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DEC '97



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◆CONTENTS◆

今年の10大ニュース
’97年@伝説の男PART1
九州支部大会参加記録(12/25加筆)
伊丹十三氏を悼む
三船敏郎氏も亡くなる


今年の10大NEWS


 1997年もあと僅かとなりました。みなさんの今年の出来事で印象に残る物は何だったのでしょう。木村に取っての10大ニュースを1足早くまとめてみたいと思います。

1,ヒ・ミ・ツ
2,石川巧氏(山大)祝婚約
3,神戸小学生殺傷事件
4,金融不安ーー山一証券自主廃業など
5,臓器移植法案成立
6,北海道旅行でアイヌ部落を訪問
7,山大人文学部非常勤初体験(美人多し)
8,7/10カシオペア発売&購入
9,甥っこ宮口直也の小学校入学
10,花田俊典氏(九大)キーボードの1本指打法で腱鞘炎(2の方の情報→2本指(時々1本指)打法の誤りでした。
10,アムロ結婚

 プライベートでは、心が弾むようなことは殆どありませんでしたね……。友人達や先輩のお身内にご不幸が多いのも、今年の僕の印象に残りました。まあ30も過ぎれば、人生が見えてきますからね。
 それにしても、金融不安や環境問題など将来(老後)に不安を抱かせられる問題・事件がやたら多かった様に思います。感覚的に受け入れられない臓器移植法案。先日成立した介護法案なども、介護認定が主観的で問題含みですし、お先真っ暗に近い灰色ですよ、全く。
 腹が立ったのは、カシオが先日カシオペアA-51V(処理速度が向上している)を投入したことだ。5ヶ月で新製品を出すとは、ユーザーをなんだと思ってけつかんねん!!


’97年@伝説の男PART1


 旧聞になるが今年3月慶応大学湘南藤沢キャンパス(SFC)から1人の教官が去った。SFCは最先端の電脳キャンパスで、会議や休講の連絡など諸事メールを使うことが標準化されている。しかしこのPC嫌いの教官の為に、印刷物を配布しなければならないという事態になっていたそうである。その人の名は、江藤淳という。今大正大で教えておられるそうだ(事務員が泣いているだろう)。


九州支部大会参加記録

11月29日(土曜日)大会1日目

 6:15に宇部新川を出て、13:10に西鹿児島到着。とっても暑かった。20度を越えていた。日差しが暑くツイードのジャケットにシャツをきているだけなのに、汗が出た。鹿児島の人はやはり色が黒い。バスで鹿児島県立短大に向かう。会場に入ったときには、最初の方の発表が終わるときだった。

石川巧氏(山口大学)「書生たちの夏 宮崎湖処子『帰省』論」
 明治20年前後の「書生小説」とは一線を画したとされる「帰省」は、徳富蘇峰の青年を創出するエクリチュールと呼応したものであった。「帰省」(明治23)の出た明治20年代は、官僚登用機構の整備にあわせて近代教育システムが確立される頃であり、地方から東京を目指して遊学する書生達を対象に「地方生指針」「東京遊学案内」などのガイドブックが販売されて、「立身」を目指す書生の就学の便をはかった。遊学には本人の「立身」だけでなく、彼を通じて故郷に都市の文化を伝えるという意味もあった。その機会となるのが夏休みなどの休暇であり、地方での書生達には帰省を通して都会での体験を大勢の人間に伝えることが期待されたという。
 そのような遊学生として湖処子は位置付けられるのだが、帝国大学の学生になりそこなった彼は期待と挫折を抱いて上京し、東京でさまざまな挫折(失恋・学業の挫折・父の死亡)を経験することで、近代や前近代ともことなる第三の選択肢を撰ぶことになると指摘された。「帰省」という作品は、湖処子の理念・理想の基づいた「故郷」を再構成したものであるが、蘇峰=民友社は作品を民友社イデオロギー(「田舎紳士」の創出)の浸透に利用してしまった。それは、湖処子でなくても他の誰かに書かせることも可能であったろうと展開された(蘆花とかネ)。蘇峰の「帰省」評価には、ルソー思想への「感染」があるのだが、それが距離を生じたとき、蘇峰と湖処子の別離も生ずることになった。
 テクストの特性に着目した見解としては、学問の表象として<文字>=東京の知識人(代言人など)に対して、<声>=田園世界を対置した「帰省」は故郷の人々の声が聞こえてくるテクストであり、教養を拒絶する湖処子のスタンスが示されているとする。また。湖処子の作品に共通する「告白」が彼の文体の基調をなすこと、そこで自己の欲望や幻想を省察する誠実な姿勢をとるスタイルが独歩・藤村に受容された事、「帰省」に描かれた<故郷>がルソーの影響下に再構成された、<自然ー自由ーふるさと>という幻想的で胡散臭い構図を描いていると述べられた。
 いつもながら、詳細な横書きレジュメと豊富な資料を添付されて、サービスが行き届いている発表である。僕はいつも石川さんの発表資料を貰うと、得した気分にさせられる。ただ瑕瑾というべきは、シャツをパンツの外に出す格好だ。これは若者風を真似ているのであろうが、やはりおやめになった方がよい。

 花田先生の発表が始まる前に、長野先生と話す。長野先生は、たまごっちを操作していて、「すぐへびっちになってしまうんですよ。これになるともうすぐ死ぬんですよね」と言うのであった。そこへ横手先生がやってきて、宇部での読書会の労いをいわれたあと、長崎から6時間かけてきたが、みんな運転を代わってくれなかったと大変ご立腹であった。「先生ってやさしいから」というと「人がいいんだよね」と自分でおっしゃっるので苦笑する。いい人だ。

花田俊典氏(九州大学)「『舞姫』素読ーー王様の耳はロバの耳」
 花田氏の発表は、高校の指導書を書いているところから、もう一度「舞姫」を再検討しようと思ったということから説明された。従来の「舞姫」論の内容問題を要約紹介されたあと、いくつかの項目に関して詳細に分析説明を加えられた。
 印象に残ったのは、まず、語られなかったことに関して、豊太郎が自分の生い立ちを語る一方で、エリスとの生活を概略しか語らないこと。天方伯に拾われたが、それは翻訳家としてであって従来の法律家としてではないことを区分しておく必要があることなどであった。豊太郎の<弱性>とエリスの<聖性>の項目では、エリスの聖性について絵にもかけないほど素晴らしい。兄・妹の関係から恋人、そして妊娠をへて母性に目覚める存在へと、ほぼ完全無比に語られている。欠点といえば男をみるめがないことだ(会場・笑い)。それに比べて豊太郎の弱性としては生まれながらの「弱き心」をもち、それに無自覚な語りであると指摘された。<偶然>の問題では、豊太郎の人事不省の間に相沢謙吉がバタバタと処理をしてしまう。研究者は、「信じがたい偶然」とし作者の意図的な作為をみて構成上の破綻と評価する。しかし「舞姫」はそういう作品なのであるとされた。相沢に関しては、豊太郎が解職された時に官報でそれを知り、あたかも豊太郎がドイツに留まることを見越したかのように新聞社の仕事を斡旋することもあった。また偶然という点では、母の死とそれに伴うショックでエリスと結ばれてしまうことなど、偶然が物語を進行させているが、「偶然」か「必然」解釈の分かれるところではあるが、語り手が偶然のように物語ることを重視しようとされていたと思う。豊太郎(語り手)は結局「舞姫」において自己救済を企図していたのであり、豊太郎のいう「弱き心」は彼の自己認識の問題を示すキーワードとなる。つまり語り手は「生まれながらの弱き心」に原因を求めようとしているが、それは母親に育てられたせいかも知れないが、犠牲になるエリスには落ち度はないのである。しかし語り手は無自覚のうちに、自らの行為を自己正当化しようとしており、鴎外はそのことに気付いているように思える。明治21年の小説としては良くできているのではないかと、一応の評価を示されていた。
 このあと、大会中最も多い人数の質疑が見られたが、これは発表の内容からか、花田先生というキャラクター故のものか僕には判断が出来ない。
 ところで今回の発表者の中で、1番多く発表資料を準備された方は12枚だったが、花田先生は1枚(一人だけA3)であり、それも「石川ッ、今日は何分喋ればいいんだ?」といったとかいわないとか、発表を気合いと「話芸」で乗り切ろうとする強者であったことも、一応書き添えておこう。

  発表が終わってから懇親会会場に向かいながら、石川さんと花田先生と話す。お2人は発表を普段着でやったので、関西風のばっちり決めて発表するという習慣になれた僕にはかなり奇異な風体に映ったのだった。院生の発表者がスーツネクタイだったので余計にこの落差が目立ち、どうしても「普段着で発表する人を初めてみた」といわないわけにはいかなかった。
 石川さんは「そーかなー」といったが、花田先生は「大体シャツを外に出すようなだらしない格好はいかん 」と石川さんを攻撃するのであった。ハイネックのセータにコデュロイのパンツ姿でスニーカーを履いているこの御人に、「そーゆー自分だって大して変わらないじゃないですか」と石川さんも反撃したが、「いや、そんなことはない」と強弁する花田先生は、上は中学生の一歩(かずほ)クンを持つ良いオジサンなのだった。「……五十歩百歩ですよ」と、僕は云った。
 ま、たしかに発表は内容だからとは思ったが、関西でこれをやると、何年かは伝説になることは間違いない。しかし僕はこの2人の本質主義というか、結局服装なんかどうでもいいやという無頓着さが貴重に思われるのだが、そう言うとこの2人を除く九州支部会員は、みな反対するだろうなあ。
 金龍という店でうちあげ。焼肉&ビールの食べ放題飲み放題。関谷先生や広瀬先生、清原先生と話す。 広瀬先生・関谷・石川さんと僕の4人のテーブルでは肉の皿1枚が結局なくならなかったが、御隣の石井・花田・瓜生・清原テーブルはまたたくまに2枚めに移行し、「おめーらは若いのにあかんのう」とせせら笑う程であった。 H氏に至っては、肉を平らげると、デザートの饅頭を焼いて自分も食べ、なぜか関谷さんに食えと与えるのであった。化け…もとい実に健啖で「まめ」な方である。
 2次会は北九大で英語を教えている人と話す。橋の文学における表象を研究しているということだ。おかあさんがノルウェーの方でおとうさんがドイツだということだ。日本で就職で差別され、アメリカでも就職に差別があると憤慨していた。
 会場を出ていよいよ宿泊するホテルを探すことになる。中原・下野両先生と別れて、しばらくすると横手先生が目の前にヌッとあらわれて、「長崎組はどこへいきました?」と悲しそうにお尋ねになる。「あちらへいかれましたよ」と西鹿児島方面をさし示すと、慌てて追っていかれたのだが、自動車の運転をさせられるわおいてけぼりをくらわされるわ、とても御気の毒であった。


11月30日日曜日大会2日目

 9:00過ぎに会場に入る。石川さんと話していると、昨夜ホテルにチェックインしてから鹿児島ラーメンを食べに出たという。確かこの人は昨夜、焼肉の食べ放題で腹一杯飲み食いしてから、二次会でも福岡大院生の女の子2人のお酌で、中原さんと鼻の下をのばしながらビールやらおでんやら飲み食いしていたのではなかったかと思い、心底キョウクしたのであった。そういえば、石川さんには、「石川の替え玉」という伝説がある。批評理論の会の飲み会の後、石川さんが1人でラーメン屋に入り、長浜ラーメンがおいしくて4玉も替え玉したというものだ。替え玉というのは、九州系のラーメンで麺だけを追加注文することをいうが、ふつうは1回である。本人は「2玉だけ」といっているが、別のところで4という数字を聞いた人がおり、また或人は6だという。とにかく石川さんという人は、勉強もよくするが、食べることにかけても凄まじい。おまけに面(麺)食いなのであった(スイマセン内輪にしか分からんギャグです)。
 そうしている内に、関谷さんの発表がはじまった。「土」についてである。しかしなんか会場が酒臭い。二日酔いの連中が入るらしい。1日しか学会のない関西では、体験した事がない。

関谷由美子氏「『土』試論ーー<境界>を越える者達ーー」
 ここでいう<境界>は生と死の境界であり、また世代を越えて結びついた勘次とおつぎの関係を意味している。従来の「土」論では救いのない登場人物達に和解の時が訪れるというような把握のされ方がしていたが、関谷氏は示されたのは、全くそのような把握からかけ離れたものであった。発表では、母親のお品が死ぬとともにおつぎがその役割と位置を作品ないでしめるようになって行くが、それは「源氏物語」以来の紅葉の「多情多恨」にも確認されるような伝統的発想が認められることを指摘された。また、1から10までおつぎの年齢がコンスタントに刻まれるにも拘わらず、11〜15では、おつぎの18歳から19歳の秋まで1年半も一挙に時間が飛んでいることを指摘されて、ここに勘次とおつぎの近親姦が生じたのではないかと述べられた。そしてそのことは12で村人の間でも共有されるような「共同幻想」となっていることを明らかにされた。ちなみに近親姦については、野口武彦によると、近世では近親姦には罪意識が稀薄だそうだが、幕末ころから罪意識が芽生えてくると云うことだそうである。
 僕などは「土」を読んで以来、このインセストタブーがあったのかどうなのか気になっていたのだが、その疑問が見事に氷解した。しかしそのような関係というのは、結局父親によるレイプなのだろうから、そのような状況を生ずる父権の問題や階層の問題に発展して行くことになるのだろう。関谷さんはとくに性的虐待に付いては展開されなかったが、フェミニズム的には見逃せない問題であるはずである。
 ともあれ「土」の世界が包蔵している意味の多様性を教えてくれたスリリングな発表であった。

瓜生清氏(福岡教育大学)「藤村とクロポトキン『田園・工場・仕事場』」
 島崎藤村に親炙した木村荘太の証言・エピソードを通して、藤村のクロポトキン思想の受容の実体を検討されたもの。藤村は木村荘太にクロポトキンの『田園・工場・仕事場』の「頭脳労働と手工労働」を、特に読むことを勧めたと言うことだが、この中に頭脳の教育と手仕事の教育の大切さが説かれていて、藤村はそれを自分の生活の中でも原稿刷りや障子貼りなどの仕事として実践していたということだった。木村は大正7年に「新しき村」に建設に参加したが、理念であった平等な労働・余暇の使い方で村内に対立が生じ、武者小路に進言したが改善されないために、ついに離反した。関東大震災後は自給自足の農業の生活に入り「晴耕雨読集」のなかでクロポトキンに言及するようになるように、クロポトキンに心酔している。「田園・工場・仕事場」はのちに改訂版として「農工業の調和」として出版されているが、この中ではアダムスミスの分業論への批判がされており、分業は奴隷の労働力であると位置づけられ、自分で生産・消費するのが理想とされた。藤村が手仕事に示した愛着は、実はこのようなクロポトキンを読むことから来ていたのである。また藤村が専門・分業制度を批判したことについても、専門家意識の中に潜む弱点ーー人間の全体性を損なうことーーを認識していたからであると述べられた。

赤井恵子氏(熊本学園大学)「漱石の評論について」
 夏目漱石を褒めすぎではないか。彼の業績をきちんと腑分けした評価が必要で、例えば漱石にはアメリカという国を殆ど評価していない。刊行中の「漱石全集」の評論中にアメリカが出てくるのはたった1行にしかすぎない。漱石といえども時代の枠内に生活していたことを失念してはいけない。カソリシズム・大陸についても殆ど知らないと言ってよいと、いきなり強烈パンチで始まった。
 赤井氏は今まで漱石の思想を取り上げた論考を4本発表されているので、それを読んだ方が、彼女の「腑分け」の内実は明らかだろう。発表はキーワードがなんなのか分かりにくくて、話題がぽんぽん飛んでいくような印象を受けたが、「私の個人主義」「点頭録」について、イギリス経験論からドイツ観念論を批判していると言うところは、なるほどと納得させられた。漱石の思想性については、「保守」思想と位置づけてよい。漱石が取り上げた本への遡及が必要であることを指摘された。また作品から漱石の「思想」を抽出することは可能なのかと、安易に「漱石」のエクリチュールを紡ぎ出すニューアカデミズム派の方々を批判されていた。
 質疑の時間で、石井和夫氏が「漱石は作家なのであって、思想家として評価するのはいかがなものか」と疑念を表されたが、「どうして作家ということに限定しなければならないのか、分からない」と応酬されるなど、興味深い応酬が見られたのだが、議論がかみ合わないために「平行線だから、もういいです」と石井先生が質疑をうち切ってしまった。会場の空気がパリパリ凍っていった。漱石の評価軸が共有されていないことから議論が最初からかみ合わず、赤井氏の方からもう少し「思想」面に着目する意義を説明していただければ良かったかと思う。漱石研究者だから漱石の思想を研究するというのではなく、同時代の中でどれくらい強度を持ちえた言説であるのかが明確に説明されないと「思想家」として評価するというのは難しいのではないか。明治ジャーナリズムの中の1人としてしか、漱石を見ていない僕には、そう思われるのであった(我々の年代は悪しき相対主義にはまっていてーー新人類・シラケ世代ともいわれましたがーー絶対化ができないんですよねーー)。


 九州支部大会では、殆どの発表が教員による発表で、先端的なものから堅実なものまであり、全体的に満足度が高かったようにに思う(これに比べると関西支部などは、殆どが院生の発表で出来不出来の差が恐ろしいくらいである。懇親会に出るために出席しているのではないかと思われるくらいだ)。
 さて大会終了後、奥野先生・広瀬先生・石井関谷夫妻・花田先生・石川先生とファミレスで昼食をとったあと、広瀬先生・石井関谷夫妻・花田先生・石川先生とバスで古本屋に行く。電車の時間が来たので、僕は一行と別れたが、後で石川さんに聞くと、あのあと石川さんは花田先生に誘われ、広瀬・石田先生と食事をして、九州に一泊することになったのだそうだ。夜はしゃぶしゃぶだったそうだが、翌日博多に戻ると花田先生に昼食に誘われ、石川さんは豚カツを食べることになった。29日が焼き肉の食べ放題だったので、都合3日間殆ど肉ばかりを食べつづけていたことになり、その事でつい苦情をいうと「お前はワガママだ!」(??)と怒られてしまったそうだ。
 ウーンいいコンビだ。

 

■附記;このレポートは基本的に事実に基づいていますが、花田&石川両氏に関しては多少の誇張も入っております。



伊丹十三氏を悼む

 12月21日深夜、俳優であり映画監督としても評価の高かった、伊丹十三氏(64)がビルから投身自殺をされて亡くなられた。 原因として「遺書」に触れられていたのは、英会話学校で知り合った26歳の女性との「援助交際」疑惑を、抗議したにも拘わらず写真週刊誌「FRASH」が掲載する事に対し、死を賭して身の潔白を証明するためということであった。
 「遺書」の内容を新聞報道で読んでも、そんなことで自殺するような人ではないと思っていたので、いまだに信じがたい。彼が死ぬことで、相手の女性はさらにマスコミの取材の標的にされるだろう。スキャンダルが起こった場合は、それが本当なら相手を庇う行動に出るはずであるが、そうしなかったのは、やはり潔白なのかと安心(?)に似たような気持ちにはなった。
 しかしそれなら法的に争えば良いことであって、わざわざ死ぬようなことではあるまいし、いい分別を備えた爺さん世代がやるような事ではない。
 伊丹十三の心に何があったのかは分からない。しかし弟子筋の周防監督が取材に応えて、「クリエーターには、暗渠に落ち込むことがあるので本当に怖いことだ」というような内容を述べていたことが印象に残った。人間、鋼鉄のような神経の持ち主はいない。精神的な波の悪いときに、変な取材が入ってしまって追いつめられたのではないかと思われる。人生イヤになる、そんな時だってある。魔の一瞬という奴を、すり抜けながらかろうじて人間は生きているようなものだろうから……。
 あの風刺の効いた、人間の本性があらわれる一瞬を切り取る新作がもう見られないというのは、大きな人生の損失のように思われる。


三船敏郎氏も亡くなる

 「7人の侍」「用心棒」など骨太な演技で知られる三船敏郎氏が24日なくなった。剛胆にして繊細、はにかむような男を演じても巧かったし、「悪い奴ほどよく眠る」のような暗い陰を背負った人間を演じても巧かった。医者の役もよかったのではないか。
 私生活はともかくとして、勝新に続いて個性を放った良質の俳優がまた一人いなくなってしまった。
 現役で今のところ安心できる俳優さんは、仲代・山崎・緒方くらいか。中堅では、役所・竹中(?)・イッセー尾形くらい。若手では、浅野君と最近頑張っている阿部寛くらい。大丈夫か?日本の映画界。

 それにしても生きるというのは、獲得する一方で、失う物も多いなあ。最近その比率が後者に傾き掛けているのは、やはり折り返し地点が近づいている為なのかな。そのせいか、最近人間が面白くて仕方がない。また実際面白い方もいっぱいおられるのだが、人間は見飽きない。でも鴎外のように人生の観察者にならないよう気を付けねば。これが今年最後の自戒の言葉ですかな。(12/25記)