僕の唯一の友人が自殺して、東京の大学に行き、そして、あらゆる物事を深刻に受け止めないようにして生きていく事にした。だから、規則尽くめの寮に寝起きして友人をほとんど作らずにいても、それで特に問題も無かったのだ。
そうして、一年ぶりに友人の元彼女と会った。
これまで読んでいないものをリストアップして計画的に攻略する、その一環です。
まあ有名だし売れた本らしいのでとりあえずチェック。
あっという間に読めました。常磐線の上りと下りで上下巻終了。読みやすく面白く、登場人物たちの軽妙なセリフやら比喩やらが一杯です。
主人公の性格やセリフは有り得ないものですが好感は持てます。物語については、寮の同居人がいなくなる辺りまでは結構面白く読めましたが、そっから先の人間関係や事象には、面白い描写はちょこちょことありますが、なにか違和感があります。
所詮、1987年(バブル、とルビを振る必要もあるまい)に書かれた、1969年の物語です。今、これを2004年に読んでいるという事自体が、ちょっとだけメタに面白かったりします。
この作品を読んでようやく、東浩紀言うところの”社会参加”という奴がわかった気がします。この作品では、主人公は友人の死とか色々なものを言い訳に、いわゆる社会参加、学生運動とかデモとか政治的ほにゃららに関わりあいになるのを避け、大学で孤独に講義を受け、狭い個人的関心の世界の中で生きています。
現在の我々の価値観だと、普通だよな普通だし、とか思うのですが、この作品からは時々言い訳じみたものを感じるのが面白いところです。現代の我々は、もはや”社会的参加”って奴がよく判らないし、そんな事をする奴は社会不適合者だとか思っている向きもある位ですが、過去においては、個人と社会というものの構造がこんな風にみょうちくりんだった頃もあった訳で、そういう意味、ある種の考古学的には非常に面白いです。
しかし、文学として見た場合、私は特には楽しめませんでした。生暖かい視点と距離、それが物語の終わりの私の位置でした。もしかすると、人生のいずれかの時期に読めばハマれたのかも知れません。残念なのかも知れません。
ようやく理解しました。忍者だから何でも許されるのです。
というか、ニンジャ。これからは、ルネサンス期の巨匠の名前を持っていてピザが好きな、ケミカルXか何かを浴びた奴らを連想する事にしました。
ん、まあ、結構面白かったです。
……忍者が亀でも、何も問題無いじゃん。
最近こう、高価くて重くて、そして面白くて熟読を強いる本ばかり読んでいる気がします。疲れます。
この本は高い、と思うでしょうが、確実に元は取れます。
本書の評価すべきは、まず、コードを読む、ということの意義を、きちんと定義したことです。読者はこれから、様々なソースを読んでも注意が散漫にならず、体系立てて攻略できるようになる筈です。
コード読みの本はここで取り上げるのは(「Rubyソースコード完全解説」「デーモン君のソース探検」に続いて)三冊目ですが、前二冊がコード読みの楽しさを伝えるものだったのに対して、本書は、ソース読みのための確実に技能を身につける訓練が主眼です。が、注意深く構成されているために、本書はとても興味深く、集中して読めるでしょう。
読むべきソースが100kを越えたら、本書を読むことを強く推奨します。
数年来の宿願だったサイト再構築をようやく果たしました。
サイトの構造と見かけを変えずに、XHTML記述とフレームを廃したスタルシートによる外観記述への切り替えです。まだ不具合個所は多いのですが、現在ちょっと息切れ中。
私が最初にスタイルシートに手を出したのは2000年のこと。雑誌記事を元にあれこれ弄りましたが、自前のブラウザがNN4系だったのと、フォントを二重にして影をつけるとか、その手のテクニックがまだ横行していた頃のこと、すぐに行き詰まりました。
その後「スタイルシートwebデザイン」という参考書に出会い、現在のような、外観記述のスタイルシートへの集中へと方針を変え、大体半年に一度くらいの頻度でサイト再構築実験を繰り返していました。今回実際の再構築に踏み切ったのは、疑似フローティングによるサイドバー再現を諦めたからです。Mozillaでしか見えないページを作っても仕方ないですし。
実際に作業に掛かると、過去の自分がおこなった様々な表現が、今度は障害となってたちふさがってきます。事前に用意した、練り込んだ筈の移行テンプレートがちっとも役に立たない状況が続きます。
というわけで、よさげな参考書を探したという訳です。
本書は類書にありがちなオシャレパターンテンプレート集ともタグ引き辞典のおまけとも違い、カスケーディングスタイルシートについて体系立てた説明が試みられており、またその上で良いデザインを追求するための具体例について言及した、基礎から実践まで一貫した良書です。
文法的な部分の細部の解説は弱いのですが、タグ辞典などのありがちな他の書籍に頼ればよい内容であり、問題はないと思います。オシャレ度は他の本より低くなっていますが、間違いを犯す可能性は低くなります。本書は主義的厳密性とオシャレ度を、読者の負担にならない範囲でバランスしており、評価できます。
何より評価したいのは、スタイルシート適用の結果、振る舞いについて一貫した理解が得られる点です。画像やテキストの回り込みがブロック要素と非ブロック要素とでどう変わるか、私はこの本を読んでようやく予想できるようになりました。まだブラウザ(IE)のバグで思った通りになりませんが。
自分はようやく、スタイルシートを用いたデザインの初歩を理解できたと思います。
スタイルシートによるデザインは万能ではありません。万能にはほど遠いというのが実際です。絶対位置指定を使えば、という極論も存在しますが、実際に、現実的なWebデザインに絶対位置指定が使えるかというと違う訳です。その万能性は制約付きのものとなります。
逆に、テーブルレイアウトの柔軟性を改めて評価する機会でもありました。テーブルタグを使ったレイアウトを排除する理由が”テーブルタグは表作成のためのものだから”という理由しかないなら、レイアウト用のテーブル的タグが欲しい、と思うのです。
レイアウト用途に最適化した、セル単位の割り付けを!
チューリングマシンと停止問題のちゃんとした定義が知りたかったので、古本屋のワゴンから。
ひと連なりのメモリ空間をアクセスする、ちっちゃなCPUを想像してみてください。メモリの線路を、アドレスを上り下りする一台のトロッコ。トロッコの上にはデータを載せるちっちゃな荷台と演算器。線路の上のデータを拾って、その内容に応じた動作を続けます。といっても、アドレスをひとマスづつうろうろして、データを書き換えるだけ。
この単純な代物が、もしメモリが無限だったならば、計算可能なものならばどのようなものだろうと計算する事ができる、どんなコンピュータだろうと模倣できる、と、チューリングは数学で証明しました。
大体、こんなとこが、「コンピュータレクリエーション」で得ていた知識でした。中学生にチューリングマシンを呑み込ませたあの記事は素晴らしいっス。
今回の問題は停止問題について。”コンピュータの定義”って何だろう、という時に、停止問題、つまるところ不完全性定理が絡むと格好良いんじゃないか、と思うんです。だってゲーデルですぜ。ニューサイエンス好きが黙って平伏するゲーデルです。
そこで、停止問題とは正確には何なのか、知る必要が出てきます。
さて、ここから述べるのは私の理解であって、正確ではありません。
停止問題とは、あるチューリングマシンがいつ計算を止めて停止するか、それとも停止しないか、これを予測するというもの。単なる計算機なら、計算の全てのステップをこなせば停止するので予測は簡単です。しかし、ループや分岐を許す機械は一筋縄ではいきません。
この答えは”決定不能”というものでした。停止を予測する方法、アルゴリズムは存在しない、というのです。
で、この理由なんですが、つまり、もしそのアルゴリズムが存在するとしたら、当然当のチューリングマシンでそのアルゴリズムを走らせる事が出来る訳で、その結果を元に予測を裏切るプログラムが書けてしまう訳です。つまり、予測できない、と。
ついでにスタックマシンや文脈自由文法のおさらいも。
スクリプト言語の自作なんかに手を出した人は、スクリプトエンジンの仮想機械の振る舞いについて、こういったオートマトンの知識を持っていて良いと思います。
旧ソ連のコンピュータを調べていて、テクノロジーと政治、そして哲学が密接に絡み合った混沌に出くわしました。
旧ソ連のコンピュータ開発は、アメリカに遅れる事およそ3年から4年という時点から出発し、独自のハードウェア及びソフトウェア、理論とアーキテクチャの発達をみながら、1960年代後期にはアメリカにほぼ追いつき、一部では追い越しました。
しかし、ブレジネフの時代と時を同じくするように、旧ソ連におけるコンピュータの進歩は停滞します。旧ソ連の崩壊まで、西側の水準からおよそ7年遅れという状況が続く事になるのです。
停滞の原因は1950年代まで遡って、政治的な要素によるものでした。サイバネティクスという学問分野全体が攻撃を、弾圧を受けたのです。旧ソ連においてサイバネティクスという言葉は人工知能研究を特に指しましたが、ソフトウェア工学やある種の医学や経済学を包含していました。
どうやら”サイバネティクスは唯物論に反する”らしいのです。当時はルイセンコが幅を利かせていた時代で、他にも”相対論は唯物論に反する”なんて言いがかりもあったようです。
で、どのあたりが共産主義国家のイデオロギーに抵触したのか、知りたいと思ったわけです。
まぁ良いチャンスだし、読み直そうと思いました。学生の頃に読んだきりですし。調べてみましたが、未だに箱入りのハードカバーしか無いのですね。筑波の古本屋にて購入しました。
……こんな内容だったっけ。印象の違いは、今のほうが色々と理解できるようになっているのが大きいようです。間違いもわかるし。昔は数式読み飛ばしたっけ。
しかし、話題がすぐにすっ飛ぶ本です、精神疾患からフィードバックへ、認知の話題から実際的なハードウェアへ。自分にとっては飛ぶ向きも距離も許容範囲内ですが、昔これを読んだ人たちはひどく面食らっただろうと思います。中身が判っていないなら、ちょっとアレな印象を受けていたかもしれません。
で、問題の個所ですが、ありました。二箇所ほど、具体的に、唯物論はダメダメだと論じている個所があります。要するに歴史とは線形ではなく非線形発展だし、ハードだけでは駄目、ソフトウェアも重要だと言っているのですが、これは多分唯物史観に反するし、資本論的にはソフトウェアに価値は認めないっぽいので、イデオロギーに忠実な向きは気にしそうです。
しかし、どちらがより正しいかと言えば、もう決まりきっている訳なのです。旧ソ連の計算機科学者、ハッカーたちの苦労が偲ばれます。
考えてみればサハロフって、ソヴィエトのコンピュータの最初期のユーザーだったりする可能性あるよな、とチェック。
サハロフの幼少期から執筆当時までの人生が、率直そのものの筆致で書かれています。サハロフ、人付き合い悪過ぎます。当時のソ連の光景の典型からは大幅にずれていますが、それでも雰囲気が、重苦しい雰囲気があります。
そして、多くの科学者、そしてテクノクラートたちについての記述があります。コロリョフについても書かれています。ここで多くのページが割かれているのは原子力開発の指導者、クルチャトフです。結局、旧ソ連のコンピュータ開発において、冷酷なまでの政治的手腕を持った指導者が居なかったことが、その後の停滞を招いた原因だったのかも知れません。
本書の後半は、次第に政治の世界、それも反体制派と呼ばれる立場に立っていく氏が描かれています。最初は、何も悪い事をしていない友人の擁護、嘘や誤りへの嫌悪の表明、やがて明白に正しいと信じる事柄が反体制的だとされ、定常的な監視、嫌がらせ、攻撃が行なわれるようになります。幼稚かつ陰湿な嫌がらせの数々には怒りを覚えずにはいられません。
同時に、氏への支持、共感も表明されるようになります。これはソ連の内部でも起こりました。
この本の中でのコンピュータへの言及は幾つかあるのですが、具体的記述はほとんどありません。が、ソ連最高のハッカーの一人、トゥルチンの名前がありました。トゥルチンはプログラミング言語RefalとオペレーティングシステムDispakの作者として知られていますが、彼は1974年にアムネスティ・インターナショナルソ連支部を共同で設立しています。
サハロフは何故、危険な反体制分子とされたのでしょうか。彼はただ、法と倫理に従っただけに過ぎません。しかしそれは、秩序との衝突だったのです。
法を守れば秩序が自動的にやってくる、または秩序ある状態とは法と倫理が遵守される状態である、と考えているようなおめでたい人は、歴史と現実を注意深く学ぶ必要があります。
秩序が法を、倫理を犯していないか、言論の自由や機会の均等といった、基本的な権利が侵されていないか、注意深く監視し、警告しましょう。
今ならまだ、反体制分子と呼ばれずに済む筈です。
さて、原典に突撃です。
岩波の文庫本9分冊、という時点で私の意気はひどく萎れてしまいましたが、やっぱ共産主義とかにコメントするには原典に当たりたいものです。で、とりあえず、最初の三冊を購入。でも、まだ一冊しか読んでいません。
読めませんでした。半月かけて、薄い一冊目をようやく読破。いや、ちゃんと読めたかどうか確信がありません。悪文です。なにやら同じ事を何度も何度も何度も読んだ気がします。微妙に違っていたかもしれませんが、判別できませんでした。でもまぁ、読み取れた分は整理してみようと思います。
マルクスは、商品が価値を持つのは、ものの生産過程で費やされた労働が、商品の内部にパラメーターとして保持されているからだと考えました。それは労働の質などにも左右されますが、支配的パラメータは労働時間です。商品の価格が安くなるのは、機械化で商品一つの生産にかかる労働者の労働時間が減少するからだとしています。この商品の内部の価値は、商品の使い道に依存する価値とも、実際のものの値段、交換価値とも違います。
で、これを基点に様々な物事を説明している筈なのですが、さっぱり判りませんでした。……整理もへったくれも無いやん。
自分は、ものが価値を持つのは、個人の生存戦略における様々なものの獲得の必要性とそのコストに由来するし、基本的に価値には優先順位はあっても定量的な物差しは無く、そもそも状況で変化すると思っています。
例えば、砂漠に自販機があったとして、幾らまで払えるかはその時の喉の渇きに大きく依存すると思う訳です。渇いていなければスルーしてオアシスでも探すでしょう。つまり、個人的な喉の渇きによって商品の価値は変動します。
マルクスは、価値が本当に等価なら等価交換の必要など無いというパラドクスを回避するために、様々な価値のタイプを導入していますが、各々が違う価値観を持っているから相互に得をする交換が存在し得る、という単純な理屈ではそんなものは必要ありません。つうか等価交換なんて有り得ません。だって本当に等価なら交換のコストだけ損ですよ。
ま、とりあえず、共産主義における価値の置き方はわかりました。労働バンザイで一見ヨロシイように見えますが、例えば自然に価値は無いし、知的労働の価値も、具体的な産物の無いものは全般に低くなるし、コピーを生産と考えるとソフトウェアの価値は著しく低くなるし。
19世紀の本、19世紀の理屈です。この当時としてはここまで網羅的に考察した本は無かったのだろうと思います。思想から経済システムまで、上から下まで全てを押さえた圧倒的な成果です。それだけは認めないと。
さてと、唯物史観って何巻にあるんだろ。
ざっと読んでみましたが、要するに、ソ連では現場からの数字が日常的にごまかされていた為に、どうやっても正確な経済の実情を把握できずに有効な政策を実行できなかった、という話です。
それだけ、でした。具体的な数字が、一部の実例だけでもあると良かったのですが、欠けていた為に、どうしても後付けの理屈に見えます。
とにかく具体的証拠に欠ける為に、こういう説もあるよ、としか取れないのが難点でしょう。
抜群に面白かったです。
本書は1980年に出版されました。独立労組”連帯”が誕生した年です。本書にはアカデミズミを超えて働きかける思弁と切迫感に満ちています。内容は具体例に富み、経済的側面については数字を援用して例証しています。
ポーランド社会主義共和国。それは、罠に嵌った全体主義国家でした。
第二次世界大戦後、ポーランドはソ連の極めて強い影響のもとで、主体性とソ連に干渉されない安全を天秤にかけながら、共産主義国家としての道を歩んでいきます。
ポーランドの支配集団は選挙で選ばれておらず、また、普通選挙を実施すれば負けることは明白であったために、その法的根拠と権威は極めて小さいものでした。支配集団には権力と、様々な政治的テクニックしかその手に持っていませんでした。
そのテクニックの基礎を、全体主義と言います。
共産主義国家においては、各種製品の価格と生産量は計画に基づいて統制されます。労働者に対する搾取を無くす為の手段だった筈のこの制度は、必要生産量が読めないという根本的欠陥により常に破綻する宿命を負っていました。
資源を奪い合う状況では、普通の資本主義社会なら、資源は資金力の多寡に従って分配されます。共産主義社会では、必要量をごまかして多く申告したものが多くを獲得しました。必要に応じて平等に分配しようとすると、貧者は苦しまない代わりに正直者が苦しむ事になるのです。
ごまかしの多くは合法的なもので、しかも最初はごく一部の問題でした。それでも計画経済を破綻させるには充分でした。やがてごまかしは定常化し、やがて経済計画そのものがごまかしの手段と化したのです。やがてポーランドは定期的な経済危機に苦しむようになります。
ソ連の顔色をうかがって農業を集団化し、重工業に資源を集中し、結果として農村は荒廃し、工業都市にあぶれた労働者は流れました。1950年に民間銀行は廃止され、通貨改革が行なわれました。この通貨改革というのものは新旧の通貨の交換比率を社会的立場によって可変するというもので、これにより民間小規模企業や個人商店はほぼ絶滅しました。経済は完全に硬直化したのです。
前述の通り資源配分が合理化されないため、余裕のあるときは常に資源は過剰に分配されました。やがて経済はそのツケを払う事になります。権威も実績も支持も無い支配者集団は、人事権と資源分配権を支配の道具として使い、政治的危機のたびに行なわれる裏づけの無い賃上げは、経済危機の原因となりました。
かつてのポーランドの体制の興味深いところは、経済危機と政治危機のタイミングが大幅にずれている点です。ここまで描いて来た経済危機は確かに問題ではあったものの。支配集団にとっては真の危機ではなく、むしろ体制改革の好機として待望されたのです。
政治危機の多くは、支配集団によってタイミングをコントロールして作り出された、人工的なものでした。
特定物品の物価を吊り上げて暴動を誘発し、労働者代表と支配集団トップの直接対話を演出して労働者を慰撫し、代表者を体制に参加させてコミュニケーションを分断する事で、あらゆる組織的運動を骨抜きにしてゆきます。そして、その混乱の中で、平時には抵抗が予想される施策を強行します。全てはその為の手段でした。
党集会を予めスケープゴートを用意して演出した儀礼劇として演出し、曖昧な言葉を多用して何か改革があったのかと国民に印象付けながら、政敵を葬り去るようになる、そんな手法が確立されていきます。
支配集団は各団体との交渉に公式のチャンネルを用いず、非公式な、時として非合法的なチャンネルを用いて個別に交渉しました。公式のチャンネルは著しく儀礼化し、形骸化してゆきます。労働者にとって、交渉の手段は非合法である筈の自主労組しか存在しませんでした。
言葉がメディアを用いてコントロールされ、発言は意味ではなく、誰がどういうタイミングで発言したのか、そういう文脈で判断されるようになりました。発言は空虚化し、二重の意味を持つようになります。
言語は二重化されてゆき、空虚な内容の発言を適切な文脈で発信することにより言外のメッセージは伝達され、これを巧く操る人間だけが成功のチャンスをものにするようになります。支配集団のプロパガンダの中で”自治”という言葉が空虚で嘘っぽく聞こえるようになってしまったために、自主労組の代表たちは、自治を要求する事ができませんでした。
そして、硬直化した支配組織は嘘と演出の中で合理性を失っていき、支配集団は自らの全体主義的手法がシステムを危機に陥れている事を熟知していながら、それに頼らざるを得なくなります。そして、政治危機や経済危機を改革のチャンスとして待望するようになります。
本書の記述、分析の緻密さは素晴らしいものがあります。あと、用語や解説されている用語のエキゾチックさがたまりません。不謹慎なのですが、読んでいて良質のファンタジーを感じてしまいました。幻想的です。魅力的と言っても良いです。とにかく不思議なのです。
本書の指摘の幾つかには強く唸らせられました。例えば、組織運動の分断工作に対して有効だった例として、徹底した情報公開を挙げています。レッテル張りという強力な--これほど強力だとは実例を挙げて説明されなければ信じなかったであろう--手段への唯一の対抗手段だとしています。
異様な迫力に溢れる一冊です。絶版書ですが、それでもお勧めしたい一冊です。
駄目。
なんとなく興味があって古本屋のワゴンから拾ったものの、内容に理論は無く、代わりに具体的記述の無い”理論”に基づく歴史解釈があります。あと、”比較政治学史”が。そんなもの要りません。
比較的まともに読めたのは第三、第五、第六章。ただしどれも理論は無し。それとも、もしかして図を書いて分類するだけで理論になったりするのでしょうか、この世界は。
この分でいくと、比較政治学という分野は、何も無いのでしょう。
伝記って久しぶりに読んだ気が。この雰囲気、読感、中学の頃に読んだような伝記です。回顧録とは違います。なんというか、視点が全然。やっぱり伝記には”えらいひとを評価しよう”という空気が素直に現れています。
中学生に読ませたい一冊です。そういう点では、ちょっと対象読者が違うのが残念です。
CANSATのあれこれを熱血っぽく記したドラマな本です。
CANSAT/CUBESAT、良いです。やっぱ衛星は打ち上げてナンボです。衛星設計コンテストも、最優秀作品は打ち上げる方向で行きべきでしょう。
本書の内容も非常によくまとまったものだと思います。少なくとも、吉原さんや山元さんが、うがー、とか頭を抱えた様子はありません。お勧めできる一冊だと思います。
いつもは立ち読みでさらっと流す雑誌ですが、この号の特集は”火星探査ロボット&陸自特殊戦群”この奇妙な取り合わせに釣られました。
冒頭の特集記事は江藤巌氏によるスピリットとオポチュニティに代表される惑星/衛星探査機に関するものと、それに関連してDARPAグランドチャレンジの解説でした。
火星ローバーとDARPAグランドチャレンジ参加機では、現在のところ非常にかけ離れたものとなっています。巡航速度、自律性のレベル、信頼性、遠隔インタフェイス、そしてテクノロジ。しかしこれらは今後一つの流れへと合流していくでしょう。私はDARPAグランドチャレンジを非常に高く評価します。日本が足やら腕とかにかまけているうちに、世の中はずっと先を行ってる事になりそうです。
大体、ロボット用のOSがどうあるべきか、とか、超多数多種入力のインタフェイス、特に割り込みをどうするか、とか、基礎的な遠隔インタフェイスをどうするか、とか、誰もちーとも考えていないのが痛いです。リアルタイムOSの応答性を過剰に気にする癖にすぐにネットワークで分散制御などと抜かす阿呆が多すぎなんです。
しかし、足とか車輪とか、目に見えるアクチュエータが無いとロボットと見なされない、というのはそろそろ真剣にテクノロジの合理的な発達に対する障害になりそうです。
ところで、海自は海洋ロボット、研究開発しているのでしょうか。海洋研なら知っているし成果出しているし、しかし……ま、間違った金遣いが得意な組織だし期待はしていませんが。
その他の記事も興味深く読みました。陸自特殊戦群、つまり特殊部隊的なアレコレについては、結局アレコレと言うしか無い辺りがなんとも。要するに、特殊部隊というものを装備の一種くらいに思っていたところが、地道にソフト的な面から構築していく必要があるという事をようやく認識したという、情報収集衛星でも繰り返されたありがちなストーリーです。
その他記事は玉石混交、その混交ぶり自体が非常に興味深いものとなっています。米海軍の情報通信網の記事なんかは、こんな大規模分散協調システムを構築しようとした当時のアメリカの意思と、その手段(今見ると初歩というか原始的)が印象的でした。あとTDMAの記述がちょっと微笑ましかったり。要するにイージスシステムとは艦隊を一個の自動化したロボットとして再構築するシステムなのです。
しかし一方で、国を憂いる調子のいい記事は例外なく観察力と具体的な論旨の合理性に欠けています。この雑誌、昔から思っている事ですが筆者の質にむらが有り過ぎです。
「ロシアの宇宙開発の歴史」と同じ、薄い小冊子のような体裁の本です。
内容は特に、ソ連における初期の原子力開発の記述が読ませます。クルチャトフらについての内容が多く、具体的内容や図表も多いです。サハロフの回想録に出てきた事故が、どのような状況で起きたか、よくわかります。
また、黒鉛チャンネル炉の商業発電一号炉についての記事があります。貴重です。
次に読ませるのは現在のロシアの原子力機関の紹介で、その間の歴史、中間部分がすっかり抜けています。原子力事故に関しても、原潜の事故や、宇宙用原子炉の落下事故の記述がありません。原潜用原子炉や宇宙用原子炉の記述が無かったのは非常に残念です。
もっと分厚い本で読みたい内容です。最近の自分の関心の一つに、政治とテクノロジーの関連があります。利用されたり、弾圧されたり、旧ソ連の事例は多様で、極めて示唆に富みます。
「資本論」で調子の狂った神経に逆相かけるべく、自分の知る限りで一番狂った雑誌を久しぶりに買ってみました。
喜ぶべきか悲しむべきか、思ったより効き目、低かったです。
以前読んだときは、どれこれのキャラクターが好きだという、血の叫びのような読者の声が紙面に充溢していたような気がするのですが、今読むと、なんというか、只のエロゲ情報誌予備軍みたいだし。
しかし、おかげで十年来のもやもやが解消されました。
昔から、ファンロード別冊とか、大判の著名クリエイターを集めたキャラクター誌とかで巧い絵を眺めても、感心はするけど決して惚れ込めなかったんです。
キャラクターが全てではない、こんな単純な事に今頃気が付くなんて。もやもやした不満の正体にようやく気付きました。”イラスト”の筈なのに、”キャラクターのイラスト”ばかり。オタクってのは風景を背景としか思っていないのか。キャラクター以外のものに価値は無いとでも言うのか。
今なら、オタクのメカイラストがロボに収斂されていった過程が良くわかります。キャラクター化されたのです。ありとあらゆるものをキャラクター化する萌え擬人化という試みも時代の必然でしょう。
ああ、そのものをそのまま描けば良いのに。
風景が見たいです。それも、人物を焦点から排除した、架空の風景が。
最近、落書きを始めました。腕がなまっているのがよく判ります。それでも、2Bの芯と表面のざらざらした画用紙で、ひたすら石垣描いたり(野面積みと打ち込みハギを混ぜて、荒れ果てた感じに描くのが好き)アーチ描いたり、鉄骨描いたり樹木描いたり。石垣をひたすら描く幸せ、というものがあるのです。樹木は枝振りの把握の仕方が甘くなった気が。写生で勘を取り戻すしかないのかも。それもこれも、脳内の、あの風景をカタチにするために。
絵が好きなんです。キャラクターばかりの絵なんて不毛です。
自分探し、って何だろう。
自分、自己の能力を疑った事はあっても、向きを見失った事だけは無かった気がする。過去に何度かあったどん底でも、歯を食いしばり、視野狭窄に陥っていても、視線は全くブレなかった。多くのものを失って、”やりたい事”は更に遠くに輝きを増した。夢や希望が私を鞭打った。どん底の自分には、足掻くことが救いだったのだ。
やりたい事が無い、とか、そういう事って、だから自分にはぼんやりとしか想像できない。自分の人生は、間断なく”夢”に鞭打たれて歩む苦行だったのだから。
だからといって、主人公である竹本君の苦悩に対する愛おしさが減ずる訳でも、天才である森田への理解が進む訳でもありません。勿論、真山の切ない心境が格段に判ったりする訳でもありません。
良い物語、良い登場人物たち。切ないなぁ。
わーい眼鏡っコラブコメだぁ、とか、ゴッドペンション久しぶりー、とか、獣肉打つの好きだなあ、とか、まぁ面白かったのですが、毎度読む度に不安になる訳です。ゆうきまさみとの合作で、なにか濃い田丸汁を味わい損ねているのではないか、と。
我慢できなくなって一挙に読みました。だって眼鏡っ娘ですぜ。
我慢してたのは、メイドだから。オタはメイドと聞くと涎をたらす、そんなパブロフチックな状況が嫌だったし、それに所詮家政婦、お手伝いさんですぜ。変なファンタジー妄想してんじゃねぇよ。
……すいません。ちょっとしていました。
そうこうしているうちに、無視が我慢になっちゃって、この度我慢できなくなったという塩梅。
漫画で読むヴィクトリア朝イギリスの描写としては、最良のものの一つでしょう。一つ一つの描写が丁寧で好感が持てます。四巻の後半では、どことなく絵柄が銅版画っぽくて素晴らしかったです。細かいレース模様をいちいち描いているのも素晴らしい。
ただ、やっぱり”メイド萌えー”って訳にはいきません。最近読んだ本の影響で、資本家 VS 労働者って図式のほうがしっくり来たり。あと、「ディファレンス・エンジン」も読み返しました。楽しめる作品です。
ニンゲンってむずかしいキカイだ。
ピコピコ可愛いキカイたち。ぬいぐるみが可愛いように、ドット絵も可愛いと思うし、木の肌に温もりを感じるように、電子音に暖かさを感じる。人はもっと、機械のキモチを感じていいと思うのです。
内容のほうは微笑ましいラブコメ中学生日記。世界の何もかもが不思議に彩られていた時代を、こんな風に感じられたら良かったのに。お勧めします。
昔々に少しだけ付き合って振られた女が転がり込んできた。
まぁ色々と大変そうなのだが、こちらもタイヘンなのだ。
……小さな幸せや悲しみや、出来事を大事に、丁寧に積み重ねて、ぼくらは生きてゆく。
ようやくの第四巻。
主人公、好きな事を仕事として目指すようです。それでも日常は変わらないし、お人好しも変わらないし。
……そういう道があるのかも知れない。そう思いました。”地に足のついた仕事”なんて結局大きなものに寄りかかっているだけだし、頼れるものがほんのごく小さなものだとしても、それを基点にしていいのではないか、それを大事にしていくだけで充分なのではないか……
がむしゃらにならない、ある種の地道さがあるように思えます。
しかし、いいなぁ。面白いなぁ。ラブコメだなぁ。みんな可愛いなぁ。