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観客の学校・甲府校リポート
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■■第5回 2002年11月2日(土)
第5回観客の学校のゲストは、甲府市教育委員会の数野雅彦さん。史跡整備の仕事のかたわら、甲府ウィーク『とことん甲府城下町』ツアーの企画などを行う数野さんは、ツアーのインストラクターとしても人気が高い。30名の参加者のうち、「観客の学校」は初めてという数野さんファンもいらして、講師の先生によって観客層が変わるのも面白いところだ。つなぐNPOは「まち歩きツアー」も重要な事業内容と考えているので、実は本日は数野さんのお話からいろいろなヒントをいただこうというねらいもあった。
■1時限 甲府城下町の楽しみ方
数野雅彦(甲府市教育委員会文化芸術課史跡整備担当)
甲府の人はみんな知っていることだけど、
甲府城跡は現在整備中。 整備と並行して城下町の発掘調査が進められている。本日はその最新発掘ニュースをお聞きする予定だけれど、数野さんがまず参加者に問いかけられたのは、「なぜいま甲府の城下町のことを勉強するのか」ということ。
答えのヒントは、全国の人を対象に行われた「住んでみたい町」のアンケート結果にあった。このアンケート、昭和30年代、40年代には、東京・大阪など、仕事にも遊びにも便利な大都市が人気だったのが、平成になると人気は京都や鎌倉、仙台、
札幌、 神戸など、「自然が豊か」「歴史伝統がある」「町並みが美しい」といった特徴をもつまちが主流となった。それにしてもショックなことは、ベスト100までに山梨のまちが1つも登場しないこと。自然は豊か、
武田信玄という歴史的スターもいる甲府のまちなのに、
なぜ人気がないのか。数野さんは、甲府に欠けているのは町並みだという。
確かに甲府は戦災で伝統的な町並みが焼けてしまった。だからこそ今、かつての甲府がどのようなまちづくりを行ってきたかを学び、町並み整備を行うことが、
甲府を人気のあるまちにする鍵になるというのだ。納得である。
さて、 甲府城下の地図を見ながらの数野さんの説明は、わかりやすい。ここでははしょるが、武田家が滅び、豊臣・徳川の時代に形づくられた甲府城下町が、19世紀後半にはおよそ1万6千人から1万8千人の人口をもつ大きなまちになっていたこと、また、
まち自体がきちんとした都市プランに基づいてつくられていたこと、
特に近世の甲府が、中世の面影を残した伝統的な地区と、
最先端の都市計画に沿って碁盤の目状に整然とつくられた新興地区との2つの要素をもっていたことなどがわかってくる。甲府城下は当時から広い道が整備されていたため、現在私たちが使っている道は実は400年前の道そのままだといわれると、
当時の都市計画の水準の高さもわかろうというものだ。
他にも発掘調査からわかることがいろいろある。
トイが発見されて、城下町には相川から飲み水専用水を引いていたことがわかったり、
割られた石臼が発見されて、 江戸時代の人々は農具をただ捨てることはせず、
割って道具の魂を抜いてから埋葬していたことがわかったり、あるいは当時のトイレを見て、昔の人が紙でなく、
チュウギと呼ばれる棒(!)を使っていたことがわかったり。あるいは砂の敷き詰められた道が見つかったおかげで、
武家屋敷の道が当時からすでに舗装されていたことがわかったり、当時の武家が肥前から取り寄せた伊万里を使い、
庭には鳥の水場をつくるなど、なかなか風流な生活をしていたらしいこともわかったり。もちろん一般庶民だって負けてはいない。甲府の庶民は江戸時代から既に喫茶・喫煙という習慣もあったそうだ。
と、このように発掘資料からさまざまなことが見えてくるわけだが、もちろん発掘されたモノだけから歴史を復元することはできない。でも、たとえば絵図や古文書といった資料と合わせて学んでいくと、だんだんに面白いことがわかってきて、そうやってわかってくることが、自分のまちを愛する気持ちと、まちへの自信につながってくるのだと数野さんはいう。そのための城下町のいろいろな楽しみ方を、今後も紹介してくださるという数野さんの活動、今後も目が離せない。
■2時限 UTY番組「山梨 歴史と人 甲府築城と城下町文化」上映と数野さんのコメント
これも山梨の人ならみんな知っていることだけれど、甲府城に天守閣がつくられたかどうかには大きな論争がある。甲府城に石垣や屋敷が築かれ城下町が発展したのは確かなことだけれど、私たちが「お城」と聞いて思い浮かべるような天守閣があったかどうかの記録は残されていないのだ。
で、あったとしたらどんな姿だったのかを、コンピュータ・グラフィックス(CG)で再現したテレビ番組が最近つくられた。それが、「山梨 歴史と人 甲府築城と城下町文化」だ。
この番組中のキーパーソンは、豊臣秀吉の命を受けて甲府城を整備した浅野幸長(よしなが)だ。その後「関ヶ原の戦い」で徳川方につき、功を得て家康から紀州和歌山を与えられた幸長は、紀州の地に和歌山城を築いた。番組では、
同じ人がかなり近い時期につくった城だから、和歌山城は甲府城をモデルにしてつくられたのではないかと推測して、逆に和歌山城をモデルとしてCGによる甲府城を再現した。そして、甲府城天守閣がなぜ失われたのかという大問題については、幸長が徳川家に対する忠誠を示すため、秀吉の命でつくった天守閣を自ら破壊したのではないか、と推論を進めている。番組は江戸時代に栄えた甲府城下町の姿なども伝えて、見所がいろいろあったが、今回のCGによる復元作業により、新たな謎も見つかったという。今後も十分な調査研究をもとに、歴史的建造物の正確な復元を進めていきたいというのが番組の結びの言葉だった。
さて、 この番組が「天守閣あった派」だとすると、
実は数野さんは「なかった派」である。数野さんによれば、残された絵図や、石垣内の瓦の出土状況などから見て、甲府城は天守台まではつくられたけれど、天守閣そのものはつくられなかったのだろうということだ。また、
当時の城は政権をもつ人の意向に沿ってつくられていたので、もし甲府城天守閣をつくっていたとしても、
徳川時代の白壁スタイルではなく、豊臣時代の板壁に黒漆塗りに金を貼るというスタイルになっていたはずだともいう。だとすると、和歌山城をモデルにすることには検討が必要になる。「あった派」も「なかった派」も双方に考えがあり、この論争、
かなり面白そうだったが、ともあれ本日の「観客の学校」はここまで。
実はこの日の「観客の学校」には、甲府の商工会青年会議所の方も参加してくださっていて、計画中の城下町探索ツアーのために、「つなぐNPO」も協力させていただくことになった。本日のお話も参考にさせていただき、つなぐNPOは来年、甲府市内巡りを楽しむさまざまなツアーを企画する予定だ。天守閣の論争のつづきはまたそのときに。
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