Lusatは10kg、縦横23cmの正方形の衛星で太陽電池セルを貼り、アマチュア無線衛星ではマイクロサットに分類される。AX.25プロトコルをサポートし、6805マイコンで制御された[8]。Lusatはプラジル最初の衛星DOVEと相乗りで打ち上げられた。つまり衛星開発ではアルゼンチンはブラジルと同じスタート位置に立っていたのだ。

 1996年8月、32kgの小型三軸衛星victor-1がロシアのDneprロケット相乗りで打ち上げられた。Vicrorはコルドバ州政府の資金援助の下地元の航空工科大学で開発された。2つのカメラとモーメンタムホィールと磁気トルカを持つ衛星で、安価なミッションペイロード搭載の機会を広く提供することを目標としたプロジェクトだった。コルドバはアルゼンチンの宇宙開発の中心の一つとなっている。

 CONAEは一連のSAC(Satélites de Aplicaciones Científicas)衛星シリーズの開発計画を打ち出した。最初に打ち上げられる筈だった268kgの技術試験機SAC-Aはシャトルの打ち上げスケジュールの遅延で1998年まで打ち上げが遅れ、181kgの太陽観測科学衛星SAC-Bが先にペガサスXLロケットで1996年11月に打ち上げられた。SAC-Bは展開式太陽電池パドルを持ち、磁気トルカを使い太陽指向でスロースピンで姿勢を保持した。

 SAC-AはSTS-88エンデバーから1998年12月に放出された。SAC-Aは展開式太陽電池パドルとカメラ、DGPSレシーバ、磁気センサを搭載していた。主ミッションは磁場観測だった。

 SAC-Cは500kg級の三軸地球観測衛星で、国際協力で各国の観測機器を搭載していた[9]。マルチバンド光学イメージャとパンクロマチックカメラ、高感度カメラ、そして8mの伸展アンテナの先の磁気センサは地球の磁場地図を作成する任務を負っていた。他にもイタリア製のスタートラッカ等も搭載されていた。SAC-Cは2000年11月にデルタロケット相乗りで打ち上げられた。

 AprizeSat、またはLAtinSatはAprize Argentina社の小型衛星星座による野心的な全球衛星通信サービスである[10]。構成要素である同名のAprizeSatは12kgのアマチュア衛星規模の衛星で、UHFのデータ蓄積通信でメッセージボックスとして動作する。最初の4機はアルゼンチンで製造され、それぞれ2機づつ2002年12月と2004年6月にDneprロケット相乗りで打ち上げられた。最初の二機はサービス構成機には入らないらしく、AprizeSatのナンバリングは2004年打ち上げの2機からである。以降の製造はアメリカのSpaceQuest社に移り、計8機、AprizeSat-6まで打ち上げられている。AprizeSat-3と4にはAIS(自動船舶識別装置)レシーバが搭載されている。このシリーズは今後も打ち上げが予定されており、最終構想では全64機で構成される予定である。


 1993年、アメリカの圧力によりCondor-2の開発は停止され、機材資料一式はアメリカに引き渡された[7]。ただ実際はこれは圧力というより規定路線であったように思える。実際にアメリカから圧力が働いたのは1989年のことだと考えられる。また1989年のエジブトでの開発現場での爆発事故の影響もあった筈である。アルゼンチンの弾道ミサイル開発はシリアに場所を移して継続したのではないか等といった疑いをかけられることもある。そして現在でも軍の固体ロケット開発は継続している。


 SAC-Dは米NASAとの協力により、Earth System Science Pathfinder (ESSP)構想の6機目、海面塩分濃度観測衛星Aquarius/SAC-Dとなった。重量は1.3tonに達した。開発は衛星バスをアルゼンチン、ミッション機器をNASAが担当した。SAC-Dは2011年6月にデルタロケットで打ち上げられた。

 地球観測衛星SAC-Eは2013年打ち上げ予定である。現在CONAEはSAR衛星SAOCOM 1Aと1Bの同型二機を開発中である。そのLバンドSARはSAC-Dの経験を生かすものになると思われる。衛星バスはSAC-Cの延長線上のものになるらしい。打ち上げは2014年と2015年にFalcon-9で行われる予定である。

 アルゼンチンの衛星開発は自国製打ち上げ機での打ち上げを念頭に置いたものではなく、後述する独自打ち上げ機計画向けの衛星開発計画もまだ存在していない。CONAEは一貫して軍事分野から距離を取っており、衛星開発においてもブラジルINPEの試験設備を使用するといった相互協力が行われている。CONAEの衛星試験設備そのものは100kg級の試験設備しか無いように見える。もしこのまま開発衛星の大型化を進めるなら地上試験設備の更新が必要だろう。


[7] El Programa Misilístico Argentino Cóndor

http://www.gdescalzo.com.ar/misilcondor.htm


[8] LUSAT

http://www.lusat.org.ar/


[9] SAC-C (Satélite de Aplicaciones Científicas-C)

http://www.eoportal.org/directory/pres_SACCSatlitedeAplicacionesCientficasC.html


[10] AprizeSat -Encyclopedia Astronautica

http://www.astronautix.com/craft/aprzesat.htm



アルゼンチンの宇宙開発史#1 -2012年7月19日(木)07時13分


 アルゼンチンの宇宙開発の始まりはブラジルより早く、1952年の国際宇宙航行連盟(IAF)の創設メンバーの一人でもある。1956年には民間団体である宇宙技術研究所(Instituto de Experimentaciones Espaciales)が径20cm長さ2.5mの固体ロケットを高度1700mに打ち上げた[1]。

 1961年に空軍内に宇宙研究委員会(Comisión Nacional de Investigaciones Espaciales:CNIE)が発足し、宇宙科学研究とそのための打ち上げ機開発を始めた。打ち上げ機開発は空軍の航空宇宙研究所(Instituto de Investigaciones Aeronauticas y Espaciales :IIAE)と共同で行われた。IIAEでは1946年から47年にかけて320kgf推力の液体ロケットエンジンAN-1が開発されている[2]。

 打ち上げは当初コルドバの西30kmの高原地帯に設営された仮設射場でおこなわれた[3]。APEX A1-02 "Alfa Centauro"は径9.4cm長さ2.7m全重28kgの固体ロケットで、3.3kgのペイロードを高度20kmまで打ち上げることができた。1961年2月、最初の打ち上げは成功したがテレメトリは取れなかった。9月にAPEX-A1-S2-015 "Beta Centauro"が打ち上げられた。これはAlfa Centauroに径7.9cm長さ1.17mの二段目を継いだもので、ペイロード重量は3.3kgから変わらず、到達高度は25kmに留まった。

 1962年、コルドバの北西150キロのChamical空軍基地の更に北25kmに射場が設けられ、CELPAと以後呼ばれることとなった。"Gamma Centauro"は径13.4cm、長さ0.83mの一段目と径9.1cm、長さ1mの二段目を持った二段式固体ロケットで、推進剤の比推力は194秒、全重31.5kg、5kgのペイロードを高度31kmまで打ち上げる能力を持っていた。Gamma Centauroは途中改良され比推力を225秒まで向上させ、計9機が打ち上げられた[4]。うち3機は南極で打ち上げられている。

 1963年8月、アルゼンチン軍科学技術調査研究所(CITEFA)の開発した固体二段式ロケットPROSON M-1がCELPAから打ち上げられた。これは気象観測用に開発されたもので、一段目径は20cm、長さ1.68m、二段目径11cm長さ1.58m、5kgのペイロードを搭載可能だったが、到達高度は知られていない。可搬式ランチャーも作られたようだが、PROSON M-1が打ち上げられたのはCELPAの固定ランチャを使ったこの時の2回きりのようだ。

 1964年からアメリカおよびフランスとの科学分野での協力の一環として、Nike-CajunやJudi、Arcasといった観測ロケットがCELPAから打ち上げられるようになった。これは軍事政権を支持し共産化に対抗しようとした欧米諸国との関係強化の一環でもあった。一方で軍事政権は対外的に強気に出るようにもなっていた。1965年、アルゼンチンは南極のMatienzo基地からGamma Centauroを打ち上げた。これは極地研究の一環であったが同時にアルゼンチンの南極領土主張のためでもあった。

 1965年10月には直径20cm全長2.6mのOrion-1が打ち上げられるようになった[5]。推進剤はHTPBで面内燃焼方式、ノズルスロートには黒鉛を使って高温に耐えるようなった。ペイロード5kgを高度50km以上に打ち上げる能力はIBM1620コンピュータを用いて性能シミュレーションが行われた。Orion-1は1966年までの間に計8機が打ち上げられた。

 Orion-2は全長を3.7mへと延長した機体で、推薬の比推力は234秒と第一線の性能になっていた。到達高度は115kmと、遂に100kmを突破したのだ。11月の皆既日食中にOrion-2は三基打ち上げられ、高空の中性子を観測した。また同月、Orion-2はアメリカのワロップス射場からも1基打ち上げられている。Orion-2は1971年まで使い続けられた。

 1967年12月、最初のRigelが打ち上げられた。RigelはOrion-2を二段目に、新開発のcanopus固体モータを一段目に用いた二段式ロケットだった。1969年の9月の二機目の打ち上げでRigelはペイロード26kgを載せて高度300kmに到達した。

 1968年4月、Canopus-2の最初の打ち上げが行われた。Canopus-2は径28cm全長4mの単段式でCanopusから機体長を延長した改良型だが、Canopus単体の打ち上げは行われていない。1969年12月の二機目の打ち上げでCanopus-2は高度550kmに到達した。1970年5月、Canopus-2に猿を載せた生物搭載打ち上げが行われている[6]。猿の名前はJuan、高度82kmまで到達して、その後パラシュートで生きて帰っている。

 この頃、ペロン党政権下でアルゼンチンの打ち上げ機開発速度と打ち上げのペースは大幅に落ち始める。

 1974年、二段式固体ロケットCastorの最初の打ち上げが行われた。2段目はCanopus-2、1段目はCanopus-2の4基クラスタ、全重は1.2ton、全長は8mに達した。姿勢制御は一段目二段目共に安定翼頼みで動的な姿勢制御は行っていなかった。最初の打ち上げではペイロード100kgを高度260kmへと打ち上げた。その後1981年まで4度打ち上げられ、最大到達高度400kmを記録した。CELPAは1985年を最後に打ち上げには使用されなくなった。


[1] ARGENTINA Y LA CONQUISTA DEL ESPACIO

http://www.reconquistaydefensa.org.ar/_historia/espacio/conquista.htm


[2] Primer cohete Argentino de propergol líquido

http://www.jpcoheteria.com.ar/TabanoAN1WEB.pdf


[3] Cohete Alfa Centauro

http://www.jpcoheteria.com.ar/Alfacentauro.htm


[4] EL COHETE SONDA CANOPUS Y SU LEGADO

http://www.acema.com.ar/biblioteca/databases/download/El_Canopus_II_y_su_legado.pdf


[5] COHETES ORION I Y ORION II

http://www.jpcoheteria.com.ar/Orion.pdf


[6] El mono Juan, el primer astronauta argentino

http://www.aviacionargentina.net/foros/fuerza-aerea-argentina.4/3751-el-mono-juan-el-primer-astronauta-argentino.html



ブラジルの宇宙開発史#5 -2012年7月17日(火)21時32分


 VLS-1の打ち上げ再開に向け、2007年にはアルカンタラの射点の再整備が完了した。今回射点近くに細長い塔が追加されていた。これは移動整備棟とタラップで連結され、非常時の作業者の避難する場所となる。これで塔を使って作業者は速やかに地下まで避難し、地下通路を通って安全な場所に脱出できるようになった。

 VLS-1の全ての失敗の原因には固体推進剤の点火不安定の問題がある。単に点火が難しいだけなら話は楽だっただろう。元々固体推進剤は、特に材料の過塩素酸アンモニウムは危険な物質である。1964年4月、ケープカナベラルで太陽観察衛星OSO-Bの打ち上げ準備中、X-248固体モータに静電気で点火、3人が死に11人が負傷している。1967年にはロックウェルの工場で製造中に爆発、2人を殺している。中国の宇宙開発における最初の死者も1962年、固体推進剤の製造中だった。ブラジルは300万レアルをロシアに支払って固体推進剤改良のアドバイスを仰いだ[27]。2008年、改良されたS-43モータの燃焼試験は良好な結果を出した。

 VLS-1の4度目の打ち上げは2012年を予定されている。しかしこれはコンフィギュレーション確認用で、一段目はSONDA IIと同じS-20、二段目以上はダミーである。次いで打ち上げられるのは二段目もS-20を使ったもので、この二回でモータ以外の機体のコンフィギュレーションが確認される。三度目がようやくフルスケールのS-43モータを使うもので、しかし三段目より上はダミーである。四度目にようやく衛星打ち上げの本番がやってくる。この打ち上げは2014年後半に予定されている。もし韓国の羅老の三度目の打ち上げがまたしても失敗した場合、ブラジルには10番目の独力での宇宙開発国という地位を達成する可能性が出てくる。

 2012年にはVS-40の打ち上げと、新規開発のS-50モータを一段目に使ったMAXUSロケットの打ち上げも予定されている。2014年には新ロケットVLMの打ち上げも予定されている。VLMはVLS-1から一段目を除外したものとするものと[28]、S-50を使うものとするものと二つの説がある。どちらにせよ今後数年ブラジルの宇宙開発は忙しい日々を送ることとなる。


------------------------------------------------------------------------


 ブラジルの宇宙開発で印象的なのは、その開発ペースの遅さでしょう。独力衛星打ち上げを達成していない最後の大国、新興経済成長国BRICsの中でも唯一軌道に独自到達していない国家ですが、元々は遅くなりはしたものの20世紀中に独自打ち上げを達成していた筈でした。

 それがここまで遅れた原因の最大のものは経済事情ですが、しかし決してそれだけではない筈です。ブラジルのGDPに占める研究開発費は決して少ないものではありません。隣国アルゼンチンの倍以上、近年まで中国を上回る比率を投じてきたのです。ただ宇宙開発予算そのものはかなり少なく、2011年で3億3200万レアルでした[29]。とはいえこの予算規模があればもっと開発は進められた筈です。

 開発ペースを除けば、ブラジルの堅実な技術開発、特に液体エンジンの開発の仕方は印象的です。ブラジルは技術を一つづつ積み上げながら進んでいます。これは似たような境遇にある韓国とは対照的です。

 VLS-1の三度の失敗は例外だったのだと思われます。これは多分、空軍研究所が外部組織と協力した大プロジェクトをマネジメントする能力に欠けること、そもそも中心となるべきブラジル宇宙局が役割を果たしていないことが原因でしょう。大プロジェクトの問題はほぼ全てが技術的問題ではなく組織の問題に帰着します。


 アメリカがブラジルの宇宙開発を妨害しているというのはブラジル軍関係者から宇宙ブログ、軍事ネタ掲示板に至るまでよく見られる意見ですが、状況を見ればアメリカと衝突するのは当然でした。ブラジルは宇宙技術の国際政治的な意味合いについて無頓着であったように思われます。空軍研究所へのロケット技術移転など、国際社会の誰もが望まないことです。ロシアが実質アメリカと同じことしかやっていないのに、ブラジルがロシアに期待しているのは無邪気というか何と言うか、韓国の場合と同じようなものを感じます。経済規模で急速に追い上げてきた韓国との比較は示唆する点が多いでしょう。

 アルカンタラの立地に過剰な自信を持っているのも問題でしょう。低緯度はロケットのコストを全く変えてしまうほどのパラメータではありません。低緯度は静止軌道投入の際の軌道傾斜角変更に必要なデルタVを削減しますが、そもそも極軌道打ち上げには関係がありません。

 今後の問題としては、リーマン危機以降のブラジル経済の失速が懸念原因として挙げられています。結局ブラジルの宇宙開発の速度を決めているのは経済です。それと、宇宙開発関係者の退職が問題となっています。ブラジルの宇宙開発は50年の歴史を持ち、そのため職員の多くが定年に達しています。つまり組織は高齢化し硬直化し、そして新規採用はずっと少なく、人材の層が急激に薄くなっています。

 今後のブラジルの宇宙開発の行方は、空軍研究所が打ち上げ機開発から分離される程度にかかっているように思われます。ブラジル軍部は硬直的になっています。GoogleMapでアルカンタラが低解像度航空写真しか提供されていないのは象徴的です。

 VLS-1の三度の失敗には組織体質の問題があるものと思われます。INPEを軸としてブラジルの宇宙開発は再編されるべきでした。しかし大惨事の後、中国とは違いブラジルは組織改革の好機を逃がしました。

 

 最後に、ブラジルの宇宙開発に隣接して、ブラジルの核開発に触れたいと思います。ブラジルとアルゼンチンの関係は、下手をすればインドとパキスタンの関係に似たものになっていた可能性がありました。両国とも一度は核兵器開発に手を付けていたのです。そうはならなかったのは、皮肉にもマルビナス戦争(フォークランド紛争)でのアルゼンチンの敗北でした。もし核を持っていたとしてもアルゼンチンは敗北したでしょう。核を使う選択肢はありませんでしたし、もしあったとしてもイギリスと核を撃ち合う状況は悪夢です。またこの戦争はラテンアメリカ諸国の結束を促し、アルゼンチンの軍事政権を崩壊させ、さらにその崩壊がブラジルの軍政終了に繋がり、両国の関係正常化に繋がりました。


 核が価値を失ったのに対して、ロケットは価値を失いませんでした。特に、アルゼンチンとの関係の中で価値を失わなかった事に注意が必要です。最近の打ち上げ機開発が急ペースになったのも、多分アルゼンチンの発表した独自衛星打ち上げ計画と無関係では無い筈です。もしアルゼンチンに追い越されたらブラジルは計り知れないダメージを負うでしょう。

 という訳で、次はアルゼンチンの宇宙開発史を。


[27] O foguetão brasileiro, o VLS-1, será lançado em 2010 e dos planos subsequentes para o mesmo

http://movv.org/2008/11/25/o-foguetao-brasileiro-o-vls-1-sera-lancado-em-2010-e-dos-planos-subsequentes-para-o-mesmo/


[28] INTERNATIONAL REFERENCE GUIDE TO SPACE LAUNCH SYSTEMS forth edition AIAA ISBN1-56347-591-X


[29] Governo quer turbinar programa espacial do país com nova agência

http://www.defesanet.com.br/space/noticia/1776/Governo-quer-turbinar-programa-espacial-do-pais-com-nova-agencia



ブラジルの宇宙開発史#4 -2012年7月16日(月)00時09分


 2005年10月、新しい宇宙開発計画が発表され、ここで打ち上げ機を2022年までに5種類、アルファからイプシロンまでの5種類を開発するという"南十字星計画"が明らかになった。アルファからイプシロンまでの5機種は南十字星を構成する5つの星に擬せられている。しかしまず、VLS-1の打ち上げ成功が達成すべき目標だった。次いで開発中の小型衛星製打ち上げ機VLMの打ち上げを成功させ、そしてVLS-1の上段を液体エンジンにしたVLS-アルファの出番となる。大型打ち上げ機は順次液体エンジンを使うものに更新されるという計画である。


 ブラジルの液体ロケットエンジンの開発は1950年に提案があったという話があるが、実行には移されていない。現実的な開発は1980年、この年INPEでエンジンの開発が始まり、1984年に最初のヒドラジン一液式エンジンの燃焼試験を行っている。1991年には最初の二液式エンジンの燃焼試験を行った。その後INPEは水冷燃焼チャンバの10kニュートン推力エンジンを作ろうとしたが、予算の枯渇によって開発は停止した[21]。

 1999年になって、ロシアの技術支援のもと400ニュートンの四酸化二窒素/UDMHエンジンの開発が始まった。これはCEBES衛星の打ち上げ能力に全く足りていないVLS-1以降の性能向上と打ち上げ機開発を睨んだものだった。この時点から"南十字星計画"の検討は始まっている。ロシアMAIの衛星用200ニュートン推力ヒドラジン二液スラスタがこの時期ブラジルで試験されている[22]。ブラジルはこれらのエンジンの試験の為に高空燃焼模擬試験設備を建造した。

 次いで5kニュートン推力の液酸ケロシンエンジンMFPL-5の開発が始まった。これは将来の大推力エンジン開発のための経験を積むのに最適のサイズである。地上試験エンジンであるが比推力314秒を達成した。

 次の15kニュートン、つまり1.5トン推力モデルMPFL-15は液酸アルコールエンジンであるが再生冷却を採用しフライアブルである。ガス押しで単段の打ち上げ機VS-15の開発と打ち上げが予定されていたが実現していない。液酸アルコール推進剤は性能は低くなるが燃焼反応が制御しやすくススが出ないため燃焼試験を繰り返すのに向いている。また事故が起きてもアルコールは水溶性であり消火に水が使える。このエンジンでブラジルは確実に経験を蓄積している[23]。

 現在開発中の7.5トン推力エンジンMPFL-75は液酸ケロシンのターポポンプ付きエンジンである。これはVLS-アルファの三段目エンジンに、更にVLS-ベータ以降の上段エンジンや4機クラスタした構成に利用される予定である。もしこの開発が失敗したり間に合わなかった場合はロシア製のRD-0109が使用される事になっている[24]。

 将来の開発予定にはMPFL-1500、つまり150トン推力エンジンというものが見える。これはVLS-ガンマ以降の一段目への使用を目指したものである。VLS-ガンマ、デルタ、イプシロンはLRBの有無で区別される同一系統のバリエーションである。VLS-ガンマは低軌道へ1トン、VLS-イプシロンは低軌道に4トンの打ち上げ能力を持つことになる。しかしこれらはまだ明確な開発スケジュールを持っているわけではない。現状スケジュールに乗っているのはVLS-ベータまでである。もしVLS-ベータが実現すればブラジルは極軌道に800キログラムの打ち上げ能力を得て、実用衛星の打ち上げ能力を達成することになる。


 2006年、ウクライナのツィクロン4打ち上げ機をアルカンタラから打ち上げる計画がようやく動き出したが、2010年の最初の打ち上げの予定は2012年にずれ込んだ。これもアメリカの横槍という説が流れているが、これは元々の計画が非現実的で資金を獲得できなかったからと、地元住人と用地買収で争いになったからである[25]。

 2003年当時の皮算用は大幅にあてが外れたとしか言いようが無い。GTO打ち上げ能力1.6トンのツィクロン4では、アルカンタラを使う最大の理由、静止衛星打ち上げで市場が見込めない。今のところツィクロン4に付いた顧客で確認されているのは、35キログラムのピギーバック小型衛星ナノジャスミンだけである[26]。しかもナノジャスミンは明らかに極軌道で運用される衛星である。実際のところツィクロン4の能力で望める顧客は極軌道を使う衛星のみであろう。つまり主衛星はブラジルの地球観測衛星となる可能性が非常に高い。


 2006年3月末、最初のブラジル人宇宙飛行士マルコス.C.ポンテスは第13次遠征クルーらと共に打ち上げられ宇宙船ソユーズTMA-8でISSへ移乗、8日間滞在した後、第12次遠征クルーらと共にソユーズTMA-7カプセルで地上に帰還した。

 空軍パイロットだったポンテスは1998年にブラジル人初の宇宙飛行士として選抜され、NASAで宇宙飛行士としての訓練を開始し、2000年にはミッションスペシャリストの資格を得た。これは1997年にISSに参加したことによるもので、そのほかTFEとExPRESSとそれぞれ呼ばれる二種類の暴露パレットをISSに供給する約束をABEはした。しかしブラジルの暴露パレットの開発は遅れ、そのためポンテスのシャトル搭乗の予定は後ろにずれ、2003年2月のコロンビア事故の後、ポンテスがシャトルで打ち上げられることが無いことが確定した。暴露パレットの出来ていない残りはアメリカの製作となった。

 2005年、ブラジルはロシアに2000万ドルを支払ってソユーズでポンテスをISSへ打ち上げることとした。ポンテスはミッションの後も引き続きISSプログラムの為に働いている。


[21] Tecnologia de Motores Líquidos no Brasil, Passado e Futuro

http://brazilianspace.blogspot.jp/2009/06/tecnologia-de-motores-liquidos-no.html


[22] The Development of LREST in MAI.

http://www.mai202.ru/ENG/work.table_lre.htm


[23] DEVELOPMENT OF EXPERIMENTAL FIRING TEST STAND TO INVESTIGATION AND STUDY TH E LIQUID ROCKET ENGINE CHARACTERISTICS

http://www.cta-dlr2009.ita.br/Proceedings/PDF/58769.pdf


[24] A TECNOLOGIA DE PROPULSÃO LÍQUIDA NO BRASIL

http://www.ecsbdefesa.com.br/defesa/fts/TPLB.pdf


[25]Projeto para lançar satélite de base no Maranhão trava

http://www.aereo.jor.br/tag/alcantara/


[26]超小型位置天文観測衛星   ―Nano-JASMINE(ナノジャスミン)の打ち上げ正式決定―

http://www.space.t.u-tokyo.ac.jp/nanojasmine/launch/index.html



ブラジルの宇宙開発史#3 -2012年7月14日(土)23時00分


 1999年10月、中国-ブラジル合同衛星開発計画の最初の成果であるCBERS-1(資源一号)が長征4号Bで極軌道に打ち上げられた。CBERS-1は重量1450キロ、片翼の展開式太陽電池パドルを持つ三軸衛星で、複数のCCDカメラ、赤外線イメージャー等を搭載していた。

 ブラジルは出資比率に従い衛星の30パーセント、衛星構体、電源系、通信系、解像度20mと73mの二つのカメラの開発を担当した[11]。中国は残りの熱系、姿勢系、データ処理系、5m、10m、40m解像度のカメラの開発を担当した。CBRES計画は中国では軍が運用に関与しており、中国側としては実際のところこれは偵察衛星開発の為のものだった。中国は欧州企業からの技術移転で衛星技術を飛躍的に向上させており、構体と太陽電池パドルを含む電源系を欧州企業からの導入技術で賄うことで、中国はこのCBERS計画で得たものを自国の衛星に直接反映することが出来たが、対してブラジルは得るものと組み合わせる技術を持たず、そして対等とは程遠い技術水準に留まっていた。

 ピギーバックで同時に打ち上げられた60キログラムのブラジル製科学衛星SACI1はパドルを展開し太陽指向で姿勢を安定させ、UCLAと理研の観測機器を含む各種の科学ペイロードを搭載していた[12]。それはSCD-2からは大きな進歩だったが、VLS-1で打ち上げ可能な実用衛星という目標にはまだ程遠かった。

 SACI1はロケットからの分離後、一度も電波を出すことは無かった。テレメトリが取れない以上、電源系に問題があったのかそれとも通信系に問題があったのかも判らずじまいとなった。


 1999年11月、ブラジルはウクライナと、アルカンタラでのロケット打ち上げに向けて幾つかの協定を結んだ。これはロシアを間に挟んだ複雑な取引で、誘導システムと液体ロケットエンジン開発のロシアによる支援を含んでいた。ブラジルは1995年10月の時点でアルカンタラをロシアに使わせる約束をしていたらしい[13]。

 アルカンタラからの打ち上げの最小数は10機、しかし6機打ち上げればこの計画はペイし、その後は全員に利益が行き渡ると皮算用されていた[14]。2003年に最終的に締結された案では最初の打ち上げ予定は2005年、しかしその後のウクライナの政変と経済状況がこのスケジュールをご破算にした。ブラジルではこの状況はアメリカの横槍によるものと多くの人間に思われている。

 ブラジルはアメリカともアルカンタラの使用について交渉を行い、複数の企業が利用に興味を持ったものの、中国での相次いだ打ち上げ失敗の後でアメリカは技術流出に敏感になっていた。最終的に、必要な技術保護手段を取った上でアルカンタラでの打ち上げは可能となる運びとなり、2000年に技術保障措置協定(TSA)の批准がまずアメリカで行われた。しかしブラジルでは議会の反対を受けることになる。一部の議員とメディアはブラジルの国家主権の侵害だとしてTSAの批准に反対した[15]。TSAはアルカンタラに国家主権の及ばぬ聖域を作ることと同じであり、国土の割譲であり、ブラジル側に調べられることなく軍事ペイロードを勝手に打ち上げ可能でありつまり軍事基地化が可能だと論じたのである。この反対でアルカンタラからのアメリカ製ロケットの打ち上げは無くなった。


 VLS-1の次の打ち上げは1999年12月だったが、またしても打ち上げは失敗した。当初打ち上げは順調に推移したが、センターステージの二段目の点火に失敗し、一段目はそのまま燃焼終了して分離、更に三段目も予定時刻の打ち上げ後118秒で点火したが、打ち上げ失敗と墜落は明白だった。機体は落下被害を防ぐために空中で爆破された。

 搭載されていた80kgの科学衛星SACI2も同時に失われた。SACI2はSACI1とは衛星構体のみ共通で、展開式太陽電池パドルを持たず、円形のパネルに太陽電池を貼ったものを展開済みパドル代わりに装備していた。


 VLS-1の三回目の挑戦は2001年になる筈だった。それが2003年まで打ち上げが伸びたのは通貨危機とその後の財政緊縮の影響だった。

 2000年にVS-30ロケットを使う打ち上げ計画PSO(プラットフォームサブオービタル)が始まっている。これは慣性誘導系や衛星用通信機器やセンサの動作試験用のもので、この時の試験コンポーネントにはファイバージャイロが含まれている[16]。VS-30はアルカンタラで2007年まで4回打ち上げられ、うち1回失敗した。

 2001年にはDLRからVS-30の性能向上の提案があった。0段目の新規開発モータS-31を追加したこのバージョンはVSB-30と呼ばれた。


 2003年8月、打ち上げ予定3日前の打ち上げ作業中に、地上でVLS-1 三号機は爆発した。爆発は突然ではなく、短い猶予があったようだが、直ぐに破滅的事態に発展し、移動整備棟で作業していた21人全員が死亡した。爆発の煙は遠くからも見え、整備棟周辺は破壊され荒廃した。搭載されていた65キログラムの技術衛星SATECと、北パラナ大学の大学生が作った9キログラムのUNOSATは同時に失われた。

 これは恐らく宇宙開発史上四番目の規模の惨事である[17]。死者の大半は空軍研究所とその協力民間企業の人員だった。

 空軍は2007年には四号機の打ち上げが可能であると主張をしたが、政府により2003年から5年間の宇宙開発計画の凍結が宣言され、事態の徹底究明が約束された。直後からアメリカのサボタージュによるものだという噂が立ったが、実際には資金不足による機器不良によるものらしかった。ロシア人技術陣を現場に招いて調査を依頼したが[18]、直接の原因は、一段目ストラップオンブースターの4本のうちのどれかの意図せぬ点火であるらしいという点までしか遡ることはできなかった。


 2003年10月、地球観測衛星CBERS-2が長征4号Bで打ち上げられた。これはCBRES-1とまったく同じ衛星だった。パンクロマチックカメラが追加されたCBERS-2Bのほうがまだ差異があるだろう。CBERS-2Bは2007年に打ち上げられた。この衛星運用には南アフリカも噛む様になっている[19]。

 次の世代のCBERS-3,4,4Bはおよそ2トンと大幅に大きくなる。発生電力も2.3キロワットまで増加し、ダウンリンク速度も倍以上の303メガビット毎秒まで速くなる予定だ。センサ類にはほとんど変化は無い。ダウンリンクなどの運用の柔軟性の為にバス機能を向上させたのが第二世代CBERSだと思われる。つまり前世代の運用には電力と回線の強い制約があったのだろう。CBERS-3は2012年の打ち上げが予定されている。

 ブラジル独自の地球観測衛星Amazônia1は、INPEが新規開発したPMMバスに基づく衛星である。実際にはCBERS-3に積む予定の20mカメラを積むだけの500kg級三軸衛星で、回転フランジ付き展開式パドルを持つ。Amazôniaは2013年以降、今後シリーズで打ち上げられる。打ち上げ機は恐らくはツィクロン4を使うものと思われるが不明である。同じバスで科学衛星Equars、Miraxの打ち上げも2018年以降にスケジューリングされている。

 2009年頃まで、INPEの開発スケジュールにはレーダー地上観測衛星CBSARの文字が存在していた[18]。2014年打ち上げで解像度30mと高い解像度を持つのが特徴だったが、2011年にはCBSARはスケジュールから消滅した[20]。代わりに2018年打ち上げ予定の独自SAR衛星が現れている。これら変化は中国の遥感シリーズ偵察衛星と無関係ではあるまい。恐らく第一世代の遥感SAR衛星はCBSARとよく似た構成、同じ解像度を持っているものと思われる。ブラジル独自SARはPWMバスを用い、幕展開式パラボラアンテナンを持つ案が発表されているが、この案の出所を考えると、中国の第二世代遥感SAR衛星が展開式パラボラを持つという噂が現実味を帯びてくる。


[11] An Overview of the Brazilian Space Program

http://www.av.it.pt/workshops/docs/Brasil_Space_Thyrso_Villela.pdf


[12] GEOMAGNETIC FIELD INVESTIGATION ON THE POLAR MICROSATELLITE SACI-I

http://www-ssc.igpp.ucla.edu/personnel/russell/papers/geomagnetic/

Satélite Saci e CBERS

http://www.redetec.org.br/inventabrasil/saci.htm


[13]Brazil – America’s Space “Terra Nuova"

http://english.ruvr.ru/radio_broadcast/36564197/51051317.html


[14] Russia begins elbowing Ukraine out from Brazil's space program

http://en.rian.ru/analysis/20080917/116874710.html


[15] Romancing the Skies

http://www.brazzil.com/cvroct02.htm


[16] Foguete brasileiro fará experiências em microgravidade

http://www.inovacaotecnologica.com.br/noticias/noticia.php?artigo=010130070710


[17]

1:1996年2月15日中国西昌射場における長征三号Bによるインテルサット708の打ち上げ失敗-死傷者不詳

2:1960年10月24日ソ連バイコヌール射場におけるR-16ミサイル試射準備中-死傷者122名

3:1980年3月18日ソ連プレセック射場における8A92Mヴォストークによるツェリナ軍事通信衛星打ち上げ準備中-死傷者48名


[18] Russos que ajudarão a investigar o acidente com o VLS-1 chegam na sexta

http://agenciabrasil.ebc.com.br/noticia/2003-09-03/russos-que-ajudarao-investigar-acidente-com-vls-1-chegam-na-sexta


[19] 中巴地球资源卫星○三、○四星研制稳步推进 - 航天专题讨论区

http://www.9ifly.cn/sub/thread-333-1-1.html


[20] Plano Diretor 2011 - 2015

http://www.inpe.br/noticias/arquivos/pdf/Plano_diretor_miolo.pdf



ブラジルの宇宙開発史#2 -2012年7月10日(火)23時50分


 1983年、ナタルから北西に1000km離れた、サン・ルイスからサン・マルコス湾を隔てた西岸のアルカンタラに、衛星打ち上げ機VLS-1のための新射場の建設が始まった。アルカンタラの位置は南緯2度と、ほぼ赤道直下である。ESAのギアナ宇宙センターが北緯5度、アルカンタラほど赤道に近い射場は他には存在しない。

 SONDA IVの初飛行は1984年11月となった。これはランチャ式ではなく垂直打ち上げ式の大型機で、高度1000kmに到達する能力を持っていた。新規開発の一段目径は1メートル、二段目はSONDA IIIの一段目を使用しており、全長9.1メートル、全重は6.9トンに達した。性能は大幅に向上し、500キログラムのペイロードを高度1000キロに打ち上げる能力を持っていた。また機体構造にも大幅な改良がみられる。SONDA IVの一段目は衛星打ち上げ機VLS-1の構成要素として開発されていた。SONDA IVは1989年まで4機打ち上げられ、うち3機が成功し、1機が1987年に計画高度に到達せず失敗している。


 1985年3月、科学技術省が設立され、INPEは軍の管轄を離れ、科学技術省の直接管理組織となる。同年最初のブラジル保有の衛星、静止通信衛星ブラジルサットが打ち上げられた。これは通信会社エンブラテルがカナダのスパーエアロスペースに発注したもので、米ヒューズ社製HS-376バスの衛星で、アリアンIIIで打ち上げられた。

 同年、ブラジルは中国と衛星開発についての協力で合意した。1988年、中国-ブラジル合同の地球観測衛星開発計画は発足した。この計画が狙うのは地球観測センサプラットフォームとなる中型三軸衛星である。この目標はブラジルにとってはまだ遠いものであったし、当時静止衛星打ち上げに成功したばかりの中国にとっても難易度の高い計画だった。

 最初のブラジル製衛星はINPEの開発によるものではなく、アマチュア無線団体AMSAT-brazilによるアマチュア無線衛星DOVEだった。各辺15センチ、重量13キログラムの立方体で、1990年1月、アリアン4でSPOT-2と相乗りで極軌道へ打ち上げられた。DOVEはそれから1998年まで正常に動作した。DOVEはSCD-1の先行準備の役割も果たしたものと思われる。

 INPEが開発した通信技術衛星SCD-1は1993年に高度730〜790キロの軌道にペガサスロケットで打ち上げられた。SCD-1は重さ115キロのスピン衛星で、通信中継の試験を行った。この衛星はVLS-1で打ち上げる衛星の試験機でもあった。SCD-1の軌道上での機体寿命は1年だったが、今でも機体は稼動し続けている。


 衛星打ち上げ機VLS-1はSONDA-IV一段目の大型固体モータのバリエーションで構成され、およそ300キログラムを低軌道に、100キログラムを極軌道に打ち上げ可能な四段式全固体ロケットだった。

 一段目は基本的にはSONDA IVと同じ径1メートルのHTPB固体モータS-43を4つ束ねたもので、二段目はその4本の中央の、ほぼ同型の固体モータS-43TMである。中央の二段目は打ち上げ55秒後に点火する。高空の空中点火でありそのためノズルが大型化しており、一段目のS-43とスペックが違うのはこのせいだと思われる。一段目のノズルはそれぞれ外側に11度の傾きがついている。一段目も二段目もノズルをのぞけばモータ本体は恐らく同じものだ。

 三段目のモーターS-40は径は同じで長さは短くなっている。推進剤の燃焼方式が内面燃焼であるため、短くなった分燃焼面積が狭くなるため推力は一段目と比べて低く、径が同じだから燃焼時間は1段目とほぼ同じとなっている。VLS-1のアビオニクスは三段目と四段目の間の部分に集中している。ここにロール制御用の二液スラスターもある。一段目から三段目まで、ピッチとヨーの制御はノズルのジンバル機構が担当するが、ロール制御はここだけである。四段目S-44はごく短い円筒で推力は3.3トン、燃焼時間は他とほぼ変わらない。四段目に姿勢制御は無い。三段目は分離前にロール制御スラスターを使ってスピンアップしてから四段目を分離する。フェアリング径は1.2mと少し広くなっている。機体全長は19.5メートル、全重は50トンに達していた[6]。

 1993年4月、VS-40ロケットの打ち上げは成功した。これは実質VLS-1の三段目と四段目で、特にロール制御と慣性誘導、そして四段目分離の機能を実証するために不可欠な打ち上げだった[7]。


 1994年2月、ブラジル宇宙局(AEB:Agência Espacial Brasileira)が設立され、ロケット開発はAEBの管轄となった。しかし実際には固体打ち上げ機開発は空軍が行い、それ以外の宇宙開発活動はINPEがおこない、AEBは官僚組織として存在しているだけである。

 1995年10月、ブラジルはMTCR(ミサイル技術管理レジーム)に参加した。これによりブラジルはミサイルとそれに関わる装置および技術の輸出について規制を行うこととなった。そしてこれにより、他のMTCR参加国から技術および部品の輸入が可能となった。MTCR参加国は、規制部品や技術の輸出にあたって、それが第三国に拡散しないことの保証が求められる。MTCRへの参加は、輸出先当事者として第三国拡散をしないと保障するもっとも明確な方法なのだ。またこれはMTCR参加国への輸出も可能にした。

 1997年4月、最初のVS-30ロケットが打ち上げられた。この機体は1980年から開発されていたものの打ち上げる機会を得なかった機体で、SONDA IIIの単段近代化型だった。モーター径はSONDA IIIと同じ56センチ、全長5メートル、全重1.4トン。この機体はドイツ宇宙開発機関DLRとの共同プロジェクトによって日の目を見ることとなった。。DLRとIEAの打ち上げの主力はカストールIV固体モータを使った大型のMAXUS打ち上げ機だが、そこまでのペイロード能力を必要としない需要の為に使用された。

 10月の二度目の打ち上げは北の極地、ノルウェーのアンドヤ射場から行われた。VS-30は極地打ち上げが可能な可搬ロケットとして新しい人生を送ることとなる。翌一月には三度目の打ち上げも成功した


 1997年11月、最初のVLS-1の打ち上げは失敗した。打ち上げ機は離床直後から明らかに機体を傾けていた。また上昇速度は余りにも遅かった。一段目の固体モーターの一つが点火しなかったのだ。機体は上空で空力破壊し墜落、地上コマンドで爆破された。

 これにより搭載していた衛星SDC-2Aも失われた。SDC-2AはSCD-1から更にデータ中継能力を向上し、磁気トルカによる姿勢制御能力を持っていた。SDC-2Aと同型機のSDC-2は1998年にペガサスで打ち上げられた。


 1998年3月、VLS-1の二度目の打ち上げに向けて性能検証のために、VS-40ロケットは再び打ち上げられた。ペイロードはオランダのフォッカースペース社製のレコーダとセンサで、打ち上げは問題なく成功し、各段の挙動データが取得された。

 当時のVLS-1の慣性誘導系はロシアから導入したブラックボックスだった可能性がある。ブラジルはMTCR参加直後からロシアからの技術導入に向けて動いていた[8]。慣性誘導系は二液スラスター込みで導入され、順次すこしづつ国産化されたものと思われる。2003年の三号機のスラスターは国産だったと思われるが、慣性誘導系はまだロシア製もしくはフランス製である[9]。2000年からのVS-30の打ち上げは国産慣性誘導系の試験のためのもので、恐らく慣性誘導系が完成したのは2006年から2007年のあたりであろう。次のVLS-1打ち上げでは国産慣性誘導系が使用される筈である[10]。


[6] INTERNATIONAL REFERENCE GUIDE TO SPACE LAUNCH SYSTEMS forth edition AIAA ISBN1-56347-591-X


[7] O Versátil Foguete VS-40

http://brazilianspace.blogspot.com/2009/05/o-versatil-foguete-vs-40.html


[8]RECKLESS RUSSIAN ROCKET EXPORTS

http://www.fas.org/spp/starwars/congress/1997_h/s970605rrr.htm


[9] Brasil desenvolve sistema de navegação de satélites e foguetes

http://clubecetico.org/forum/index.php?topic=19226.25


[10]País retoma desenvolvimento de nova família de foguetes

http://www.aereo.jor.br/tag/vls/



ブラジルの宇宙開発史#1 -2012年7月8日(日)23時55分


 ブラジルは1961年に宇宙開発を始め、1990年代には宇宙に手が届くところまで到達したが、以後足踏み状態にある。この状態には技術と国際政治が絡んでおり、しかしブラジルは近いうちにこの踊り場から脱出するつもりである。


 1961年のプラジル民政時代末期、世界が宇宙開発の話題で持ちきりの中で、国家宇宙活動委員会(Grupo de Organização da Comissão Nacional de Atividades Espaciais:GOCNAE)は発足し、下部機関として国立研究協議会(CNPq)が設立された。ブラジルはその後軍政下に置かれるが、宇宙開発は継続された。COGNAEは1963年にCNAEと改名された。

 1965年、レフシェの北250kmナタル近郊の海岸に、バライラ・ド・インフェルノ射場(Centro de Lançamento da Barreira do Inferno; CLBI)、日本語訳すると"地獄の障壁"射場が開設され、観測ロケット打ち上げが始まった。

 初期のブラジルの宇宙開発は米NASAとフランスの支援の下に行われたが、それは同時に独自開発に対する監視でもあった[1]。支援からはロケット技術そのものは注意深く外されていた。科学的成果が欲しいのなら手段はブラックボックスで提供しましょう、という訳だ。しかしブラジルはロケットの独自開発を推進した。

 同年4月に打ち上げられた国産観測ロケットSONDA Iは、4.5kgのペイロードを搭載して高度70kmに到達する能力を持っていた。全長3.1m、直径127ミリ、全重59kg、二段式の固体ロケットだった。推薬の比推力は計算すると200秒以下なのでダブルベースであろう。開発は主に空軍研究所(CTA)で行われた[2]。

 これら打ち上げの実際の開発管轄は、軍政下においては空軍である。当時のブラジルの政権は核開発に意欲を持っていた。その輸送手段としては当然弾道ミサイルが必要である。しかし当時のブラジルは何の技術的下地も持っておらず、開発は基礎からとなった。固体ロケット技術が選ばれたのは当然の流れだった。

 12月には同射場でNASAのナイキロケットが観測用途として打ち上げられている。使用されたのは固体二段式のナイキ-アパッチで、高度200キロへ、ペイロード36キロを打ち上げる能力を持っていた。これらは南半球のX線天体の観測に使用された。

 翌年には20から50kgのペイロードを高度100kmまで打ち上げる事ができるSONDA IIが打ち上げられるようになっていた。SONDA IIは全長4.5m、直径30センチ、全重363キロと大幅に大型化し、単段でペイロード70キロを高度100キロへと打ち上げる能力を持っていた。推薬組成はSONDA Iから変わっていない筈だ。

 CNPqは1966年に衛星地上局の運用を開始し、アメリカの気象衛星データの受信利用を始めた。1973年にはランドサットのデータ受信を始めている。地上局運用は初期のCNPqの業務の柱だった。


 1967年、トラテロルコ条約の調印と共にブラジルは(少なくとも表向きは)非核化に舵を切り、同時に核弾道ミサイル開発計画も正式には終了したものと思われる[3]。しかし実際には1980年代までブラジルは核開発をおこなっていた[4]。

 1969年には二段式のSONDA IIIの開発が始まった。SONDA IIIは全長7メートル、全重1.5トン、一段目の径は55センチになり、150キロのペイロードを高度650キロへ打ち上げる能力を持っていた。SONDA IIIの最初の機体は開発開始から7年後の1976年2月に飛行した。SONDA IIIは弾道ミサイルとすれば射程450キロに相当する。計算してみると比推力が230秒程度あるので、この世代になって、固体推薬の組成は過塩素酸アンモニウムを酸化剤に用いたHTPBコンポジット推進剤になったものと思われる。

 1970年、本格的な宇宙開発計画が承認され、CNAEはCOBAEに、CNPqは1971年に国立宇宙科学研究所(INPE)に改組された。ブラジルの宇宙開発計画は国産打ち上げ機による国産衛星の打ち上げ、特に100〜150キログラム級の通信衛星と地球観測衛星の開発と打ち上げがまず目指すところとされた。

 INPEには宇宙開発に関する広範な使命が与えられたが、ブラジル経済の長く続く低迷に伴い、その活動もゆっくりとしたものとなった。


 ブラジルのロケット開発に対する、弾道ミサイル開発の隠れ蓑でないかという疑惑は長く燻っている。1980年代にブラジルは過塩素酸アンモニウム、固体推進剤の主材料の独力調達と生産に成功した[5]。同年代にOrbitaとAvibrasの二社はSONDAベースのロケット弾を世界各地に売り、特にAvibras社のAstrosロケットは10億ドル以上を売り上げた。頓挫したイランの固体ロケット開発にはAvibras社が関与していたことが知られている。北アフリカとリビアの弾道ミサイル開発にも関わっていたらしい。Avibras社は更に大きな弾道ミサイルを開発しようとしたが1990年に同社は倒産し、開発は初期の段階で頓挫した[5]。

 1980年代にはアルゼンチンも中東に固体ロケットを売り込み、また弾道ミサイル開発計画を進めていた。射程900キロ近いCondor II弾道ミサイルの開発が進められていたが、アメリカの圧力で開発は頓挫した。しかしその後この開発はリビアに移って続行していた可能性がある。ブラジルはこの隣国の様子をつぶさに見ていたに違いない。ブラジルとアルゼンチンの弾道ミサイル開発が同時期に行われていたのは、両国間の緊張関係のせいであり、両国間の緊張緩和こそが弾道ミサイル開発中断の真の主原因である。さもなければアメリカの圧力は功を奏さなかったに違いない。

 1990年代にはブラジルは米オービタルサイエンスから誘導システムを買おうとしたが米政府の介入によって頓挫したことが知られている[5]。これはペガサスでの衛星打ち上げ時の関係を利用しようとしたものだと思われる。


[1] Barreira do Inferno: Uma História de Pioneirismo

http://www.pontodepauta.com.br/site/noticias.php?idNoticia=5389


[2] Comando-Geral de Tecnologia Aeroespacial

http://api.ning.com/files/px-rMmd8t701DW-8ejx7RzjWaUUR9iQDmJEKZ8wrglA7e8-*r7zU8PkxCNTBONutzuSYmYYSXMg29TmkF5PDp67snl4zJZtv/BrigadeiroEngVenncioAlvarengaGomes.pdf


[3]BRAZIL, THE UNITED STATES, AND THE MISSILE TECHNOLOGY CONTROL REGIME

http://lasa.international.pitt.edu/members/congress-papers/lasa1989/files/TollefsonScott.pdf


[4]アルゼンチンとブラジルにおける核政策-開発競争から協調管理への展開-

http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/hps/17/hps_17_41.pdf


[5] BRAZIL’S ACCESSION TO THE MTCR

http://cns.miis.edu/npr/pdfs/bowen33.pdf

Missile Proliferation - Brazil

http://www.fas.org/irp/threat/missile/brazil.htm



北朝鮮の原子力ムラ -2012年4月1日(日)00時18分


 北朝鮮の原子力事業は1956年、ソ連と原子力研究協定を結んだところから始まる。1961年には平壌の北80キロの寧辺に研究施設の建設が始まり、翌年には2メガワット出力の研究用軽水炉IRT-2000が建設された。この施設はソ連の強い監視下にあり、当時は医療用アイソトープの生産程度にしか利用できなかったものと思われる。そのため直後から北朝鮮は独力による原子炉の建設に邁進することになる。

 原子力関連の研究施設、教育施設は平安北道に集中した。1970年代始めに北朝鮮はIRT-2000の熱出力を倍加した。1977年には熱出力は8メガワットに達するようになった。1979年、北朝鮮は熱出力25メガワットの黒鉛減速・炭酸ガス冷却炉の建設を始めた。これは1984年に完成したが英国のコールダーホール型原子炉をそっくりモデルにしたものである。1986年に運転を開始したこの原子炉では発電も行い、電力出力は5メガワットに達した。

 同年、原子力工業省が設立され、寧辺に電力出力50メガワット、寧辺北西20キロの泰川に200メガワットの原子炉の建設を開始した。北朝鮮は1974年にIAEAに加盟、1985年にはNPT(核不拡散条約)にも加盟した。またソ連から発電用原子炉を供給してもらう協定も結んでいる。核不拡散の遵守によって北朝鮮はソ連から発電用原子炉の供給を約束されたものと思われる。この時期北朝鮮は、少なくとも表面上は核兵器開発などおくびにも出さず、発電用原子炉の建設を重視していたことがわかる。しかしソ連は北朝鮮の兵器核開発に対して疑惑を抱いていた筈だ。

 この体制はソ連の崩壊にはじまる一連の流れの中で大きく変化することになる。

 

 原子力技術は、様々な科学技術の中でもイデオロギー的な骨組みの中に位置することが大きい技術である。多くの国家指導層ではその国家の存在に関わるものとされ、しかし大衆には強く忌避されるのも常である。核兵器の有効性については、実戦利用から有益な勝利を得られる可能性が、現状核を欲しがるタイプの国家には特に薄く、政治利用が唯一の有効利用となる。従い原子力技術もいきおい政治化されがちとなる。つまり物理的現実より観念と関係者の利害が優先される。


 現在の日本の原子力産業がそうであるように、1980年代末の北朝鮮の原子力関係者も研究者、行政、現場の三者が強固に結合して互いを護っていた。とても実現不可能な輝かしい未来を喧伝し、不都合を糊塗し、狭い社会的繋がりを保持していたが、これは当時の北朝鮮の政治的状況を考えると致し方ないものであろう。特に彼らはソ連との繋がりが強固であり、金日成独裁を脅かす可能性を常に疑われ続けてきた。

 1991年にソ連が崩壊すると、北朝鮮の原子力関係者の後ろ盾は失われた。以後1993年まで政治的には冷や飯を食らう状況にあったが、原子力事業の優先順位は形式的には変化は無く、関係者は優先度の高い配給を受けることが出来た。しかし金正日体制への移行に伴う権力整理の中で、原子力関係者はほぼ丸ごと政治犯として排除されることになる。これは核兵器開発体制を確立する為のものとされるが、北朝鮮の原子力技術の中核がここで失われ、その後北朝鮮はパキスタンとの協力での核開発を模索することになる。こういった状況はそもそも金正日らの望むところではなかったとされるが、1993年の北朝鮮の原子力開発において何があったのか、明らかになったのは最近のことである。

 1993年の粛清は原子力工業省とその傘下の放射化学研究所、304研究所らの現場機関、原子力科学委員会、平北物理大学核物理学科と広範に及び、研究者や行政関係者らおよそ800人が、平安北道大舘郡に新設された政治犯収容所である第202教化所に送り込まれた。これは原子力事業全般の人民武力部と国防委員会への移管に伴う処置だった。

 北朝鮮の原子力関係者の結合は、ただ単にこの移管を行政担当者の排除のみに終わらせなかった。研究者も技術者ももはや切り離せない一体のものとして扱われたのだ。

 第202教化所は元は金日成の見学用のモデル農村”躍進村”だった。ここは千里馬運動・主体農法のモデル農場として整備されたが、主体農法で荒廃してからは農場としての機能を捨てて見学コースとしてのみ存在していた。これを政治犯収容所に転用されたのである。元来この措置は一時的なものを意図していたらしい。第202教化所は政治犯収容所としては破格の好待遇環境であり、労働も山の裏手に建設されていた核濃縮プラントを格納する地下施設の建設に関わるもので、けっして悪条件というものでは無かった。

 しかし翌年金日成が死去し、北朝鮮の経済、そして食糧事情は極端に悪化してゆく。第202教化所の状況も極めて劣悪なものとなっていった。収容されていた原子力関係者たちは外部との接触を絶たれていたために、これは自分たちを処分しようとする方針があるに違いないと確信するようになっていたった。彼らはIAEA査察に伴って核濃縮プラントを隠匿する混乱にまぎれて、虎の子の濃縮プルトニウム5キログラムを秘匿することに成功した。彼らが第202教化所で組み立てたのはシンプルなショットガン型だったとされている。


 1995年夏、第202教化所は消滅した。これは水害によるもので、大規模な地滑りによって壊滅的な被害を蒙ったとされている。この水害の原因は、収容された人々が周囲の木々を伐り過ぎたからだという。この時には放射性物質は検出されていない。

 この時期の第202教化所の様子は混乱を極めたものだった。咸鏡北道の新しい政治犯収容所である第16号管理所の噂が、彼らがやはり処分されるのだという観測に火をつけた。第16号管理所は核爆発実験のトンネル労働者確保のための施設でもあり、その環境の苛烈さは恐怖の的となった。しかし、原子力は国家にとって極めて重要で彼らが換えることの出来ない研究者、技術者、管理者であり、いずれ再び重用される時が来るという観測も存在していた。事実この時期は、IAEA査察等から彼らを隠す意図が存在していた。しかし第202教化所の内部では、この2つの見方をとる二派に分裂して抗争が始まっていた。悲観派の最右翼がクーデター派で、彼らが核爆弾製造へと突っ走ったとされるが、実際にはクーデターの手法も、その際に連係すべき軍第6、第7軍団との関係も、一切存在していなかった。彼らはあまりに狭いコミュニティに引き篭もり過ぎて、権力と関係の無い外部人脈を欠いていたのだ。楽観派はせっせと木を伐って薪の収入を得ていたという。彼らはあまりに楽観的に過ぎていた。実際には原子力工業省は解体され、行政関係者は元の地位に戻ることなど不可能だった。研究者、技術者も隔離環境の生活になる筈だった。

 1995年夏の水害で、第202教化所に生き残った者がいたかどうかは不明である。こうして北朝鮮の原子力ムラは自滅的な消滅を遂げた。5キログラムのプルトニウムの所在は不明となり、中距離弾道ミサイルの開発と連動した核弾頭開発の試みはこの時点で頓挫した。北朝鮮は寧辺の保管済み燃料棒を処理するしか高濃度核物質を手に入れるあてが無くなった。また原子力技術の中心的人員を失ったことによって、北朝鮮は10年の足踏みを余儀なくされたのである。

-----------------------------------------------------------------------------

はい、後半嘘です。現在北朝鮮の核開発は国防委員会の管轄下にあるものと思われますが、詳細は不明です。10年の足踏みは北朝鮮の核開発の謎の一つです。

イデオロギーの枠組みが付いてまわる種類の技術は、単なる技術や経済ではその存在を論じることができません。思想とそれに基づく広範囲な説得が必要なのですが、思想というのはえてして小規模なカルトに閉じがちなものです。多分、思想を扱う技術がまず先行して必要なのでしょう。

……来年は軽いネタにしたいと思います。まじぽか二期とか。



プログラミング HAL/Sと、長征本訂正箇所について -2012年1月3日(火)18時43分


スペースシャトル搭載計算機専用プログラミング言語HAL/S本こと"プログラミング HAL/S"のデータを公開いたします。以下のurlからダウンロードしてください。

プログラミング HAL/S pdf版

プログラミング HAL/S epub版

pdf版はandroid7インチタブレット等での見え方を考慮して、上下左右余白を小さく修正しました。epub版はそれでも文字が小さくて見え辛かったりする場合向けですが、図表が大きいのでこれまた見え辛かったりするかも知れません。


先日頒布いたしました同人誌"宇宙の傑作機No.17 長征二号"に、いくつかミスを見つけました。申し訳ありません。今のところ見つけた箇所は以下の通りです。



Make:Tokyo meeting07と宇宙の傑作機新刊 -2011年12月3日(土)23時04分


Make: Tokyo meeting 07で、ガンマ線カウンタの基板を貰われて頂いた方へ:データ一式は、

http://www2a.biglobe.ne.jp/~mizuki/tmp/gammacounter.zip

にあります。HAL/S本のデータは、年明けに公開いたします。


同人誌"宇宙の傑作機No.17 長征二号"をコミックマーケット81、12月30日(二日目)東フ24b、風虎通信にて頒布いたします。

1970年代から現在まで中国の宇宙開発の主役であり続けているワークホース、長征二号とそのバリエーション、長征三号、四号、風暴、そして弾道ミサイル東風五号についての本です。バリエーション含めて計171+2機(原稿を書き終わった後に2機打ち上がった)という圧倒的な打ち上げ実績は、特に1996年以降の大改革と打ち上げ回数の増大、そして信頼性の向上によるものが大きいでしょう。本書では中国の品質保証体制や有人システムの体制も記述しています。これらを理解するためには中国の宇宙開発史を知ることも必要でしょう。本書では文化大革命と宇宙開発の深い関係についても触れています。

勿論、長征二号の構造についてもたっぷりと解説しています。長征二号のタンク構造は意外なものでした。二段目の分離構造も、実はトラス構造のところで分離するんじゃ無いんですね。量産性の高いエンジン構成、アクセス性の良いマンホールも見逃せません。そして将来の代替機、長征五号らにもちょっと触れています。

--------------------------------------------------------------------------

さて、ちょいと書きそびれてしまった、中国の宇宙開発の黒歴史、1996年2月15日の大惨事に関して、西昌射場周辺の地理について説明をここでしたい。

は、西昌射場周辺のgoogle mapより取得した上空写真である。画像取得日は2006年11月となっている。これに番号を振った。1は射点(二番射点)、2は墜落現場、3は衛星組立棟、4は新設されたと思しき住宅地、5は打ち上げ管制及び管理棟である。現在打ち上げ時はここより射点側へは立ち入り禁止となっている。実際にはちょっと先の道路上が境界である。また管理棟のとなりのビルの屋上が観望台になっていて、観光客はここで打ち上げを観る。

問題は4で、およそ80棟ほどが確認できるようだ。もしこれが1996年以降に建設されたとすれば、墜落現場にあったとされる集落の規模と一致することからみて、現在の射点作業者の住宅だと考えることが出来るだろう。

3の位置関係も見てほしい。かつては2を経由せずに移動することは出来なかったものと思われる。集落の破壊状況を撮影した外国人技術者は、3で作業していたものと思われる。中国側は、どうしても集落の惨状を外国人が見てしまうことを防げなかったのだ。で、後に2を経由しない道路が建設されたようだ。もしかすると現在も2を全く経由しないルートを取っているのかもしれない。2には現在、荒地と公共施設、そして公園と科学館があるのみである。



放射線とコンピュータと半導体についての基礎的な諸々 #5 -2011年7月14日(木)23時09分


コンピュータシステムにおいて最も複雑で、最も問題を起こしやすいのはソフトウェアです。開発手法によっては複雑さに対する問題発生の割合をかなり低くすることができますが、バグを無くすことはできません。重要なのはバグが発生することを見越して対策することと、テストです。

ポインタを示すデータがビットエラーを起こしたとしても、例えば例外で捕捉してそこから復帰できれば良いのですし、あらかじめ問題の無いことを確認できれば良いのです。

更に小型システム向けの簡単なテクニックについて述べていきます。まずフラグとしてbool値を使うことは避けましょう。どうせアクセスは最低でもバイト単位なのです。0x00を書き込み時には偽値に、0xffを真値に割り当て、読み出しの時に8ビットの中で4ビット以下しか立っていなければ偽値、それ以上なら真値とみなせば、なんと4ビットまでビットエラーを許容できてしまいます。ただ普通はここまでコストを掛けなくても良いでしょう。2ビット、3ビットをフラグ表現に割り当てるという手法で充分です。

割り算の分母に変数を使うのは避けたいところです。もし分母が0になったら0除算が起きます。できるだけ割り算はビットシフトに置き換えましょう。

プログラムをSRAMに展開するのは避けるべきです。フラッシュマイコンの利点は、プログラムをフラッシュメモリから直接実行できる点にあります。フラッシュメモリの耐放射線性は、例えばできるだけ定数テーブルを利用するなどして生かすことが重要です。フラッシュメモリの空き容量は復帰処理に戻るコードで埋めておきましょう。


その他の素子、部品についても述べておきましょう。

抵抗やコンデンサ、インダクタは材質にもよりますが、ほとんど放射線の影響を受けません。炭素皮膜抵抗、金属皮膜抵抗、積層セラミックコンデンサ等は、放射線耐性を考慮する必要はありません。

トランジスタも気になるのはトータルドーズだけで、適切に寿命を設定すれば問題なく使える筈です。FETは放射線に対して弱いのですが、まずトータルドーズ耐性に関しては定格耐圧でだいたいのところ見当がつきます。パワーMOSFET、それもn型ではラッチアップに良く似た現象が起こりますが、これはラッチではなく破壊現象です。ドレイン側の寄生ダイオードに逆電圧降伏を起こすだけの電圧が発生すれば、ソース側の寄生ダイオードを経由して電流が流れてしまいます。p型だとソース側に逆電圧が必要で、すると必要な電圧はかなり高くなるのでこの現象はあまり考える必要がありません。これも耐圧によって耐放射線性が違いますが、同時にドレイン側電圧と耐圧の差が重要になります。n型の弱さは、Hブリッジでモータドライバを組んだものを放射線環境で使うのに躊躇する原因となります。しかしMOSFETでも最近話題のSiCは原理的に放射性耐性がかなり強い筈です。

ダイオードも耐性はモノによってバラバラです。とはいえスイッチングデバイスではないので気にするのは基本的にはトータルドーズだけでしょう。

フォトカプラやフォトMOSリレーは放射線に比較的弱いため、宇宙ではあまり人気がありません。宇宙では基本絶縁は考えません。衛星ではけっきょく電源の根っこはバッテリなのですから。地上で絶縁が必要な場合はパルストランスを選択しましょう。

太陽電池はガラス位でしかシールドできないので、耐放射線性は極めて重要です。ガリ砒素太陽電池は強く、変換効率も高いのですがいかんせん高価です。ですから宇宙での寿命如何では結晶シリコン太陽電池は候補に挙がります。性能は高く比較的安価なので、性能劣化を見込んでも充分使い物になります。とはいってもやっぱり高価です。

電荷結合素子であるCCDはDRAM程度の耐性を持ちますが、CMOS撮像素子の耐性はSRAMそのものです。ビットが化けます。とはいえ多少化けたからといって深刻な影響が出るようなものでも無いので、多くの場合放置されます。画像をフレームとして送り出すロジック部のほうが放射線の影響は致命的です。例えばデータフレームから垂直同期信号が消えうせたら、受け手は画像を丸ごと取りこぼすでしょう。

ただ、ここで暗黙の前提としている原発災害による放射線に対しては、撮像素子の放射線耐性は考える必要はまずありません。撮像素子は鉛ブロックなどでシールドしておいて、ミラーで光路を屈曲させて外の光景を素子に届ければいいのです。放射線はミラーで反射されたりしません。厳密にはX線は電磁波なので浅い角度では反射しますが、二段屈曲で全て遮る事ができる筈です。こういう工夫は原子力工学の黎明期では当たり前のことでした。


原発災害による放射線という意味では、実のところ宇宙とは耐放射線性の考え方が随分変わってきます。核種崩壊で粒子に与えられる数MeV程度のエネルギーでは、いまどきのデバイスなら事実上ラッチアップを考慮する必要はありません。宇宙での陽子線は太陽フレア由来で数百MeVのエネルギーがあったりしますし、ガンマ線に至っては重力崩壊によって与えられたと思しき滅茶苦茶なエネルギーのものがあったりします。宇宙用ではこういうエネルギーに対処する必要がありましたが、地上ではその必要がありません。

逆に炉心近くの環境では、数キログレイの放射線環境に耐えるものが要求されます。地球低軌道では100グレイ程度に耐えればいいと考える事が多いのですが、従ってトータルドーズ及びアップセットは本格的な考慮が必要です。トータルドーズに関しては、性能劣化を睨みながら頻繁にボード交換を行うといった対処が地上では可能です。

そもそも地上で動くロボットには、重量制限が事実上ありません。3mm厚のアルミなんて薄紙一枚な遮蔽ではなく充分な遮蔽が行えます。例えば核種崩壊による数MeVのガンマ線なら、50ミリの鉛、90ミリの鋼で放射線量は1/100にできます。放射線量を1/100にできれば、低軌道用の耐放射線設計でも充分使い物になります。遮蔽を有効に使うためには、素子の高密度実装による被遮蔽面積の最小化が必須となるでしょう。


しかし、放射線環境で半導体デバイスを使おうと考える前に、使わないでできないか、まず考えていただきたいと思います。モータの駆動もリレーが使えます。リレーの制御も直接ケーブルを引っ張って駆動することができます。センサの代わりに棒が使えないか、PWM制御の代わりにカムが使えないか、考える事ができるでしょう。



放射線とコンピュータと半導体についての基礎的な諸々 #4 -2011年7月13日(水)21時25分


ここまでは素子の耐放射線性について述べてきました。次に設計で耐放射線性を向上する方法について述べていきます。


対策の代表例が冗長化です。

完全に同じものを並べてもフォールトトレラントシステムとして無意味です。古い冗長化フォールトトレラントシステムは、構成要素の品質にばらつきがあるか、構成要素の一部にしか故障原因が及ばないという条件下でしか想定品質を達成できません。故障が独立事象である条件は少ないのです。これが更に同じところに一箇所にまとめるとなると全くの愚の骨頂なのですが、コンピュータの耐放射線対策に限ってこれは有効です。これは放射線によるエラーが極めて微細な規模で、そのスケールでは隣のCPUはおろか隣のレジスタでさえ遠く離れていて、同時に影響を与える事がないからです。但し、チップ内のゲートの規模で物理的に隣接する場合は別です。


CPUを複数積んで多数決を行わせるという方式は、大きく分けて、独立したコンピュータの出力を多数決する疎結合と、CPUだけを3つ並べて、メモリやI/Oは共有する密結合の二種類に分けられます。

シャトルのAP-101sは4+1の疎結合、現行世代ソユーズのTsVM-101はMIPS互換CPUを3重にしての密結合です。ただAP-101のそれは放射線対策ではなく、開発されたのがまだ"トランジスタが寿命で壊れる"時代だったからです。冗長計算機の歴史を眺めると、この素子レベル寿命の短さを前提としたものが多く存在しています。今時の品質の揃ったコンピュータを冗長化しても、通常、コンピュータに問題を起こす原因は冗長系全てに等しく降りかかるので、その冗長系とやらは全滅するのが通常です。原因が放射線でなければ。

疎結合と密結合だと、疎結合のほうがコンピュータが独立している分同期が難しく同期周期も遅くなり、異常を起こした計算機のクラスタへの復帰にも時間がかかります。ただ同期バスとプロトコルの工夫で冗長化できるため、比較的安価で構成が柔軟にでき、ハードウェアの信頼性も上がります。

密結合は同期速度を高速にでき、ソフトウェアに頼らない信頼性を提供できます。疎結合計算機では多くの場合ソフトウェアにバグがあると終わりです。しかし一方で密結合計算機のCPUエラーの検出とリセット、復帰は実現しようとすると結構面倒くさい処理です。

CPUを複数構成にせず、CPU内部でフリップフロップ単位やレジスタ単位で冗長化できれば面倒は何一つ不要となりベストです。FPGAならこれが可能です。耐放射線用として売っているFPGAなら、開発環境のほうで三重多数決冗長を自動付与する機能がメーカで用意されていますので、これを使えば簡単に耐放射線性を与える事ができます。

CPUのソフトコアとして宇宙業界でよく見るのはSPARCです。これはフリーIP(LEON-3)があるからという理由だけでの選択です。FPGA内にハードIPとしてCPUが搭載されている場合がありますが、これには三重多数決冗長などを付与することは出来ないことに注意しましょう。Vertex-II ProのハードIPのCPUは使われることがありますが、これはSOIプロセスによる耐性に期待しているからです。


放射線対策の次の代表例が誤り訂正です。

DRAMや高速SRAMのECC用メモリは64ビットに対して8ビット程度の誤り訂正符号の格納メモリを用意していますが、これではどうやっても64ビット中1ビットまでしか誤り訂正できません。(考えてみてください。誤り訂正に必要な情報が得られたとします。誤ったビットの反転したものが正しいビットなのですから、必要なのはそのビットの位置です。すると64ビット中の位置を特定するためには5ビット必要です。2つ分の情報には10ビット必要になります)

強度の高い放射線環境では、ずっと強い誤り訂正能力が必要です。

アップセットでは普通、通信エラーのようなバーストエラーは考慮しなくてもいいでしょう。しかしSRAMは別です。マルチビットエラーはECCの保護範囲を超えます。SRAMでマルチビットエラーに対処するには、複数の物理デバイスを利用する事が有効です。FPGAなら、各ビット毎に割り当てるSRAMブロックを変えましょう。

誤り訂正符号を長くすれば誤り訂正ビット数が増え、強くなりますが、メモリ巡回をおこなって頻繁に誤り訂正を行えば同様の結果が得られます。これは運用環境での放射線強度と共によく考慮すべきでしょう。

また誤り訂正符号方式も何を採用するか、考えるべきです。リードソロモン符号化はバーストエラーに対処できますから通信システムによく採用されますが、コンピュータ内でバーストエラーに対処する必要があるか、ちょっと考えてみるべきでしょう。ロジック規模が小さく動作速度を高速化できる巡回ハミング符号やBCH符号を使うべきです。


そして結局、多数決冗長も誤り訂正も、確率的な対処です。三重多数決も、うち2つが同時に同じエラーを発生させる可能性までは除去しません。その可能性が低いことに依存した手法に過ぎません。五重にすると多数決回路のゲート遅延が大変です。わずかな可能性でも絶対に誤りが許せないものには、素子レベルの耐放射線性が必要です。



放射線とコンピュータと半導体についての基礎的な諸々 #3 -2011年7月12日(火)21時02分


完全空乏SOIプロセスで作られたSRAMは耐放射線性を備えます。同様に完全空乏SOIプロセスCPUの中のSRAMも普通、耐放射線性を持つものと思われます。従来これらは高価かハイパフォーマンスに過ぎて、宇宙開発業界からは手を出しにくいものでした。しかしFPGAを使うコンピュータが現れるようになり、状況が変わりました。

長いこと宇宙業界で人気があったのはxilinx社のVertex-II Proですが、これは恐らく内蔵したPowrPC405e CPUコアがIBMの1.3umSOIプロセスに依存していた事が理由でしょう。ですから台湾UMCの1.3umバルクプロセスに製造を移した廉価版では耐放射線性に疑問が付くことになります。またCPUコアを持たないバージョンも耐性を持たないでしょう。NASAは極めて放射線環境の厳しい深宇宙ミッションにVertex-II Proを使いました。

Vertex-4以降のSOIプロセスを使った最新のXilinx FPGAも好まれます。ただしアップセットは低頻度ながらやっぱり起きるために、使用者は対策が必要です。残念ながらVertex-7などの28nmプロセス製品はTSMCのHigh-kプロセスでの製造となりSOIではなくなるようです。14nmプロセスではTMSCはFinFETプロセスを採用する可能性がありますので、その時には再び耐放射線性が期待できるようになるでしょう。

Actel社のアンチヒューズFPGAは昔から宇宙開発業界で多用されたFPGAでしたが、フラッシュFPGAも人気があります。フラッシュメモリは書き換え電圧が高いためゲート酸化膜が厚く、トータルドーズ耐性があります。高い書き換え電圧は、ビットを書き換えるのに大きなパワーが必要だという事でもあります。SRAM FPGAもフラッシュFPGAも結局ルックアップテーブルの構造の話であり、ロジックセルのゲート単体であればSOIを使ったほうがラッチアップもアップセットも耐性が上です。しかしSRAM FPGAのルックアップテーブルと比べるとフラッシュFPGAのルックアップテーブルの耐性は大きく、この部分の破壊を気にする必要は事実上ありません。耐圧が高いのでラッチアップ耐性も高くなります。そしてゲートのアップセットに対しては、後述しますがFPGAの場合、ロジックを工夫することで対処が可能です。


フラッシュ混載CPUはそのフラッシュ書き換えのために16Vという過去のデバイスより遥かに高い内部耐圧を持っています。つまりラッチアップに対して強い耐性があります。フラッシュマイコンの中でも50MHzとか70MHzとか妙に低速でしか使えないタイプのマイコンは恐らくロジック部の耐圧も高いと思われます。最近のフラッシュ混載CPUは、内部電圧をフラッシュとCPUで分けてCPUのクロックを上げたり、High-KでCPUのクロックを上げたりしたものがあるようですが、前者はハズレ、後者はアタリですね。


コンピュータはCPUだけでは作れません。メモリはどうでしょうか。先に述べたようにSRAMはきわめて脆弱です。あまりに弱すぎるので、放射線一発で複数のビットが反転するマルチビットのアップセットが発生することがあります。こういうエラーは発生アドレスに規則性が見えますから、物理的な位置関係を推測するとマルチビットエラーであることがわかったりします。

これがDRAMになると変わって来ます。DRAMの値を持っているのはコンデンサの容量で、これは微細化で容量が減っても、放射線の飛跡に発生する電荷に比べればまだ充分に大きいのです。SRAMに比べてビット当たり基本4桁アップセット耐性が違います。また最近のデバイスの微細化はHigh-Kが一緒についてきますから、トータルドーズ耐性が向上しています。

MRAMなら完璧です。磁気記憶素子であるMRAMは、読み書き用のアンプのトータルドーズくらいしか心配する要素がありません。FeRAM等も見所があります。


PROMは放射線でビットが変わることはありません。EPROM、EEPROMだと変わる可能性がありますが、その可能性は極めて低いものです。フラッシュメモリも放射線にはきわめて強いです。最新のものであるほど絶縁膜が薄くなるのでトータルドーズ耐性が落ちますが、それでも耐性は桁違いです。絶縁膜にHigh-k材を使うようになれば耐性向上が予想されます。

ただ、SSDやSDカードのようなストレージパッケージとなると耐放射線性はかなり悪化します。コントローラICが弱いのです。普通コントローラには先進プロセスなど使ったりしません。ですからフラッシュメモリを使う際は、生のフラッシュメモリを使用することになるでしょう。その場合、放射線以外の原因による、フラッシュメモリのリードエラーの多さに自力で対処しなければいけません。フラッシュメモリは、放射線が無くても、ナチュラルにリード/ライトエラーを多発します。

I/OコントローラもプロセッサやFPGAと比べると数段遅れた製造プロセスを使うのが普通です。パソコンを放射線環境で使おうとするとき、最も問題になるのがサウスブリッジなどのI/Oコントローラでしょう。パソコンの放射線に対する弱さの原因はここにあります。ハードディスクやSSDのコントローラも脆弱です。



放射線とコンピュータと半導体についての基礎的な諸々 #2 -2011年7月11日(月)21時28分


以上を踏まえてマイコン達を眺めてみましょう。世の中にはTTLマイコンなんてものはありませんでした。いやありましたけどメジャーなのは2901くらいですし。あとはみんなMOSでした。最初はNMOSかHMOS、そうして全てがCMOSに移行したのです。NMOSやHMOSの耐放射線性は論外といってよい水準のものでした。

宇宙でZ80を使った例というのを私は知りません。選ぶ理由がありませんでした。昔はTTLディスクリートのCPUが使われましたし、今ならC言語が使える8051がインテルの無償ライセンスで使い放題なのです。アメリカでは放射線に強いサファイア基板でいっぱい作ったからという理由でCDP1802(COSMAC)が多用された時代がありました。アメリカのコンサバな衛星は古くはディスクリートで作られたNSSC-1、その後MIL-STD-1750A規格コンピュータに移行します。フラッシュマイコンでレジスタが少なくシンプルなPICは耐放射線性で評価される時もあります。Atmelは耐放射線性デバイスを作っているくせに自社のAVRマイコンをラインナップに加えない点を見ると、AVRは耐放射線性に難があるのかも知れません。


2000年代前半辺りまで、CMOSデバイスはプロセス微細化のたびに放射線に弱くなっていました。同時に放射線が影響を与える素子当たりのターゲット面積も減っていますが、素子数が増えているので結局全体で見ると弱くなっています。90年代後半からはこれに加えて駆動電圧の低下が問題となり始めます。CPUの場合、キャッシュメモリが耐放射線性のアキレス腱となりました。

耐放射線性のあるハイパフォーマンスコンピュータというのは長いこと開発が難しい存在でした。SRAMでできたキャッシュメモリはひどく放射線に弱く、簡単にアップセットを起こしてしまいます。SRAMとはすなわち1ビット当たり6個のトランジスタを意味します。高性能CPUではキャッシュメモリや内蔵スクラッチメモリの大きさは物理的に巨大なものになります。そしてRISC CPUのキャッシュメモリの使用を停止すると、それはひどく遅い代物になってしまいました。

実質、前世紀において先端的なデバイスの耐放射線性は無きに等しかったのです。


これは今世紀になって変化します。まずSOIプロセスの実用化です。SOI(silicon-on-insulator)プロセスの採用はサファイア基板に準じた耐放射線性を素子に与え、ラッチアップとアップセット耐性を大幅に向上させました。SOIには完全空乏型と部分空乏型があり、部分空乏型はゲート下に空乏層でない部分が残っているため、放射線が電界を作ってしまうとそれでアップセット動作を起こしやすく耐放射線性に劣ります。完全空乏型はP型基板の上にSOIが全体を覆い、n型の下にP型が無く、寄生ダイオードを作れないため、極めて高いラッチアップ耐性を持ち、飛跡が電荷を収集できる領域が狭くなり、更にn型とp型の両方を貫通するような放射線の飛び込む可能性も少なくなるため、アップセットにも大幅な耐性向上が見込めます。

IBMとAMDはSOIプロセスを採用しました。AMDは当初部分空乏型を採用しました。IBMは完全空乏型、IBMの技術の入ったPS3のCPU、Cellも90nm,65nm,45nm全てのプロセスで完全空乏型SOIだと思われます。同様にマイクロソフトのXBOX360のCPUがIBMの90nmおよび65nm完全空乏SOIプロセス、最新型ではCPU+GPU統合チップが45nmSOIプロセスです。任天堂WiiのCPUもIBMの90nm完全空乏SOIプロセスによるものです。


そしてHigh-k絶縁膜によってCMOSデバイスのトータルドーズ耐性はきわめて強くなりました。IntelのプロセッサだとPentium4とCoreシリーズの境が変化の分水嶺です。

High-Kはインテルのプロセッサにとって、漏れ電流を少なくするための切り札でした。絶縁膜を厚くすればトータルドーズ耐性が向上し、漏れ電流も少なくなりますが、スイッチング電圧が高くなります。High-K絶縁膜は、膜厚を保ちながらゲート電圧を低くしても、同等の電界を作り出せます。つまるところ絶縁膜を厚くできるのでトータルドーズ耐性が向上しました。

将来Intelが採用すると見られる三次元構造はいわゆるFinFETで、電極にはさまれたフィン構造のシリコンを完全に空乏層にでき、耐放射線性がSOI並みに見込めるものと思われます。



放射線とコンピュータと半導体についての基礎的な諸々 #1 -2011年7月10日(日)23時00分


以下は海外の本や論文、公開情報を漁れば全て出てくる話です。アマゾンで耐放射線性半導体に関する本も色々買えますし、ネットで読める論文も沢山あります。私は宇宙屋やっていますが、実のところ基礎は独学です。業務上知りえた情報とそれに近いものは削っています。特に半導体のデバイス特定に関する情報は、海外の公開されている情報以外は、えーとアレなんでアレですとしか言えません。


まず、"昔のCPUは配線が太いから放射線に強く、現在のCPUはひたすら弱い"なんてことは全くありません。最新のCPUの中には放射線に強いものも相当数あり、恐らく将来はさらに強くなります。現在最も強い民生CPUはゲーム機のものでしょう。


放射線は大きく分けて、X線やガンマ線のような電磁波と、電子や水素原子核(アルファ線)、ヘリウム原子核などの粒子に分類できます。まぁ電磁波も光子と考えれば全部粒子です。

うち、エネルギーが小さい粒子は薄いアルミ板で防げたりします。アルミで3ミリもあるとぜんぜん防げます。しかし高いエネルギーを持った重い粒子はガンガン貫通してきます。ガンマ線もガンガン透過します。コンピュータの敵は重粒子とガンマ線です。


放射線の影響は累積的に性能をゆっくり劣化させるトータルドーズと、一撃でおかしなことになるシングルイベントに分類され、更にシングルイベントは素子の全てのスイッチがONになるラッチアップと、一つだけが切り替わるアップセットに分類されます。

現実には、起こる現象、考慮すべき現象はほぼ1つ、粒子の飛跡に発生する電荷です。物質内部を通るとき、荷電粒子は周囲を電離しながらエネルギーを失ってゆきます。この電離で発生した電荷が半導体の動作に悪さをします。ガンマ線やX線は光電効果やコンプトン効果で電荷を物質内部に生み出します。

勿論他の現象も起きます。原子核への粒子衝突ではそこから再び粒子の飛散が起こり、ひどい時には相手原子を放射性同位元素にしちゃったりもしますが、確率は低いし放射化するような事態になったらコンピュータの動作どころではありません。


トータルドーズは一般には、ゲート酸化膜の劣化によって起こります。ダイオードやトランジスタのような接合型素子にはゲート酸化膜が無いため、トータルドーズ耐性は強いです。勿論強い放射線に晒されれば、どんな素子でも放射線による出鱈目なイオン注入によって、半導体としての機能を徐々に失う、つまりトータルドーズに至ります。

接合型素子は半導体にゲートから直接電荷が注入されます。動作は電荷量、つまり電流によって制御されます。FETは電界効果で動く、電圧スイッチング素子です。うちMOS素子はゲートと半導体は酸化膜で絶縁され、その絶縁を超えてゲート電位が電界効果を介して半導体の電荷に力を及ぼします。つまり必要なのは電圧です。電流の多寡は基本的には動作に影響しません。ただ、古いCMOSは配線が太くゲート容量が大きく、動作にはそれなりの電流が必要でした。

酸化膜が放射線によって電離すると、導体でないので出来た空孔がそこに固定されます。空孔によってスイッチングに係らず最初から弱い電界が発生する事になるので、漏れ電流やゲート電圧のスレッショルド低下といった性能低下が起きます。


放射線はその飛跡にそって電離を起こし、電位差を作ります。簡単に言うとその電位差がゲート電圧を越えるとアップセット、更に定格電圧を超えるとラッチアップです。実際には放射線の飛跡はn型半導体とp型半導体にまたがっていないといけません。

CMOSはMOS素子をプッシュプル構成にしたデバイスです。ラッチアップはこのプッシュプル構成に、寄生的にサイリスタやトランジスタが生じてラッチを作ってしまう現象です。ラッチなので電流が流れている間は永続的に状態を保持します。このラッチアップでプッシュプル構成が双方同時にスイッチングしてしまうと、VccからGNDまで電流が貫通してしまい、最終的には電流による発熱で素子を破壊します。しかしラッチアップが起きたらすぐに電源を落としてラッチを解除し、素子が破壊する前にゲート電圧をゼロにした上で戻せば素子の機能は復活します。

ラッチアップはCMOSデバイスにしか存在しません。電気屋なら知っての通り、ラッチアップは放射線以外でも、定格耐圧以上の電圧がかかれば起こります。放射線によるラッチアップのいやな点は、通常のラッチアップ対策、例えば保護回路で定格電圧以上がかからなくする、といった対策が無駄な点です。定格耐圧以上の高電圧は、放射線によってデバイス内で発生するのです。逆に言えば定格耐圧以上、すなわち寄生ダイオードに逆電圧降伏を起こさせるだけの電荷を発生させるエネルギーが放射線には必要です。


アップセットはディジタルデバイスのビットを反転させてしまいます。放射線によって生まれた電荷の電位がドレインに移動し、接続した素子のゲート電界を作ります。もしこれが一定値以上ならその素子はスイッチングしてしまうでしょう。このスイッチングがフリップフロップで起これば、フリップフロップの保持する値を書き換えてしまいます。もしこの値がコンピュータの内部動作を制御するカウンタやフラグならばコンピュータは異常動作します。プログラムカウンタやアキュムレータだったなら、ソフトウェアが異常動作します。データが1ビット狂っても大事にはなりませんが、アドレスのビットが狂うと多くの場合コンピュータの動作は悲惨なことになります。



ガンマ線カウンタの製作#3 -2011年5月11日(水)00時45分


とりあえず4台ばかり仕上げてみた。キャプテンスタッグのマントルM-7911を線源にして動作は確認できた。

2個と4個で、VBPW43Sを並列にしたものを試したが、極端にノイズが増えてしまった。感じでは逆バイアス電圧が大幅に低下したのと等価な現象が起きたようだ。並列化は続けて試したい。ブザーは一台に付けたが、デモには良いが実用には無用に思える。

一台、10000秒で計測を打ち切るバージョンを作って数回動かしたが、30〜40カウントという程度で、これが環境放射線を拾えているとすると、VBPW43Sを1個使うこのバージョンは1分間の計測で実質10uSV/h程度の分解能しか得られないことになる。

ただ、これで気軽に携帯して使用できるようになった。8桁2行のキャラクタLCDの上行に、リアルタイムのカウントと1分間のカウント数、下桁に上記計測から大体のところ求めた、mSV/hの参考値を小数点下2桁、上3桁表示する。こんなもので線量当量が求められるというのは詐欺のような気がするが、放射線計測協会に持ち込んで校正すれば、線量当量で表示するお墨付きがつくらしい。



ガンマ線カウンタの製作#2 -2011年4月28日(木)20時57分


電源ラインにいつものおまじないこと、村田のチップインダクタ、BLM21PG331SNを挿入してやると、ランダムなパルスがみえるようになった。パルス数は思ったより多いかも知れない。どうやら乾電池駆動で大丈夫なようだ。ジャンパは更に増えた。回路図はこちら。プログラムはまだ複数桁の出力まで至っていない。

現在動作するものが二台あるが、一台にブザー出力をつけようと思う。さて感度だが、地上でのガンマ線の粒子フルエンスレートがわかれば、どれだけイベントを捕捉出来ているのか阻止能にあたる係数が求められるので、この装置はガンマ線粒子フルエンスメータにはなるはずである。さらに簡易的には吸収線量相当値が、更には線量等量相当値が出せる筈だが、そこらへんはまだ不明である。



ガンマ線カウンタの製作#1 -2011年4月26日(火)19時27分


PiNフォトダイオードを用いたガンマ線カウンタを製作した。写真はフォトダイオード上に絶縁用ポリイミドテープとアルミテープをまだ貼っていないものだが、動作検証ではアルミテープを貼って光が入らないようにしている。回路図はこのようになる。

使用したダイオードはVishay Semiconductors社製VBPW34S、センサ面積は7.5mm2程度しかないが、現状リアルタイムで入手可能なものでは最も大きなものではないかと思われる。

増幅回路はMAXIM社のアプリケーションノートAN2236を参考にした。というかそのままである。ここで使用したOPアンプMAX4477は、VBPW34Sと一緒にMouser Electronicsで購入した。

ダイオード用の逆バイアス電圧は秋月で買えるMAX662を使った。今回この回路では電池動作を狙ってL6920DBを使ったが、現在このスイッチングノイズが混入してガンマ線によるパルスが観測できない。直接5Vを与えると、平均毎分1回程度、バックグラウンド放射線によるものと思しきパルスを観測できた。センサ面積からするとそういう頻度になる筈なのだが、やはり感度は低い。

本回路では、AN2236の最終段のコンパレータと可変しきい電圧部をまとめて、PICマイコンに入れて代わりとしている。PIC16F1823は、最近秋月に入荷するようになった8ピンPIC12F1822の14ピン版である。このシリーズはDACとコンパレータを内蔵し、内部で組み合わせて使うことが出来る。出力はキャラクタLCDとブザーを想定した。

残念ながら回路設計とアートワークでミスして、ジャンパを二本飛ばす必要があるし、当初想定していたケースには入らなかったし、電源コネクタの位置が微妙だったし、ブザーとL6920DBが干渉するしでひどい有様である。そしてやはり低感度だ。プログラムはまだ書きかけだが、ハードウェアがこんな具合なので気分がいまいち乗らない。

次世代機では、電源を006P 9V電池から採り、L6920DBとMAX662を省くと同時に3端子レギュレータで5Vを生成するようにして、更にVBPW34Sを7〜10個並列に並べたいと考えている。ダイオードを並列に並べるのは、電気屋の習性として抵抗があるが、理屈では問題ない筈だ。現行基板は作りすぎたので、どうしようか思案中だが、USBシリアルに接続してPCで読めるようにはしようと考えている。動作チェック用の線源をどうするか、校正はどうするかも悩みどころだ。



非電源ソーシャルシステム -2011年4月2日(土)07時43分


非電源ソーシャルシステムという思いつきは、考えれば考えるほど非常時において有益であるように思えます。

まず単純な提案として、このようなものを事前に用意して、車に積んでおくというのはどうでしょうか。非常時にグローブボックスから引っ張り出して、自分の車のダッシュボードの上に掲示するのです。

自宅の地名と何人受け入れ可能かを書いた紙。単純ですが事前に準備をしておくことで、非常時に他人を車を乗せてやるような行動がスムーズに行えるようになります。

同様に、臨時宿泊所として1人受け入れ可能であるとか、トイレを開放しているだとか、携帯の充電器の用意があるとか、そういう紙も用意しておきたいものです。その時支援を用意できなければ貼らなければ良いだけです。それと道に不案内な歩行帰宅者のために、ここは何処であるか、地図を用意しておいて近所に張り出すのも良いでしょう。自警団巡回中、と書いた紙を用意するのも良いかもしれません。


地域社会で組織した集団で、道路の被害状況を手分けして調べて、そうして得た情報を統合して手早く通行可能な道路状況図を作る、というのも可能でしょう。自宅近辺の歩いて調べられる範囲の情報を互いに統合するのです。

今回の震災では国土交通省の働きは迅速で、通行禁止道路の情報は震災数日後には大体出揃ったのですが、更に速く出来るならそれは明らかに望ましいでしょう。

これは停電状況でも出来るように、各人があらかじめ同じ白地図を持って準備して、調べた情報を互いに自分の地図に書き加えていけるよう落ち合う方法を予め決めておくのがいいでしょう。最終的には全員が完璧な地図を手に入れられるようにするのが目標です。そうして得られた情報は自治体や国に提供したり、周囲に提供したり、道路通行者に提供したりできます。

こういう組織は、平常時にインターネット上のソーシャルサービスなどで事前に組織するのが望ましいでしょう。考えてみれば、停電時に動く組織を作るのにも電源を使わないというのは馬鹿げた話です。電源と通信網があれば勿論情報の統合はそれを使えば良い訳です。


マスコミが被災地の中でも最も悲惨な土地、そして原発しか報道しなかったため、広い震災地域の多くが報道されず、誰にも知られず、最低限の公的支援以外の誰の助けも得られない状況が生まれました。これは打破されるべきです。全国のお茶の間に広く知らしめる必要までは無いのです。ただ、助けようとする人たちまでは状況を知らせる仕組みが必要です。

例えば非常時に、充分な準備を施した数人を、報道のための記者として被災地に送り込む仕組みがあっても良いでしょう。被災地をしらみつぶしに録画し、プライバシーや防犯に配慮した加工を施した上で、片っ端から動画サイトに上げていくような仕組みがあると、例えば友人の住んでいる場所は無事だったのだろうか、去年訪れた親切な主人のいた宿はどうなっているだろうか、そういう個人の関心を受け止める場として機能するでしょう。個人的関心は強い具体的行動を生みます。また被災しなかったという情報も重要です。これらをきちんと提供できれば、被災地支援は更に有効に行えるでしょう。


そして考えてみれば、こういう組織化と準備は、なにも非常時のためにだけでなく、常時においても役立つ仕組みを実現できるでしょう。今のいわゆるソーシャルネットワークは、あまりにもウェブに密着し過ぎています。しかしそもそもソーシャルネットワークの実態は人間の関係性です。人間関係の構築手段がウェブの外にはみ出していてもそれは全く不都合では無いはずです。

ムラ社会の人間関係とは違う、居心地の良い、調整可能な有益な地域人間関係を作るために、ウェブサービスを使うことが出来るかも知れません。


-----------------------------------------------------------------------------

そしてまた考えてみれば、原発のライフサイクル全体でのハードウェアコストそのものは、実のところ問題ではないのではないかと思えてきました。脱原発しようが原発推進しようが、総コストは大して変化が無いのです。だったら原発推進して原発そのものにできるだけコスト負担をさせるという考え方はアリです。

結局原発は存在するのですから、高レベル放射性廃棄物処分場といったババ札は既に日本人の手札の中に配られているのです。何をどう反対しようがどこかがババを引くのです。まぁ、今だから言う訳ですが、高レベル放射性廃棄物処分場など、どうやっても臨界なんてしないのですから、運転中の原発に比べれば遥かに安全な筈なのです。

今後我々は、電力のコストの高さを強く感じ続ける事になるでしょう。


問題は、ハードウェアの安全性やコストではなく、人間側のシステム安全性と教育コストです。今回、東電、保安院、原子力安全委員会と、この三者が揃って有効に機能せず、最後には官邸が直接監督し官房長官がいちいち状況を説明する羽目になった訳で、それは人間によるシステムが崩壊していたことを意味します。われわれは既に年金問題で政府組織、システムの崩壊を眼にしていた筈だったのですが、他の組織のチェックを怠っていました。現在、政府組織のどの程度が、既に崩壊し、役立たずになっているのでしょうか。私は日銀がそうではないかという嫌な予想をしています。

それと今回、福島第一が国民にどれだけの苦痛と恐怖を撒き散らしたか、それに対して経済性は答えになるのか、考えてみれば実のところ答えは明白である気がします。経済性は痛み止めどころか気休め薬にもなりはしません。

核の恐怖は大半は知識の無さによる無根拠なものです。この恐怖を宥めるのは教育によってしかありません。特にリスクとハザード、確率の考え方の教育が先行して行われなければいけません。原発推進派は義務教育の中にこれらを突っ込むべきだったのです。しかし現実には、彼らは教育を受けた世代が多数派になるまで待ったりはしませんでした。ただ安全を連呼したのです。原発推進派にとって教育は現実的な解法ではありませんでしたが、一度恐怖がばら撒かれた後では、恐怖への対処は教育しかありません。つまり原発推進派好みの現実的な解法など無いのです。恐怖は経済に勝るでしょう。

政府のヒューマンシステムの改善は絶対にやらなくてはいけません。しかし一方どのくらい教育コストは見込めばいいのか、今回苦痛と恐怖を受けた人たちへの説明と教育を満足に行えるのか、有意味な成果を出せるのか、疑問であると思います。

それに対して原発反対派は選挙で、原発賛成派と思われる候補者をよってたかって血祭りに挙げることができます。恐怖が彼らを動かすとき、彼らはどんな残忍な手段でも取りますし、原発の恐怖と比較してそれが許されると考えます。選挙は明らかに原発反対派に有利です。そして政治の場が原発反対派で占められれば、最後に法と政策で原発は廃絶へと追い込まれるでしょう。但しババ札は既に配られています。何をどう決議しようが恐怖は消えません。政治の場は、それはもう酷いことになるでしょう。恐怖が政治を動かすとき、最善の解決は望めないでしょう。

解決策は、恐怖の制御だと私は考えます。ホラー映画を見れば分かるとおり、我々は恐怖の制御が可能です。ホラー映画の製作者は、視聴者の恐怖を操ることができます。

恐怖を、身の回りにあるものに変えましょう。実際のところ、核は常に我々のそばにあったのです。何も隠さず、福島の現実を伝え続けることが重要です。核施設の情報を広めましょう。恐怖の仕組みを説明しましょう。馬鹿な話ですが、たぶん新種のホラーファンが誕生するものと予想します。彼らは自発的に学ぶでしょう。そして、きちんと対策された恐怖は、やがて恐怖としては陳腐化してゆくでしょう。



今年のエイプリルフールは閉鎖されました。 -2011年3月31日(木)23時05分


今年はエイプリルフールネタは無しです。いや、ガンマ線天文台衛星で地上観測とか思いついたけど、あまり笑い話になりそうも無いのでやめました。というか、マジネタとして有りかも知れません。福島第一は残念ながら今後ずっと、ずっと、我々の重いくびきとして存在し続けます。


3.11は日本にドラスティックな変化を否応無しにもたらすでしょう。

まず我々は、電力がどれほど強力な権力であるかを思い知りました。計画停電と節電に何もかも否応無しに従わせる、これが権力でなくて何でしょうか。我々には他の選択肢は全く無いのです。

大企業にとっては、これは気も狂わんばかりの事実でしょう。代替選択肢は今彼らの至上命題です。自家発電需要は巨大なものになるでしょう。また、複数の電力会社からの多系統融通も実現するでしょう。電力会社の権力は今夏をピークに急速に弱まる筈です。

東日本に新たに建設される、または再建される工場は全て、電力が最優先インフラになるでしょう。太陽光発電と大容量蓄電が環境のためでなく自衛のために最優先で考慮されるでしょうが、高コストであるため、例えば工業団地等で揚水発電などを準備できればモテモテでしょう。また交通の便も、利便と共に災害リスクも考慮されるようになるでしょう。というか、これまで大して考慮していなかったのがおかしいのです。

地盤改良されていない埋立地は無価値となりました。地盤改良は共同溝と並んで今後産業として伸びることが予想されます。見えにくい効果ですが、共同溝は阪神淡路の事例と同様に、今回もその強さを証明しました。安価なプレキャスト共同溝の開発と普及が望まれます。そして今後、電柱の無い事が地震に強いことの単純な指標と見なされるようになるでしょう。

大企業では、直流配電による省電力化が本格的な検討対象になるでしょう。長期的には、直流配電は太陽光発電と蓄電装置の普及と歩調をあわせて、ゆるやかに普及する事になるでしょう。


中小企業にとっても、電力の代替選択肢は喉から手が出るほど欲しいものです。停電している、また節電で暗い他の店舗に対して、自力調達電力で明るく照明された店舗は大きな競争力です。意味の無い自粛意識による節電圧力に対しては、自力調達電力であることをアピールすることが重要です。ただ、都市部ではそういう電力は得にくいでしょう。郊外ならそういう電源を設置する余裕があります。郊外型店舗では、太陽電池や風力といったアピールしやすい電源が大いにもてはやされることになります。つまるところ、商業中心の郊外移転は特に関東一円で急速に進むことになります。

個人レベルでは、電力の代替選択肢は裕福でなければ得られない状況が当分続くでしょう。しかし、電力自由化の議論は今後急速に進みます。特に自家発電所を備えた大企業の余剰電力売電が、個人レベルに届く日が10年以内に訪れると予測します。スマートグリッドはマルチグリッドとして実現するでしょう。

それまでは、節電と、電力以外の選択肢、例えばガスへの移行などが取りうる手段となります。節電は常に有効な手段です。お金は貸し借り、貯蓄ができますが、電力を貯蓄するのは難しいので、節電のための買い替えは大抵の場合有利な投資となります。LED照明への移行は今後急速に進むでしょう。照明の人感センサによる自動節電も普及するでしょう。


福島第一は、一ヶ月で安全に消滅したりはしません。少なくとも半世紀は福島浜通りの北半分を荒廃のままに放置させることになる筈です。それはずっと、我々の重荷となるのです。

この地を取り戻すための行動を始めなければなりません。それは長い戦いになるでしょう。最初に必要になるのは知識です。原子力と放射線に関する基礎知識は広く国民に共有されなければなりません。風評被害を無くすにはそれしかありません。また行動にもそれは必要です。

まず、安価な放射線測定器が必要です。また、これらの、特にCPM以上の意味のある値を出す放射線測定器の、取り扱いに関する資格を簡単なもので良いから新設する事が望ましいでしょう。教育が風評被害に対する最大の武器なのですから、最初から発生源に対処すべきです。

放射線測定器そのものは安価に製造可能です。フォトダイオードを使ったガンマ線カウンタなら個人でも簡単に作れます。簡単な校正をすればフルエンスレートくらいは計れます。MOSFETをつかった線量計も安価に製造可能だと考えます。目に見えない恐怖を目に見えるリスクに変えるために、安価な測定器の普及が必要なのです。


短期的には、衛星技術を使った完全自立な小型モニタに需要があるでしょう。キューブサットが作れるなら製造可能なものです。原発周辺に放置して各種モニタリングをおこなうのに最適です。宇宙技術を用いた耐放射線性機器は原発で今後需要が見込めます。原発周辺作業は今後どうしてもロボットに置き換えていく必要がありますが、耐放射線性機器はその基礎となります。

また、荒廃が予想される周辺地域のメンテナンスにもロボットが使われる事が予想されます。こういった地域でも最低限のインフラが維持されなければなりません。極限環境では無い屋外の無人地域で動作するロボットの需要が日本でも確実に生まれます。

実際には、福島で需要が確実に出るのは、自動車の車内空気取り入れ口にダストフィルターを設置する改造、簡易な車両除洗設備(排水を捨てずにタンクに溜める以外は洗車場と同じ)、エアシャワーでしょう。これらは放射線測定器の普及と共に、当分の間需要が伸びる筈です。


脱原発は、福島第一のもたらした被害と今後のコストが確定すると共に、これも確定するでしょう。結局経済が全てを決定するのです。原発新設は無し、既存原発はある基準を満たしたものだけを運転続行するというものになると予想します。

現実的な代替選択肢は、地熱発電です。巨大な潜在エネルギーと安定した出力の望める地熱発電は、原発程度なら充分に置換可能な潜在力を持っています。

しかし現在、日本では地熱発電は普及していません。理由は主に3つ、国立公園、国定公園の外に望ましい立地が少ない、その数少ない立地条件のほぼ全てが温泉隣接地にあたり、温泉側が泉源が枯れる可能性などを理由に反対する、そしてほぼ無感の群発地震が多発します。

2008年に嬬恋村で持ち上がった地熱発電所建設構想は、隣接する草津温泉の反対によって頓挫しました。草津温泉側は地熱発電所によって確実に泉源が枯れるものとみなしていましたが、現実には国内では地熱発電所隣接の温泉で、地熱発電所によって湧出量が変化したと思われる事例は存在しません(人によっては存在するという場合もありますが、自前の使用による枯渇分をカウントしているだけだと思われます)。それでも、地熱発電所によって泉源が枯れる可能性というものは、絶対に無いとは言い切れない訳です。

温泉は熱水還元などしていないのですから基本的に枯渇する傾向があり、他人のことは言えない筈なのですがメシのタネなので必死に反対します。建設反対の立場には、通常リスクの概念が欠落しています、そのため、絶対に無いとは言い切れないことは、彼らにとってリスクではなく恐怖を意味するのです。リスクの概念を持たない相手にリスクを語るのは、恐怖を煽るのと同じです。

地熱発電には様々な種類がありますが、基本的には温泉の泉源より遥かに深い井戸を掘って、熱い蒸気を取り出してこれでタービンを廻し、蒸気を覆水して地中に戻します。この戻す過程で群発地震が発生します。地熱発電の新しい技術、地中の熱い岩体に地上から水を注入して蒸気を得る高温岩体発電は、温泉と競合しないと言われている実用間近の技術ですが、恐らくこれでも微小地震は発生するものと思われます。しかし、地熱発電所がエネルギーを送り込んで地震を起こしている訳ではない、という当然の理屈は強調する必要があります。結局のところそれは地震や火山活動のエネルギーのささやかだが安全な先払いに過ぎません。

さて、地熱発電に立ち塞がる最初の問題である国立公園、国定公園は、物理的制約ではありません。直接的には経済的問題でもありません。それは条文を変えれば存在しなくなる制約です。国立公園、国定公園内に地熱発電所を置ければ、温泉と競合する可能性は小さくなります。また群小地震を感じるものもいなくなるでしょう。地熱発電所が、熱と電気と温泉同等物を出す以外は何も出さない施設であることも考えるべきです。壊れても放射性物質を撒き散らしたりしないし、廃炉コストが掛かったりもしません。それでも多少とはいえ環境破壊、景観破壊は発生するでしょう。その利得は見合うのでしょうか。

環境破壊を重視する人は、火山を理解していません。火山は自らを破壊します。火山は安全な観光資源では決してありません。それはそのうち危険な代物を大量に吐き出すのです。

2010年4月に運転を開始した、ニュージーランドのナ・アワ・プルア地熱発電所は140MWという原発に匹敵する出力を持つ地熱発電所です。この施設は日本企業によって2年で建設されました。勿論この2年には、地道でコストの掛かる探査の期間は入っていません。しかし注目に値する数字です。

現在日本の温泉の多くが衰退に向かい、湧出量も減ってきています。今日本にとって、地熱発電は温泉と天秤にかける選択肢になりました。もし草津か箱根を潰す覚悟があるなら、その覚悟は日本のエネルギー自給をも可能にするでしょう。温泉には代替選択肢がありますが、電力は現在代替選択肢の無い巨大な権力です。この利得はよく考えなければなりません。

特に福島県は、選択肢として積極的に考えるべきでしょう。今後観光にも風評被害が永続して及ぶ筈です。温泉地の廃業は現実的な問題となると予測します。今後福島第一から郷土を取り戻すために、電力という権力を自ら手にすることは強い武器になる筈です。脱原発の可能性の証明こそが、脱原発がきわめて深刻な課題である福島にとって必要でしょう。条文(実際には昭和47年の環境省局長通達「公園内の地熱発電の開発は当面六地点とし、当分の間、新規の調査工事及び開発を推進しないものとする」というもの)を変えさえすれば、制約はほぼ無いも同然です。残りの許認可権限は温泉法によって都道府県知事が持つものとなっています。

低出力ながら比較的低温の熱源でも動作するバイナリーサイクル地熱発電は、東京ど真ん中でも発電が可能という点で注目されて良いと思われます。バイナリーサイクル地熱発電が日本で活発に行われない理由は、それがどんなに小規模なものでもボイラー主任技術者が必要になるという愚かしい法規制のせいなのですが、これが撤回されれば、東京の自家発電システムとしてコンパクトなバイナリーサイクル地熱発電が普及する可能性があります。また、10kmの地下まで掘れば、高温岩体発電の要領で、日本のほぼどこででも電力を得ることが可能になるでしょう。


3.11後の通信技術に関して言えば、無線LANのアドホック通信技術が、今回全く役に立たなかった事を自覚する必要があります。ハブ局などのインフラ無しにホスト局が勝手に繋がって通信するアドホック通信は、災害時に活躍する技術の筈でした。実際には現実的なプロトコルを実装したアプリケーションが存在せず、アドホック通信網は実現しませんでした。というか、アドホック通信という技術に目を向ける人間が誰もいなかった訳です。問題点がどこにあったのかよく調べる必要があるでしょう。

通信インフラもまた、大企業のバックボーンにおんぶにだっこで、それに不便を何一つ感じていなかった訳です。通信の代替選択肢追求の動きは、電力に比べればきわめて弱く、こっちは問題とはされないかもしれません。

実際には、通信インフラに乗っかるコンテンツのほうが問題となるでしょう。新聞やテレビといった旧マスメディアを信じる人と、信じない人との亀裂は、やがて衝突を生む規模にまで拡大すると予測します。

旧マスメディアは日本においては高齢化社会のおかげで世界に比べてわずかに延命するでしょうが、やがては没落します。没落は新聞とテレビでは形態は違います。新聞は単純に購読者数の減少によってなめらかに消滅するでしょう。

テレビの没落は広告売上げの減少によります。地デジへの切替による視聴者減少ギャップと、震災自粛を理由にした広告打ち切り、特に後者は永続的なものになる可能性があります。ビデオソフトの売上げ減少はテレビ向けビデオコンテンツを質量共に減少させ、更にテレビ離れを促します。エリア制限を撤廃しようとする動きは、現行のテレビ放送形態が滅びる寸前には現れるでしょうが、実現するかは不明です。この過程で視聴者の囲い込みが行われます。チャンネル有料化も検討されるでしょう。B-CASの仕組みは依然生き続けていることを思い出してください。あからさまな洗脳と政治工作が行われるものと予想します。最終的にはテレビは高齢者に直接寄生する存在になります。

高齢者の価値観は旧マスメディアによって容易に操作されるものとなります。かれらは他の社会から浮いた、違う価値観の人々になります。視聴者の価値観がテレビ局とその広告主のために最適化されればされるほど、高齢者は外の社会から魅力的な市場ではなくなっていくでしょう。

但しこれはかなり先の話です。現在もテレビ広告は依然として有効な媒体です。しかし、企業は少しづつ広告にかけるお金を、マスメディア広告からユーザコミュニティへと落とす場所を変えてゆくでしょう。最終的には代替マスメディア広告手段がそれなりに普及して需要を満たすでしょう。


交通手段に関して言えば、今後は乗り物以上にインフラが注目されるようになると思われます。自動車は道路と不可分ですし、電車は線路と不可分です。自転車の未来は道路を今後どのようにしていくかに掛かっています。乗用車の自律走行やロボットといったものも、道路インフラがその成立の鍵を握っています。

震災は、そのインフラの脆弱性を浮き彫りにしました。また、強いインフラと弱いインフラ、その性質の違いも明らかにしました。一般道は脆弱でしたが冗長性があり復旧も早く、自動車は電源供給を必要としません。但しガソリン供給の重要性は強く印象付けられました。高速道の復旧も早かったのですが冗長性は無く、しかしそれゆえに緊急道路としての排他的運用が可能でした。鉄道は脆く、多くの地点で復旧の目処が立ちません。また電力不足に対しても弱みを見せました。交通インフラの世界では、電力やガソリンといったパワーソース対策が今後真っ先に行われるでしょう。

自転車は、共同溝敷設と歩調を合わせて、その地位を獲得していかねばなりません。電柱をなくすことで生まれる余裕は、従来の考え方では歩行者と奪い合ってすぐに消滅します。共同溝を利用し、道路をスマート化すべきです。例えば車両が走っていないと明確に判っている状態の道路は、歩行者や自転車が全てを分かち合っても良いし、片側一車線しか無い道路も、たとえば事前予約して排他的に使えば誰もが不便無く安全に双方向通行できる筈です。道路の幅は現在、最大流量を想定して設計されていますが、賢く使えばもっと狭い幅でも流量を確保できるでしょう。

例えば平日の朝、乗り手がどこへ向かうのか、乗用車は高い確率で予測できるのではないでしょうか。経路予測は多くの場合で可能で、リアルタイムな予測変更もまた可能でしょう。そういう情報を持ち寄れば公共インフラである道路の利用効率は大幅に高める事ができる筈で、それは歩行者や自転車と道路を分け合いながら、さらなる安全を達成する事を可能にします。素のためには、道路には車両や自転車、歩行者が持つデバイスと通信できる通信インフラが必要になります。通信形態は中央にサーバを持つ形態よりもアドホックなものが望ましいのですが、このあたりは経済性や実験による試行錯誤で色々と変わってくる筈です。


都市部では、建築物の耐震性能は向上しましたが、停電と交通麻痺が地震によるダメージの新しい定義となりました。緊急時の電力や水の確保は高層建築物では特に課題となるでしょう。解決策としては、屋上に大型の水タンクを設け、地上にも同容量の水タンクを設けて落差発電を行うと同時に緊急時の水確保を行うというものがあります。またこれは深夜電力で水を汲み上げて電力消費のピーク時に発電するといった用途も考えられます。躯体の耐震性能に余裕のある、屋上にタンクを設置しても問題の無い建築物で採用が予想されます。

交通マヒに関しては、乗用車乗り合いや臨時の宿泊所提供などの緊急時ソーシャルサービスが、電源不要な形態で実現する事が望まれます。電源不要のソーシャルサービスは、常時に役割等分担を決め、準備することで実現可能になる筈です。更に、電源不要もしくは混在使用のソーシャルサービスとして、地域コミュニティを再構築する試みが行われるべきだと考えます。


最後に、最も変化が切望され、しかし恐らく変化に乏しいと絶望せざるを得ないものに、政治と経済があります。この二つは、どういう変化が望ましいか、おぼろげながらでも見えている人がほとんど皆無であるため、どうにも変化できません。

個人的には、政治家が持つべき知識と技能の基本水準が明らかにされ、それを教える学校と講座が開設されること、政策アドバイスという行動が、その職業倫理と行動指針を明確化した上で職業または技能として確立されることを望んでいます。また、議論による問題解決と意識統一できるようになる訓練が広く行われるようになることを望みます。ウンコ味のカレーか、カレー味のウンコか、現行の政治制度は選んでも意味のないものを選ばせるだけの制度です。ならば望ましい政治家をどのようにして確保すればいいのでしょうか。結局、われわれは自分自身をそれぞれ政治家として訓練する必要があるのです。

また、経済学の研究がさまざまな面で活発化することを望んでいます。政治学と経済学は、中国がどうやっても最高の人材と研究を生み出し得ない分野です。その分野の真剣な研究は中国の体制を揺るがせるでしょう。中国に相対したいなら、軍事力ではなく、自己が必ず有利になる分野、政治学と経済学でリードすることです。現にアメリカはそうすることによって経済的な有利を引き出しています。皆が必死に働いたところで、経済学が惨めな水準に留まるのなら、日本の経済は国際的有利を得ることは無いでしょう。


しかしこれらは、残念ながら日本においては経済的必然による実現を全く望めません。だからこれらの実現には、経済的動機以外の理由が必要になります。これらは行動によってしか実現されないでしょう。



プログラミング HAL/S #10 -2011年3月10日(木)22時33分


FCOSはリアルタイムシステムである。リアルタイムシステムにはその起源から、タイムスライスとイベントドリブンという相容れぬ2つの方式が存在している。ロックウェルはタイムスライスでのシステム構築を主張し、IBMはイベントドリブンでの構築を主張した。

ロックウェルの最初のバージョンは40ミリ秒で一周するタイムスライス固定ループだった。HAL/Sのリアルタイム機能など綺麗さっぱり無視したこのバージョンは、40ミリ秒のメインループはそのままで、IBMによって960ミリ秒のユーザインタフェイス対応タスクが追加された。両者の方式の戦いは二年間続き、最後には双方を採用して手打ちとなった。つまりタイムスライスとイベントドリブンの二つの処理が、二つの開発主体の溝そのままに共存する設計となったのだ。

シャトルフライトソフトウェアは、巨大なドキュメントの山によって完全に動作を定められていた。ドキュメントはA,B,Cの三レベルに分けられた。レベルAは機能要求とインタフェイス仕様である。これはNASAが中心となって策定した。Bレベルは詳細設計で、これはIBMが策定した。Cレベルは実装とほぼ同等である。

4台のAP-101はI/Oアクセスのたびに専用接続バスを通して、3ビットのメッセージを送出し、4ミリ秒他のAP-101の反応を待つ。メッセージの内容は"データ正常"であったり"異常入力"だったりする。これらメッセージとデータ内容から、多重冗長バスコントローラは、4入力の中から確からしい信号を更に多数決して外部に出力する。

もし4ミリ秒のうちに応答しないAP-101があれば、それは異常動作を疑われることになる。また、疑わしいメッセージを受けたら、AP-101はデータ汚染を防ぐために一定時間データバスを閉じる。この処理は40ミリ秒のタイムスライス部の担当であった。このプロセスは4台の歩調が合っている事が前提の動作である。内部タイマが4台ともほとんど合っていなければならない。もし1台がずれていても、やがて周囲に同期することが期待されていた。

更に4台は6.25ヘルツの周期で、64ビットのデータを交換し合い、互いにチェックした。このデータはエンジン情報、空力舵、スラスター等の情報をコンパクトにまとめたもので、このデータを三回他と食い違って出力したAP-101は失敗と判定、表示される。これをどうするか、例えば再起動はクルーの仕事である。

問題は最初の電源投入時である。コンピュータたちは全く別々のタイミングで起動する。1981年4月、最初のシャトル打ち上げの予定時刻20分前、コンピュータに火を入れるはずが全然起動しなかった。4台のコンピュータが順番に互いにバスを閉じ合って、同期に失敗するデッドロックに陥ったのである。

症状は即座にデッドロックだと診断された。打ち上げは2日延ばされ、ソフトウェアはそのままに打ち上げられた。

後の解析によると、電源投入は67分の1の確率でデッドロックにより失敗する事が判明した。初期化コードの肥大化によって起動に要する時間が延びて、初期の設計に無いデッドロックタイミングが生じたと診断された。調査すると、デッドロックは三ヶ月前にも一度開発中に起きていた。

その後もバグは発覚し続けたが、ソフトウェアの修正により新しいリスクを抱え込むより、テスト済みであるプログラムをそのまま使い続ける方針が維持された。バグは発見され次第、それを避ける詳細な手順書が作成された。STS-7ミッションの時には、それは既に200ページにも渡っていた。バグの実際の修正はチャレンジャー事故後に一括して行われた。

シャトルフライトソフトウェアの、ロックウェルによる最初の開発費見積もりは二千万ドルだったが、最終的に開発費用は二億ドルにまで膨れ上がった。コード規模は削減の努力にも関わらず、HAL/Sのコードにしておよそ400000行、500000ワードの規模にまで成長した。但しこれは機能分割後の総和であり、FCOSなど共通で使用するコードが重複して含まれた値である。従ってテストの対象となったコードはその半分ほどになる。NASAはシャトルフライトソフトウェアに1行あたりおよそ1000ドル相当のコストをかけた事になる。

現在このプログラムは”バグフリー”であるという評価を得ている。このプログラムがこの世で最も徹底的にテストされたプログラムの一つである事は間違いない。


10:終わりに


400000行のHAL/Sソースコードは、400000枚のIBMパンチカードを意味する。HAL/Sが分割コンパイルをサポートしていなかったらと考えると恐ろしい。しかしそれでもプログラマ達にとっては、HAL/Sのコードは地獄行きの契約書に等しかっただろう。

HAL/Sには頑健なコードを書くための要素が多く欠落している。Cの構造体や共用体がどれだけ素晴らしい機能であるか、万人が知るべきである。組み込みプログラマはレジスタに値をセットするとき、それにHAL/Sを使わないで良い事をカーニハンとリッチーに感謝すべきだ。Cのプリプロセッサマクロにすら感謝の祈りを忘れるべきではない。Cのポインタの危険性を剥き身のナイフに例えるなら、HAL/SのCOMPOOLはピンが最初から抜かれている手榴弾に例えられるべきだ。EXTERNAL宣言されたCOMPOOLが、いちいち再度変数宣言する必要があった事に気づいただろうか。つまり間違ってオリジナルと違う宣言を書いてしまう可能性がある。Cのヘッダファイルをインクルードする時には、パンチカードに同じ穴をコピペしていたプログラマ達の事を想って欲しい。

HAL/Sはリアルタイム言語としても未成熟だった。リアルタイムOSに必要な機能は、割り込みへの応答速度やタイムスライスの精度では無い。情報こそが制御の中心であり、この安全がなければ制御は安全ではない。今でも時折想像力の欠落した組み込み技術者がやらかすヘマだが、セマフォを使わずタイムスライスで全てが解決するといった考え方は、安全から遠くかけ離れている。

HAL/Sの開発者たち本人が、ソフトウェア開発に最初から関わっていれば、HAL/Sの仕様の半分、つまり無駄は存在しなかっただろう。もしシャトルフライトソフトウェア開発以前に、練習になる開発計画があれば、HAL/Sはもっと素晴らしい言語になっていただろう。残念ながらHAL/Sは学び成長する準備期間抜きにシャトル計画に、NASAとIBMの官僚機構の歯車に飲み込まれ、仕様を凍結されたのだ。


シャトルフライトソフトウェアがHAL/Sを使いながら危険な事故を起こさなかった理由の一つは、その規模だろう。機能分割は更にソフトウェアのモジュール化を推進した。更に金と人員さえ掛ければ、バグは潰すことが出来る。

400000行のHAL/Sソースコードは、現代的な言語なら更に簡潔に記述できるだろうし、考えてみれば128キロバイトしかメモリ空間が無いのだ。FCOSなど35キロバイトに過ぎない。AP-101のコード効率が良かった筈が無い。シャトルフライトソフトウェアは、そこらの組み込みシステムよりずっと小規模なシステムなのである。

詳細なドキュメントと紙上の検討がどれほど信頼性に寄与したのかはわからない。徹底した試験とシミュレーションの寄与も、どのような試験を行ったか、その情報をも含めてわからない。ただ言えるのは、仕様は基本的に間違っておらず、試験も必要な範囲を網羅した筈だという事である。

これは双方とも、実は難しい条件である。技術的にはまったく難しい条件ではない。それは政治的、経済的な条件であり、結局それがソフトウェアプロジェクトの成就を左右するのだ。上級関係者の単なる理解不足が、政治的歯車の中でプロジェクトを超難問に仕立て上げる。HAL/Sの仕様も、そういう政治的歯車の産物の一種である。ただ、シャトルフライトソフトウェアの開発がHAL/Sという高級言語で行えたことは成功と言っても良かったのかも知れない。もしアセンブラで開発が行われていたら、プロジェクトは果たしてどうなっていただろうか。……いや、それでもうまく行っていたのかも知れない。開発期間やコストはまったく違うものになっていただろうが。

シャトルフライトソフトウェアの開発はコストの問題はあるにしても、安全にその使命を果たしたという意味では成功だった。しかしHAL/Sそのものは、やはり失敗した開発である。宇宙機向け汎用言語という当初の目的を果たせず、組み込みソフトウェアの世界でHAL/Sはほとんど影響を与えることができなかった。

多分、酷い言語、失敗したプログラミング言語を普段見ることが無いのは、そういう言語はそもそも誰にも使われないからだ。ただ、仕方なく使用を強制されるものだけが失敗した言語として目に見える形で残るのだ。


Intermetrics社はその後Ada83及び95規格の策定に関わり、Adaコンパイラを出荷した。Ada言語にはHAL/Sの特徴の幾つか、例えばリアルタイム言語機能などが見られる。Intermetrics社は更にその後1997年にルッキンググラス社と合併、コンピュータゲーム開発企業になり、PC用フライトシミュレータやスニーキングアクションゲーム"シーフ"、RPG"ウルテイマアンダーワールド"、N64向け"コマンド&コンカー"等を開発した後1999年に再び分離、売却され軍事サービス企業タイタンコーポレーションに買収された。タイタンは軍のために翻訳ソフトウェア、空中警戒管制システム、海戦ウォーゲーム等を開発している。また国土安全保障省との契約を介してアブグレイブの囚人虐待にも関わった。

HAL/Sは珍しい、死亡日時がはっきりしたプログラミング言語となるだろう。STS-135向けのミッション用コード差分の最後のものが書かれた瞬間に、HAL/Sの死は確定する。命日は最後のシャトル搭載のAP-101Sから火が落とされる瞬間である。

--------------------------------------------------------------------------

もしこの内容を同人誌で出しても、やっぱ誰も買わないよね……



プログラミング HAL/S #9 -2011年3月8日(火)00時19分


9:ハードウェアと運用仕様


HAL/SのメインプラットフォームであるAP-101計算機は、1970年代に開発されたTTLトランジスタコンピュータである。およそ高さ20センチ、幅26センチ、奥行き50センチ、重さ26キログラム。メーカであるIBMは自社のSystem/360互換のアーキテクチャをAP-101に与えた。

System/360は32ビットアーキテクチャ機で、8ビット単位でワード長を可変できる最初のコンピュータだった。うちSystem/360モデル30をベースにIBMは60年代後半、耐放射線性コンポーネントを使った組込みフォールトトレラントコンピュータ、System/4 piアーキテクチャのAP-1計算機を開発した。AP-101はこれを元にしている。

演算能力は0.4MIPS、メモリはコアメモリ、入出力チャンネルは24本用意されていた。OPコードも基本命令154種をサポートする。32ビットの汎用レジスタ16個を持ち、立派な32ビットマシンなのだが、実際は16ビットマシンみたいなものだった。まずアドレス空間が16ビット分しかない。バス幅が16ビットなのだ。データアクセスの単位も16ビットが実質1ワードで、メモリ空間が64キロワードだから、メモリ容量は128キロバイトだ。少なくともHAL/Sにとって単精度は16ビットで、倍精度で32ビットだった。

スタックの最基部には2ワード32ビットの状態レジスタがある。その上にレジスタ退避エリア16ワードが用意され、この計18ワードがスタック基部に必ず確保される。HAL/SはここにレジスタのうちR0からR7までの8個しか退避しない。これは恐らく割り込み時のレジスタ退避エリアで、従ってHAL/Sは多重割り込みをサポートしないと思われる。スタックは基部からアドレスの下位へと成長し、グローバル変数などは18ワードのアドレス上位に確保される。スタックアドレスはR0レジスタに格納される。R5,R6,R7が整数演算用に予約されている。

シャトルでは同じAP-101を5台搭載して、うち4台の出力を多数決冗長で1台分の出力にして出力し、4台に同じデータがそれぞれ入力される。残り1台は待機冗長で、多数決には加わらず、4台のどれか1台が壊れたときに取り替えるためのいわば予備部品である。

I/Oチャンネルの接続先は主にDPSと呼ばれる、インテリジェンスなパラレル-シリアル変換器である。DPSは1台で16個のパラレル入力をシリアライズし、16個のパラレル出力をシリアル入力から作り出す事ができる。つまりアクセスは1ワード単位だ。DPSは28ビット長のコマンドによって動作を制御できる。パラレル出力制御は主にこれによる。

チャンネルには他にもプラウン管ディスプレイや、後にはデータストレージも接続する。

シャトルに搭載されたのは開発初期から多少仕様変更されたAP-101Bだったが、1990年代に新しいAP-101Sに載せかえられている。AP-101Sはメモリをコアメモリから半導体メモリに変更し、メモリ空間を1メガバイトまで拡張した。速度は1MIPSまで向上し、サイズと重量は半分になった。しかしシャトルに用意されている搭載空間は変わらないから、以前の1台のモジュールケースの中に2台のAP-101Sが入るという構成になっている。


DPSのパラレル入力は一度のアクセスで16ビット、1ワード分を取得する。DPSに対して、HAL/Sのカラムやライン、タブといった制御命令がどういう効果を持つのかは不明だ。またWRITE文で例えば1ビットのON/OFFをするようなビット操作はどうしたらいいのだろうか。恐らく2バイトの文字列型変数をBIT文で操作したものを出力する事になるだろう。

AP-101が24本のチャンネルを持つのに対して、HAL/Sは10本しかサポートしない。恐らくドキュメントの間違いか、AP-101用に別にドキュメントがあるのだろう。元々チャンネルが10本というのはシャトルに対して少な過ぎる。

HAL/Sはテレタイプ端末やプリンタを繋ぐには向いているが、決してハードウェアの生I/Oを接続するのには向いていない。ハードウェア寄りの仕様に一切歩み寄らなかったHAL/Sという言語は、宇宙機用汎用言語という掲げた目標と比べると、ちぐはぐというか、訳がわからないといった感想をどうしても持ってしまう。


HAL/Sで記述されたプログラムは、基本的にはIBM System/360か370上で開発することになる。少なくともEBCDICプリンタが接続した機械が必要で、実際には開発は紙の上でだっただろう。プログラムはIBMパンチカードに1行1枚の勘定で打ち出され、コンパイラはそれらカードの束の上に置かれたJCL言語の制御カードに従ってコンパイルする。

 気になるのはマルチライン記述であるが、恐らく各ライン毎に別のカードを割り当てたものと思われる。デバッグでどこかの行を書き直すと、カードの束の1枚とか数枚を新しいものに入れ替える事になる。こんな開発でバージョン管理なんてものはありえないし、そういったものは一切サポートされていなかった。最初のスクリーンエディタは1960年代末には登場していたが、そんな軟弱なものはHAL/Sの開発環境には存在しなかっただろう。開発環境のマニュアルに書かれているのはただ、JCLの書き方のみである。

それでもアセンブラで開発するよりかは遥かにましだった。実際は当初NASAではアセンブラでの開発が強く主張されていた。組み込み用プログラミング言語は当時信頼性とパフォーマンスの両面でまったく信用されていなかった。HAL/Sはパフォーマンステストで、アセンブラ記述より5パーセント速度が劣るだけという性能をベンチマークで示し、ようやくHAL/Sの採用が決まったのである。

シャトルフライトソフトウェアは、1973年にIBMとロックウェル社の合同プロジェクトとしてNASAと契約、開発を開始した。そもそもオービターのメインカスタマーであるロックウェルはIBMを下請けに使うつもりだったのだが、IBMがNASAと単独契約をしようとしていたのに慌てて割り込んだのだ。だから開発主体は結局IBMである。更に開発初期にはチャールズ・スターク・ドレーパー研究所がコンサルタントに入った。チャールズ・スターク・ドレーパー研究所はアポロ誘導コンピュータの開発主体であり、1973年までHAL/S開発の主体である。HAL/Sの開発者たちはこの年にIntermetrics社を設立、独立している。HAL/Sの一応の完成も同年となっている。


開発されたソフトウェアはOPSと呼ばれる複数のモジュールの塊からなっている。OPSは更に機体状態によって遷移するモードから構成されていた。例えばOPS-3、エントリーは最初の軌道離脱モードから始まって、複数の制御モードを遷移して着陸モードに到達する。

常に動作しているOPSは3種類、OPS-0はデータサンプリングとユーザインタフェイスを担当している。これはFCOS、フライトコンピュータオペレーティングシステムとも呼ばれる。OPS-9はデータストレージコントローラだ。サービスモジュール用の2つのOPSは用途に合わせて呼び出される。機体制御用のOPSは6種類、これはうちどれか1つが必ず動作している。6種類の中には地上整備時のコンフィギュレーション用のOPSもある。

OPSの切り替えはメモリ空間の制約のせいでもあった。打ち上げ時の機体制御プログラムは帰還時には必要ない。切り離す事が出来れば、一度にメモリ空間に置くプログラムサイズを小さく出来る。各プログラムモジュールは外部装置からロードして切り替えればいい。プログラムは絶対の前提条件としてAP-101の64キロワード、つまり128キロバイトのメモリ空間に収まらなくてはならなかった。FCOSはうち35キロバイトを常に占めている。

その上で、プログラムの動作にはRAMが必要である。HAL/Sがローカル変数の機能を持ち、常にRAMを占拠するグローバル変数を減らせた点はプロジェクトへの貢献だった。

ロックウェルは1971年の段階では、プログラムサイズを56キロバイト、だからコンピュータのメモリは余裕を持って64キロバイトもあれば十分だと見積もっていた。しかしプログラム規模は1978年には実行時イメージで140キロバイトを突破していた。RAMの余裕を考慮するとプログラムは80キロバイト以内に収めろというのがNASAの要求だった。IBMは、大掛かりな機能分割によって、最初の打ち上げ前にこの要求を満たすことが出来た。



プログラミング HAL/S #8 -2011年3月6日(日)22時05分


8:リアルタイム


HAL/Sはリアルタイム言語である。

何故シャトルはこんな言語を使い続けたのか、ここに理由がある。リアルタイム言語とは、簡単に言えばリアルタイムOSの機能を持った言語である。実際には、リアルタイム言語の歴史はリアルタイムOSのそれに先行する。

世界最初の本格リアルタイムOS、DEC RSX-15は1970年に生まれた。リアルタイム機能の基礎であるタスク間同期は、リアルタイム化FORTRANであるOLERTのランデブ機能として最初に実装されたアイディアを使ったものである

リアルタイム機能とは最初それはハードウェア割り込みの事であった。非同期で低速な外部入力をコンピュータが受け取るために、軍事通信システムで生まれた割り込みは、すぐに産業用コンピュータでも一般的な仕様となった。マルチタスクは割り込みを処理するためのソフトウェア技術として生まれた。マルチタスクは一時期並列コンピューティングとすら呼ばれたことがある。

RSX-15のマルチタスク機能は、最初"ソフトウェア"割り込みと呼ばれた。ハードウェア割り込みを処理するソフトウェア層の上に、抽象化された割り込みを定義可能にしたのがその実態である。しかしそれだけではマルチタスクは成立しない。非同期に動くタスクの間でデータをやり取りするには特別な仕組みが必要だった。RSXではそれがランデブ機能だった。HAL/Sもマルチタスク機能とタスク間通信のサポートを言語レベルで提供する。

HAL/Sの各タスクは、ランタイム内のリアルタイム実行部(RTE)によってコントロールされる。実のところPROGRAMブロックもまたコントロール下にあり、スケジューリング定義の無い状態のままでRTEの実行待ち行列に突っ込まれ、実行されているのである。RTEは恐らく優先度付きラウンドロビンスケジューラである。

タスク定義はPROGRAMブロックと同じ構文で行われる。引数を取らず戻り値も無い。


"ブロック名": TASK;

  内容;

CLOSE "ブロック名";


タスクがどのように実行されるかはスケジューリング定義SCHEDULEで記述される。


SCHEDULE "ブロック名" PRIORITY("優先度");


優先度は0から255まで指定可能だ。数字の大きいほうが実行は優先的に行われる。


SCHEDULE "ブロック名" PRIORITY("優先度") DEPENDENT;


キーワードDEPENDENTは、このTASKプロセスを作ったプロセスに動作が依存することを示している。これは、タスク内からスケジューラ的な小型タスクを呼び出して使用するときなどに使う。


SCHEDULE "ブロック名" IN "時間間隔" PRIORITY("優先度");


キーワードINを用いて実行インターバルを設定できる。この時間単位は秒で、少数点数で指定ができる。


SCHEDULE "ブロック名" AT "指定時間" PRIORITY("優先度");


キーワードATを用いて、指定時間になったら実行するようにできる。指定時間はスカラー値の変数と小数点の直値を使う事になる。

SCHEDULE文はPROGRAMブロック内、もしくはタスク内にしか書けない。SCHEDULE文はタスクの呼び出しを兼ねている。

タスクはRETURN文を実行すると停止する。またブロックの終端であるCLOSEに到達しても停止する。また、タスクはTERMINATE文を使っても停止する事ができる。これら三種は同じ動作を示す。タスクは再びSCHEDULE文によらなければ動作しない。

タスクが内部から自分自身を停止する場合は、


TERMINATE;


他のタスクを停止する場合は、


TERMINATE タスク名;


というかたちの記述となる。停止タスクはカンマで区切って複数並べることもできる。

CANCEL文は、タスクを停止し、RTEの実行待ち行列から弾き出す。これは主にエラー状態のときに用いる。


タスクは以下の4種類の状態を遷移する。

Active :タスクは動作しています。

Wait  :タスクは状態を保ったまま停止し、制御を他のタスクに渡します。

Ready  :実行待ちです。

Stall  :タスクは不活性化しています。SCHEDULEによってReadyに遷移します。


CANCEL文は、タスクをStall状態へと遷移させる。記法も動作もTERMINATEと同じである。タスク名は変数としてブーリアン型の値を持つ。タスクがActiveだとtrue、Activeでなければfalseを返す。


タスク間の同期機能は、タスクによって分割された処理を再び統合するために必須の機能である。ここを上手く処理しなければタスク間で情報を正しく渡し損ねる場合がある。例えば情報を渡している最中に割り込み処理が入ったらどうなるか。情報の受け渡しは中断され、失敗するだろう。HAL/Sも一応そのための仕組みを持っている。

WAIT文は、タスクを一時停止して制御を他のタスクに渡す事ができる。

WAITの後ろに数字もしくは変数で、停止時間間隔を指定できる。これはSCHEDULEの時間間隔指定と同じ、秒単位の指定である。キーワードUNTILを付けると、指定のRTEシステムタイマ絶対値まで停止し続けるという動作になる。キーワードFORはイベント待ちである。


WAIT FOR DEPENDENT;


これは親プロセスに同期して停止するという意味である。

UPDATE文は、SCHEDULEで指定された優先度を変更できる。タスク名を省略すると、自タスクの優先度を変更する。HAL/Sのスケジューラは、低優先度タスクの自動優先度上昇のような機能を持たない。代わりに、手動で行うのである。


UPDATE PRIORITY タスク名 TO 16;


WAIT文のキーワードFORで出てきたイベントとは、DEPENDENT以外にも様々に定義が可能である。これにはイベント型変数を用いる。


DECLARE EV1 EVENT;


イベントは要するにソフトウェア生成される割り込み、通常のリアルタイムOSで言うところのキューだと思えば良い。これがHAL/Sのタスク間同期機構を担っている。


WAIT FOR EV1;


これはEV1のイベント待ちである。


SIGNAL EV1;


これで一発、イベントが発生する。

イベントには、発生したら打ち消すまでセットされるものもある。

キーワードLATCHEDは、このイベント変数がオンオフできることを示している。


DECLARE EV2 EVENT LATCHED;


SET EV2;

RESET EV2;


SET文はLATCHEDでないイベント変数にも使える。その場合はRESETしてやる必要は無い。

LATCHEDなイベント変数は、最初からセットしてやることもできる。


DECLARE EV3 EVENT LATCHED INITIAL(TRUE);


イベント変数は配列にすることもできる。


DECLARE EVN ARRAY(3) EVENT;


SET EVN(1 TO 2);


イベント変数は論理演算することもできる。


WAIT FOR(EV1&EV2);


HAL/Sにはタスク間同期機構がイベント変数しかなく、データの集合をアクセス衝突なく同期伝送できる仕組みを備えていない。HAL/Sのタスク間データのやりとりはCOMPOOLを使う訳だが、セマフォに相当する仕組みがHAL/Sには備わっていないため、データフローの設計は非常に気を使うものになっただろう。




-過去ログ-



-戻る-